見出し画像

あの頃わたしは許されたかったんだ【『放課後カルテ』】

思い出す、あの頃の痛みを。
あの頃、わたしは許されたかったんだ。
救われたかったんだ。

母がドラマの『リエゾン』をテレビでつけたので見ていた。
Twitterの広告でよく見ていたし、いい漫画だと思っていた。実写ドラマに適した作品だろう。

しかし、私はなんとなく苦しくなって、拒絶したくなった。

発達障害を久しぶりに会った同僚に突然カミングアウトする主人公とか、

痩せてないと友達が居なくなると怯える拒食症、そして過食嘔吐の女の子とか、

私は何故か嫌悪感でモヤモヤした。
それで許されるなんてズルいよって。
友達なんて障害なくてずっと仲良くしてたとしても一瞬で消える。
悪口を言って仲間はずれにされて、私以外の人の友情を燃やすためのものじゃんか。

どうせ誰もいなくなるのに。
痩せていようが、太っていようが、
可愛かろうが、可愛くなかろうが、
どうせ誰もいなくなるのに。

完璧でなければ、嫌がらせを受けたとしても被害を訴えてはいけないものだろ。
一点の曇りもない人間でなければ、自分が受けた苦しみも受理されず、「あなたも悪いのよ」と言われてしまう。
汚点なんて許されない。
だから、出来ないことでも絶対に完璧にして、意識的に完全な人間になろうとした。きっと他の人よりもずっときっとできる人間だった。

今も、そうあるべきだと思ってる。

だから、たぶん、リエゾンの彼らにモヤモヤしたんだろう。
そう思っていた。

ああ、『放課後カルテ』が読みたい。

読まなければならない、と感じた。
なんとなく最近『放課後カルテ』のことを思い出していた。

なんでかは分からない。

今日、リエゾンを見た事でそれは実行しなければならないことだと感じた。

最近は、『リエゾン』『コウノドリ』『ちいさいひと』『透明なゆりかご』など、人の心と体の話をテーマにした作品が注目されている。

いままで日本で浸透してきた精神論ではダメだとみなが気づき始め、自分のこととして病気のことを、そして、身近な事として心と体の繋がりについて知ろうとしているからだろう。

その筆頭となった『コウノドリ』よりも前に連載されていた作品が『放課後カルテ』だ。

講談社の「BE·LOVE」で2011年から2018年まで連載されていた小学校を舞台にした医者が学校の保健室での先生になる話だ。

その頃、私は10歳か11歳かそこら辺だった。
初めて出会ったのは、たぶん、スーパーで母が会計をしている間に立ち読みしたときだった。

もともと、『ちはやふる』が好きでたまにグッズのために買ったりしていた。その時もちはやふるを見るつもりで読んだんだと思う。

私は今でも初めて読んだ回を覚えている。

単行本3巻の最後の話「カルテ#14」の男の子の話だ。

彼は、小学六年生で受験生で、周りのみんながバカに見えて「学校なんて大嫌いだ、今すぐ体が悪くならないかな、お腹痛くなれ、もうどこにもいかなくてすむように」と祈った結果、足が動かなくなる。それは【転換性障害】という病気で、心理的な苦痛を身体症状に置き換えることで対処しようとするものだそうだ。

それを読んで、私は私もそうなれないかと思い続けた。共感をしたんだ。

だけど、私はその病気にはなれなかった。

どこかで「鬱の症状として、背中の痛みがある」と聞いたら、自分も背中が痛いような気がして保健室で「頭が痛い、あと背中が痛い」と言った。

だけど、私は鬱病にはなれなかった。

放課後カルテのキャラクターたちはみんな、そのときの私と同じ歳の子が沢山いた。
みんな、私と同じように苦しくて悲しくて、沢山考えて、頑張って頑張って頑張って、体を壊す。

主役の学校医、牧野先生はそのSOSに気づく。

気づいてくれる。

それが救いだった、みんなにとって。
みんな気づいて貰えたことで現実と向き合え、対処してもらえる。

私は、登場人物に代理的に救われてもらっていたのだろう。

私の悲しみも苦しみも、この子と同じで同じように考えてるわけだから、この子が救われたのなら私も救われたということだ。

そう思った。

だから、この漫画が大好きだった。

いっぱい考えて苦しくなってるのは私だけじゃないんだ。

そう思うと救われた。

大丈夫、大丈夫。
小学五年生のとき、新聞係でオススメの漫画で紹介した。
小学四年生のときは、私は不登校だった。でも、牧野先生みたいに私を見ててくれる人がいると思った。

そう思っていた。

でも、私は4巻までしか持っていない。
16巻まで出ているのに、私は4巻までしか持っていない。

それは何故か。

小学六年生になったからだろう。
そして、中学生になったからだろう。

学年が上がり、先生が変わってしまった。
そのとき、世界はまた地獄になった。
やっぱり、誰も守ってはくれない。戦って、傷ついてもなお、世界は敵ばかりだ。

牧野先生はいない。

偶然、その担任の名前が牧野だったのも原因だ。

こんな世界はないんだ、
漫画はどうせ作り話、助けにはならない。

なんて思って、読めなくなった。
救われたキャラクターたちが恨めしくなった。

あの頃は何度も何度も読み返していたのに、私は本を封印した。

だけど、あのとき、この本が大好きだったのは本当なんだと思う。

久しぶりに読むとどのエピソードも涙が出て、喉の奥が痛くなった。
みんな必死に生きていたんだよなぁと。

苦しくて、もがいて、頑張ってた。

あのころ、私にこの本がなかったらもっと私は破壊的な人間になったと思う。

私は一度もリストカットも過食も嘔吐もしなかった。それは、無駄な事だと思ったから。
私は自殺を考えた時、死ねなかった。

死ねなかったから、私は一生自死は出来ないし、リスカで傷が残ったら死ねないのに生きることの難易度が上がってしまう。
嘔吐も歯が溶けるし大変なことになってしまうから、無駄なことはしたらダメだ。
今でも生きづらいのに傷が残ったらもっともっとしんどい目にあってしまう。めんどくさい事になってしまう。

そう理解させてくれた。

あの判断は正しかったと思う。
だけど、私は心のリストカットが止まらなくなった。空想の中で、架空の存在をつくりあげ悲しい物語を作り出し、その役者として泣く。脳の中でリストカットをする。傷は残らない、誰にもバレない。

だけど、多分脳としてはアドレナリンが出る。だから、ほとんど同じことだ。

未だにそのくせは治らない。

あの頃の私は、病名が欲しかった。

病名があれば、この苦しさが許されると思った。

発達障害のテストも私はグレーだった。
識字障害は少しあったけど、発達障害というほどではなく、私の生きづらさには罪名すらつかなかった。

鬱ならもう、学校に行かなくていいよと言って貰えるのではないかと思った。

病気なのに頑張ってる、って言って貰えるのではないかって。

だけど、私は何も貰えなかった。
何にもなれなかった。

病名がつけば、この苦しみも許されると思っていたのに。

そう、あの頃、私は許されたかったんだ。
逃げることを。
他人にもういいんだよ、って許されたかったんだろう。

努力も完璧さも必要じゃないって言ってほしかつた。

だけど、私はそれを得ることも出来ず、頑張って生きてきた。

だから、リエゾンの主人公のことが嫌だったんだ。努力で隠すしかないじゃないか、と。

これは、ただの生存バイアス。
私が頑張れたんだから、それで許されるなんてずるいだろう、という不寛容。

不寛容に扱われた人は、他社に対して不寛容になる。

私はそんな人間になってしまった。
理性でそれをずっと抑えてきたけれど、ダメな人間になってしまった。

不寛容になった私は、きっと人に寄り添えなくなってしまう。人のことを大事にできないような人間に。

放課後カルテの登場人物には、必ず寄り添ってくれる人が見つかる。
先生たちも最後は理解をしてくれる。

この世界が現実になればいい。

私はこの本が学校に置かれる事を祈っている。
きっと、苦しい人を助けることが出来る。
そんな力を持った作品だと思う。

だけど、それと同時に私と同じように「病気になりたい人」が出てきてしまうだろう。

みんな、許されたいんだ。
もしくは、特別になりたい。

他者とは違う存在に。
でも、そういうのも危ないんだということもこの本は教えてくれると思う。

小学生にこの本が届けばいい。

絶対にこの作品はドラマ化するといい。
小学生のドラマはたまにあるべきだし、医療ドラマも必要だ。

リエゾンは子どもの病院の話だが発達障害に重きを置いてる。
だから、似ているけど見る人は少しずつ変わるだろう。

もしくは、全話無料配信にしてくれたら良い。

絶版になってるそうで、悲しい。
私も続きが読みたいのに。

子どもたちが見られるところ、親御さんたちが情報を求めた時に読めるところに公開されたらいいと思う。

きっと今、Twitterで作者さんが1話全て公開したら話題になるだろう。

絵も綺麗だし、読みやすいし、とてもいい本だから。

私のこんな重いnoteではこの本が盛り上がることは無いけれど、

『放課後カルテ』が改めて再注目されたらいいな。
素晴らしい作品なんだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?