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散文 中学の僕のノート

この感情はきっと嘘なんだ。ただ楽しいふりをする。辛いという事に気付きたくないから、本当の感情が怖いから、ずっと嘘をついて、それが本当の感情だと信じた。
悲しいわけでも、泣きたい訳でもないのに涙を流すのは、人がそうしているから。悪い人に見られたくなくて、いい人に見られたいからだ。
こんな僕はずるいのだろう。でも、この生き方が間違っているとは思わない。この生き方で今まで上手いことやってきたのだから「間違っている」と言われる筋合いはない。誰も傷つけず泣くことが「悪」だというのなら、「善」は一体何なのだろう。
自分の感情に正しく生きることだろうか。それがもし間違っていても?
誰かを傷つけてでも、泣くことだろうか?
そうだとすれば、「偽善」はただの「悪」ではないか。
だから、この生き方は「悪」ではない。僕はともかく、そう思っている。今、周りに同じように思っている人がいなくても、自分がそれを捨てなければ、正しくあり続けるはずだ。
感情の仮面をつけているのは自分だけかもしれないと思うのなら、周りを見渡して欲しい。あの人の感情は本当にあっているだろうか。
あの人は?
あの子は?
彼は?
どうなんだろう。実はみんな同じことを考えていたりするのだ。

【中学生時代のノートに書いていた散文】
私は、中学生高校生の頃、怒った時、悲しい時どうしようも無い感情になった時、ノートに他人のフリをして言葉を並べた。
悩みを性別を変えて、立場を変えて描いた。そうすると適当に悲しくなれるし他人の感情として昇華できる。
兄とのことなら、主人公を僕にして姉との会話にする。そして、その僕が思ってそうなことを私が書き連ねる。
その思いは私が思っていること、とは限らない。いや、どうだろう。思ってたんだろうか。ちょっと臭いことを書くことで、くだらないものに出来た。自分の感情なんてチープなもので、思い悩んでいても意味が無い、そう言い聞かせることが出来る。泣いてるだけじゃ足りなかった。泣いてる自分が嫌いだった。
だから、文章を書いた。
この方法はおすすめだ。
厨二病臭くて、しょうもなくて、無意味な文章。今見たらそう思うけど、その時の私を救ったんだ。

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