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ドライブアットロッキンリバー

――― あらすじ ―――
 元芸人のタクシードライバーは赤坂の街で怪しい二人組を乗せた。彼らの傍若無人な振る舞いに、タクシードライバーの心身は次第にすり減っていく。目的地に着いたとき、彼の目の前で、身の毛もよだつ事態が起きる……。

――― 登場人物 ―――
◉ 田中ナオト…………タクシードライバー 元芸人

◉ 平戸………半グレ 兄貴分

◉ 酒木………半グレ 弟分

◉ 原田………田中の元相方


【 Ⅰ.バイオレント・ドライブ】

 赤坂見附のタクシー乗り場の前は、凪いだ海のように穏やかな人波が流れていた。

 向かいに鎮座する大型電気量販店は、重いシャッターを降ろして眠りに落ちている。狭いタクシーの車内で、男は押し寄せる眠気と闘いながら、落下しそうな瞼を堪える。弛緩した頬を両手で思い切り叩き、ゆるんだ神経を張り上げる。

 ふと、バックミラー越しに後続の運転手の姿が飛びこむ。気怠い睡魔が伝染したように、顎が外れそうなほどの大きな欠伸をしていた。

 夜半をまわっても身を削るような熱波が街をすっぽりと覆っている。ぽつぽつとあふれ出す汗が首元に一粒ながれる。まとわりつく湿気を払おうとエアコンの冷房を強めた。

 ドリンクホルダーの缶コーヒーを口に運ぶ。――だが、舌にカフェインの刺激を感じることは無かった。間抜けた表情で舌を突きだし、缶を上下に振る。コーヒーの微かな残量が口の中で虚しく響いた。

「えぇ……なんだよ」

 男は頬を引きつらせながら舌打ちをした。恨めしい気持ちを空缶にぶつけるように、右手に力を込めてぐしゃりと握りつぶした。

 頭をぐったりとさせ、手元の腕時計をぼんやりと眺める。合皮のベルトが経年劣化で摩耗した安物の時計。買い換える余裕もなく、壊れるのを待つスクラップ同然の代物だった。

 針は二十三時を指していた。夜間帯はタクシードライバーの給与が割増になる分、心身に負担の掛かる事象が多い。昼夜の逆転による自律神経の乱れ、真夜中を運転することによる集中力の低下、酔客をはじめとした面倒で厄介な客への対応、表示板が『賃走』に切り替わらないかぎりは給与に換算されない上に高いノルマも要求される。多種多様な客層と話せて人生経験が積める、という理由だけで続けていくにはあまりにハードな職場だった。

 そのうえ、タクシー業界は常に人手不足だ。就労者の年齢は多岐にわたる。中には固定客を囲って月に百万弱も稼ぐベテランドライバーもいるが、それ以外の凡百なドライバー達は少ないパイを奪い合っているのが現状だった。

 折れ曲がった背中を起こそうと両腕を前方に向ける。勢いあまってダッシュボードに掛けられた運転者証が転げ落ちた。気怠そうにしながら左手をぐっと伸ばす。

 ――田中ナオト。平凡な名前だ。よくある名字にありふれた名前。凡庸そのものを言い表したようなフツーな人間。そんな自虐的なことを考えてしまう自分にも、ほとほと嫌気が差していた。

 気を紛らわそうとポケットに手を伸ばしたが、タバコも最後の一本を吸い終えたばかりだった。田中は渇望するようにカーラジオのスイッチを入れた。この時間帯、好きな芸人の番組を聴くのが、数少ない癒やしの時間でもあった。

 ムサシノ放送で毎週火曜日の二十三時から放送中の『ポムスルーズのラジオ粉砕骨折』は、漫才コンビのポムスルーズによるラジオ番組だ。

 ボケの凡打《ぼんだ》の独特の語彙力から繰り出される奔放自由なトークに、ツッコミの真中《まなか》が的確かつ冷静沈着にツッコミを入れていくスタイルで人気を博していた。

 毎週、リスナーから送られる大喜利のコーナーはネタの質が高く、他の芸人ラジオと比較しても群を抜いてメールのクオリティが高かった。凡田の出す奇天烈なお題に、リスナーたちが己のセンスとユーモアと総動員して大喜利ネタを何通も何通も送る。多いときは、何百通という膨大な数のネタメールを編み出す。それでも採用されるとは限らないメールにこれだけの熱意と衝動を込められるのは、もはや修験者の厳しい修行に近かった。リスナーの大半はお笑い好きのアマチュアだが、一部には現役の放送作家や事務所に所属していた元芸人も混じっていた。人気ラジオ番組のメール職人だった人物がプロのお笑い芸人になるケースも珍しくない。

 彼らリスナーの産み出したメールの数々に、田中は仕事のストレスを発散して貰っていた。

 時事の話題を扱った定番ネタ、生真面目な題材と見せかけた下世話な下ネタ、人気アイドルに被虐的に扱われる悲しき男性をモチーフにしたネタ等々、リスナーの練りに練った多様なアプローチがメールに込められていた。なかでも、美女に卑下されるマゾヒスティックな男性視点のネタメールが多いのが番組の特徴で、それは多分にパーソナリティの凡田の性的嗜好に寄るものが大きかった。マゾヒストを公言する凡田は、ラジオ内でもSMクラブに通った話を喜々として話していた。相方の真中もそれを知ってか、そういったメールの読みには特に熱が入り、凡田の高笑いを引き出していた。こと、お笑いにおいては、周囲の笑い声に誘発されて観客が釣られて笑ってしまうことがままある。著名な精神科医が書いた論文には、笑いによる同調性が人間の精神を幸福に導くという研究結果があるらしい。そんなことを先輩のドライバーが喫煙所で滔々と語っていたのを田中はふと思い出していた。

 田中自身も、彼らに触発されて仕事の合間を縫ってメール投稿をしていた。胸の内から湧き出るウケたいという願望。もとい、承認欲求。今の今まで一度も採用には繋がっていなかったが、田中は根気強く投稿を続けていた。

〈えぇと続いては、ラジオネーム〝棚からボタンエビ〟からの大喜利メール。初めて聞く名前だなコイツ〉

 真中のメール読みを聴いた瞬間、田中は身体の端から端まで一気に電流が駆け巡った。身体の温度が一気に上昇し、全身から汗が噴出する。

「えっ! ウソ、読まれた……」

 ハードワークをした後のスポーツ選手のように、心臓が激しく躍動していた。

 棚からボタンエビは田中のラジオネームだ。ラジオネームはシンプルかつ自分の名字も入ってるのが理想だったこともあり、この形に落ち着いた。何度も何度も不採用を繰り返し、投稿を辞める寸前まで落ち込み、番組を楽しむ気持ちがネガティブに作用してしまう夜もあった。

 それが遂に、遂に読まれた。念願のメール採用。その事実に、田中の脳は処理が追いついていなかった。

 真中が落ち着いた声色でメールを続ける。

〈殺し屋に追い詰められた主人公が閃いた起死回生の一発ギャグとは一体なに? やばたにえ〜ん!〉

 ――永遠のような沈黙が流れる。電波の向こうの二人の気配が喪失したと錯覚するほど、何のリアクションも無い。完全なる無音、無反応だった。

 あれ、スベった……?

 心臓の鼓動がじわじわと加速する。脈打つ音は、徐々に騒音となり、いつしか鼓膜を突き破るほどのけたたましい爆音に変わっていた。まるで地雷を踏んでしまった悲しい兵士のように、全身が総毛立つほどの恐怖が押し寄せた。

〈……いっや、今日一でひっどいの来ちゃったな〜。おもくそ踏ん張ったウンコが全部透かしっ屁だった時みたいな、底知れぬ期待外れ感。ワードがハズすぎて鳥肌立ったわ!〉

〈そこまで言わんでも良いだろ、凡田。まぁ、もうちょい捻った部分あれば少しはフォローにまわれたんだけどな〉

 クソミソな言われようだった。間違いなく、紛れもなく、スベった。

 歓喜の頂きから奈落の底に真っ逆さまに蹴落とされた。美しい丘の上で華麗な花々を積んでいたら、頭上に大量のミサイルが降りそそぐような、急転直下の絶望感。

 まさに地獄としか形容できない有り様に、田中は虚しく無惨に咽び泣いた。孤独な箱の中で、哀れな男の眼から涙がこぼれ落ちる。好きな番組で自分の考えたネタを真っ向から否定されるのは、もはや死刑宣告に近かった。

 奈落の底に落ちた田中を尻目に、真中がトークを続ける。

〈まぁ、ラジオってさ、それまでの流れとかメールの読み方次第でウケるウケないが露骨に現れるじゃん。だから読む側も結構プレッシャーなんだよな〉

〈いや分かるけどさ、そんでも如何ともしがたいクソなやつもある訳でしょ? このクソメールはその凡例よ。いくら真中が至高のメニューを調理するようにメールを読んだところで、目の前のウンコを美味くすることは不可能だって〉

〈ウンコ喩えはもういいわ! そんじゃ、次はラジオネーム〝セミプロぼっち〟からの大喜利メール。お、コイツは常連だから悲惨なことにはならんだろ〉

 ――徐々に遠のいていく凡田と真中の声。眼の焦点が定まらないでいる田中は、無意識にラジオの電源に手を伸ばした。これ以上は、耳に入れていられない。というより、頭が耐えられなかった。

「何だよ、そこまで酷く言わなくてもいいじゃんか……」まるで錆びた釘を打ちこまれたように鼻の奥が痛みだした。目頭も一瞬で熱くなる、悲しみで頬が濡れる。田中は虚しく独り言を続けた。

「……しかも、オレのあとに読まれんのコイツかよ」

 田中がコイツと呼んだセミプロぼっちは、番組の常連リスナーだ。毎週のようにメールが採用され、その週で最も活躍したリスナーに送られる番組特製ノベルティのクリアファイルを何度も獲得していた。当然、メールも常にクオリティが高くて面白い。凡田と真中からも一目を置かれ、彼のラジオネームが読まれるだけで、真中のメール読みに熱が入るのが電波越しにも伝わる。実況するリスナーたちの間でも、天才的メール職人として持て囃されていた。

 番組を実況するリスナー達は、彼のメールが読まれるだけでタイムラインが一斉に盛り上がる。「セミプロぼっちさんが読まれた!」「流石はセミプロぼっちさん」「え、プロの作家?」とタイムラインが彼のラジオネーム一色に変わる。田中がフォローしているリスナーたちも同様のリアクションを見せるほど、彼の人気は高かった。

 だが、セミプロぼっちが採用される度に、田中は自分がひどく惨めに感じられた。毎週に渡って、知恵とユーモアをフル稼働してひねり出したネタメールを何通も送っていながら、全く採用されない自分と、採用される彼の間には、どれだけ深い河が流れているのか? その濁った河をじっと睨みながら、ラジオから流れる彼のネタメールに苦虫を噛み潰したような苦悶の表情で田中は笑った。窓の外に流れる都会の静寂さえも自身を嘲笑う声に聞こえ、思わず耳を塞いだ。

 ハンドルに顔を埋めて頭を垂れる。足元には夜食で食べたカップ焼きそばの麺が落ちていた。ソースとスパイスの至福の匂いが鼻腔に蘇るが、今はただ鬱陶《うっとう》しいだけだ。付属のマヨネーズをかけずに食べたことを思い出し、余計に腸が煮え返った。余ったマヨネーズをポケットのなかで忌々しく握りしめた。

 その時、窓を激しく殴打する音が飛び込んだ。部屋に入るためのノックとは違う、まるで窓を打ち破るように拳で殴り付けるような荒っぽいノックだった。

「おい、さっきから呼んでんだろうが! はやく開けろや」

 声の方を振り向くと、髪を短く刈り上げた金髪の男が田中の顔を睨みつけていた。三白眼と腫れぼったい瞼、目線を逸らすことなく射抜くような睨みを利かせている。いわゆる、メンチを切られた状態の田中は肌が粟立つほど震えていた。

「す、すいません! い、今開けますね」

 即座に開閉レバーを引いて後部座席のドアを開ける。そこには金髪の小男と、巨大な岩山が見えた――。いや、正確には、岩のように分厚い胸板が眼に飛び込んできた。黒地のトレーナー越しでもわかるほど筋肉が隆起していた。

「おい酒木《さかき》よ、運転手さんが怯えてるだろ。これから命を預ける相手に取る態度じゃねえなぁ」

「すんません、平戸《ひらと》さん」

 さっきまでの威勢が消えて敬語で話す酒木という男。富士山のような僧帽筋を携え、後方でずっしりとした構えで鎮座している偉丈夫は平戸というらしい。

「ごめんなさいねぇ、うちのモンが無礼な態度取ってしまって」

「いえ、こちらこそ、ご乗車のお手間をかけてしまい申し訳ありませんでした……」

 田中は後ろを向きながら、何度も平謝りをする。その様を一瞥した酒木が気怠そうに唇を動かした。

「だからって泣くことねえだろうよ、なぁ運ちゃん」

 突然の怒声に我を忘れていたが、瞳は真っ赤に染まっていた。流れる涙は乾くことなく頬を濡らしている。

「あ、これは……その、違うんです。別に何でもありませんので」

 男たちは特に気に留める様子もなく、田中に一瞥だけ向けて車内に乗り込んだ。

 ――だったら聞くなよと口に出したくなったが小心の田中にできるはずもなく、制服の袖で涙を雑に拭った。分厚い胸板を備えた平戸がシートに沈む瞬間、サスペンションが大きな悲鳴を挙げた。

「七丁目の霧山ビルに向かってくれ」

「分かりました」

 エンジンキーを回し、表示板を『空車』から『賃走』に切り替えてメーターを作動させる。流れる車と威圧的な二人組に意識を集中させながら車道に入る。

 六本木通りを西に向かって走らせる。田中は後方を走っていたプリウスにハザードランプを点滅させようと手を伸ばす。だが、後ろからひしひしと感じる緊張状態が指へと伝わってしまったせいか、誤ってカーラジオを再生してしまった。

「お、ポムスのラジオやってんじゃん。大喜利まだやってる?」

 酒木が身を乗り出して田中に語りかけてくる。

「あ、はい、今ちょうど終わったみたいですね」

「平戸さん、オレ結構好きなんすよ、このラジオ」

「ポムスルーズ? そういや最近見たよな?」

「この間、蒲田の高級クラブで内職《ショクナイ》してんの見たじゃないすか」酒木が窓枠に肘を付きながら、講釈を垂れるように話を続ける。「そういや、訊いた話じゃあボケの凡田のほうはタニマチの荒木から大麻《ハッパ》買ってたらしくて、近いうちにパクられるみたいっすよ」

「荒木も手広くやってるな。このご時世でも諭吉が潤ってるなんて、羨ましいわ」

 巨大な体躯をシートにぐっと倒しながら平戸が応える。

「あれだけ闇はマズいって叩かれてんのに、やべぇ連中にホイホイ付いて来るんだから、マジでアホっすね」

「需要と供給、シノギとジャンキー、だな」

 何が〝だな〟なのか、田中には理解できなかった。聞いたらマズい会話はプライバシーがあるので否が応でも口外できないし、するつもりもない。だが、それ以上に引っ掛かる文言があった。

 凡田がパクられる? あの凡田さんが?

「えっ、凡田さんマジで逮捕されちゃうんですか?」考えるより先に、田中は口が動いていた。

「オメェ、何をちゃっかり聞き耳たててんだよ? 黙ってハンドル握っとけや!」酒木の金切り声が耳をつんざき、タクシーの狭い車内を反響した。

 鼓膜を突き刺す凶音に田中の身体は小さく縮こまった。

「おい、威圧すんなって言ったばかりじゃねえか。すまんな運転手さん、だがな、客の話に割って入るタイミングはまだまだだな。仕事を始めたばかりのルーキーってとこか」

 バックミラー越しから、男たちの圧がひしひしと伝わる。身を抉る沈黙に、田中は震える唇をなんとか動かした。

「……すいません、出過ぎたマネを」激しく脈打つ心臓が喉から飛び出るのを必死に抑え、田中はなんとか二の句を紡いだ。「実は自分、ポムスルーズさんが好きでして」

 思わず、その場に似つかわしくない『好き』という言葉を吐き出していた。危機的状況に置かれた不意に吐露した想い、その事実に自分自身が混乱していた。

「そーか、何で?」

 目の据わった不気味な表情で酒木が訊く。

「へ? と言いますと……」

「何か理由あんだろ、何でだよ」

 さっきまでの強圧的な態度とは打って変わって、酒木は平板な口調で聞いてきた。

 数秒も経たずに変容する居直りの速さは、もはやサイコパスに見えた。凄まれるだけで心臓が縮みあがっていたのに、顔面を防御したボクサーが脇腹に渾身の一発を食らうように、足元がフラフラの状態になった。

 田中がポムスルーズに拘るには理由があった。尊敬する大好きな芸人というだけではない、自分の将来を決定付けた存在でもあったからだ。こんな仕事をする前に抱いてた感情が、ふいに蘇る。思い出したくないシルエットが脳裏に浮かんだ。

 ――ナオト、俺と一緒に漫才やろうぜ。

 最悪な別れ方をした、アイツの顔を田中は忘れられずにいた。

 だが、コイツらに言うのは気乗りがしなかった。田中は適当に理由を考えた。

「えーと、やっぱりテレビとかラジオでも面白いですし、賞レースでも優勝してる実力者ですから。でも、もうすぐ見れなくなっちゃうかもしれないと思ったら――」

「だからパクられるって言うんじゃねえ! クソバカかテメェ!」

 先ほどの金切り声を越えるほどの激しい罵声を浴びせられた。背筋に悪寒が走り、全身が萎縮する。逮捕とまでは口にしていないつもりだったが、怒りの沸点が低い酒木の怒気に油を注いでしまったようだ。

 隣で腕を組んで静観していた平戸が呆れたように溜息をつく。

「いい加減にしねえか、これ以上やったら運転手さんが参っちまうだろ。おめぇだって、こんな仕事さっさと終わらせてえだろ?」

「まぁ、そうっすけど」

 ハンドルを握る手がカタカタと震えていた。一刻も早く目的地に着いて、こんな輩を降車させたい。その一心でペダルを強く踏んだ。

 身震いが止まらない田中を尻目に、平戸が巨体を振るわせながら運転席をのぞきこんだ。

「なぁ運転手さん。さっき泣いてた理由、何か辛いことでもあったのかい? よければ、この平戸が相談に乗りましょうか?」

 いきなり何を言っているのか、この男は。

 よくよく見ると、平戸はつぶらで綺麗な瞳をしていた。唇はぷりっと厚みを帯びており、相対するように鼻と顎には整えられた髭が生えている。典型的なイカつい男性像だが、反比例するような可愛い瞳が真っ直ぐにこちらを見つめている。

 彼の態度はまるで、企業面接をする会社の上役のようだった。酒木とは違った意味で本音が読めない、サイコパスではないが凡庸な人間とも呼べない。田中は平戸からも底知れない恐怖を感じた。

 思い切って事実を語ろうとしたが、反社会的勢力のような人間に自分の本意を晒したくなかった田中は、思惑を悟られないよう笑いながら答えた。

「いや〜、昨日の競馬で三万くらいスッちゃって、悲しくて泣いてただけですよ。ハハハ……」平然を装うように軽口を叩いて返す。

「何、宝塚記念? オレは大穴に三連単一万ブッこんで数十万馬券に化けたぜ。帰りは吉原に行ってねーちゃんたちとウハウハよ。羨ましいだろ? なぁ?」

 酒木の下卑た笑いが車内に響いた。

 田中は一番人気の馬に賭けていたが、外したくない一心で複勝という消極的な買い方をした結果、大外しをしていた。その時に抱いた悔しさが鮮明に蘇り、怒りで奥歯がキリキリと軋んだ。

「それは良かったですね、お客さん」

 田中は気が抜けたリップサービスで少しでも自らの溜飲を下げようとした。

「チッ」

 酒木に追撃の罵声を喰らうと身構えたが、平戸に自制を促されたのが効いたようで、舌打ちだけして車窓を気怠そうなに眺めていた。 

 ふと、車のルーフに何かが当たる音がした。ぽつぽつと雨が降り出してきた。

 職業柄、天気予報は毎日チェックしていた。天気の話題は客との会話では鉄板だ。深夜の降水確率は高くなかったはずだが、本降りに近い勢いの雨量が車のボディを叩く。まるで、気の滅入った田中に追い打ちをかけるように雨粒がフロントガラスを濡らした。

「ところで運転手さん。ひとつ訊きたいんだが、タクシーってのは、貸し切り出来るモンなのかい?」

 身を乗り出しながら、平戸が不意に聞いてくる。

「そうですね、ウチは観光タクシーではないので、形式上は出来無いんですが、待機料金などを了承していただければ問題ありません」

「そうか、ちょいと小一時間ほど付き合って貰えませんかね? もちろん支払いは弾むよ、チップもね」

 平戸が人差し指と親指で丸を作り、田中に得意げな顔を向ける。

「……それでしたら、特に問題は無いと思うので、大丈夫です」

 口ではそう言ったが、田中は内心では拒絶したいのが本音だった。

 目的地までは、せいぜい数十分。そこで降りてもらえば不快な思いは少なくて済む。それが長距離《ロング》の客となれば話は別だ。こんな粗暴な連中と一夜を共にしなければならない可能性が出てくる。胃に穴が開くような状況から逃げられないと思うと、喉元に吐き気が押し寄せた。

 田中は以前、先輩のドライバーが客から多額のチップを貰ったという話を訊いたことがあった。会社からの無線で港区の高級マンションに迎車に行った際、バラエティ番組に引っ張りだこの大物司会者を乗せた。傍らには、話題作に多数出演していた人気若手女優。彼は去り際に先輩ドライバーに向かって、「これ、内密にしといてね」と諭吉三枚を渡してきた。その時は、自分もいつか高額チップを弾んでもらいたいと願っていた。だが、反社のような連中から貰うとなるとそれなりの代償を払わされるのでは? そう思うのは自然な流れだった。いっそのこと、支払いを踏み倒しても構わないから今すぐ降車してほしいと田中は声にならない声で呟いた。

「心配しなさんな、ほんの数時間の辛抱ですから。二時くらいには終わると思うよ」

 大きな図体を座席に預けながら、平戸が吐き捨てた。まるで他人事のように背中をふんぞらせながら眠たそうに欠伸をしている。

 いや、まだ三時間もあるじゃないか……。

 田中は、意識が遠のきそうになるのを何とか堪えた。

「まぁ、ゆっくり行こうじゃねえか。てか良かったな、オレと平戸さんが客でよ」

 得意気な口調で語る酒木の肩に平戸が手をぽんと置いて同調する。

「言えてるな。まぁ俺らは金回り良いからな。こんな時代だからこそ、地獄の沙汰も金次第って言葉が光り輝いて見えるな」

「そっすね。そういや、阿弥陀の光も金次第とも言いますね」

「え、何それ知らないんだけど」

「あ、いや、何でもないっす。聞き流してください」

 平戸は厚い唇を突き出しながら、酒木の顔を凝視していた。不服そうな兄貴分の態度に弟分は居心地悪そうに頭を搔いた。

 田中は二人のやり取りを黙って聞いていた。見た目で判断していたが、酒木は意外とボキャブラリーが高く、平戸は語彙力が低いことが分かった。明らかに反社会的勢力な風体の二人組の知性と語彙には開きがあるのかもしれない。田中は後頭部に意識をむけて彼らの生態を観察をして落ち度が無いか探した。溜まった溜飲を下げる隙を探すため――。

 平戸が話を続ける。

「まぁ、いいや。それにしてもアレだな。タクシードライバーと言ったら、やっぱりデニーロだよな?」

「そうっスね。トラヴィス、マジでカッコイイっすね」

「一度はナマで言ってみたい台詞だよな。『俺に言ってんのか?』ってな」

 平戸がスーツの懐に手を伸ばして銃を取り出す仕草をする。

「なぁ、運ちゃん。アンタもあの台詞言ったことあるか?」酒井が話を振ってくる。

 田中は週に一度は映画館に足を運ぶのが習慣だった。もちろん『タクシードライバー』も観ていたので、即座に返事をかえす。

「主人公トラヴィスの台詞、『ユー・トーキン・トゥ・ミー』のことですよね? 流石に仕事中に言ったことはありませんね」

 二人の会話がぴたっと止まった。バックミラー越しに映る平戸の表情がキツくなる。バツの悪そうな顔でこちらを睨んでいた。

「ん? それ、何処のシーンだい?」

「え? お客様の仰るように、デニーロの名シーンのことですが?」

 田中は重ねるように返答した。平戸は唸り声のような不快な鼻音を鳴らした。

 一際大きな舌打ちをしながら、酒木が再び怒声を浴びせてくる。

「オメェ、平戸さんに恥かかせんじゃねえよ! 字幕より吹き替え派なんだよ!」

 平戸が瞬時に首を横に振った。

「オイ待て……お前だって吹き替え派だろ?」

「いえ、オレはどっちも二回ずつ観てますよ。タクドラは何回観てもおもろいッスから」

 酒木の素っ気ない言葉に、平戸は顔を塞ぎながら天井を仰いだ。

「んだよ、そういうの言えよ。俺だけにわかみたいじゃねえか」

 不機嫌な口振りに酒木は落ち着いてくれと言わんばかりに平身低頭の姿勢を取る。

「そういうんじゃないですって。吹き替えは全然アリっすから。字幕追うのダルいっすからね。平戸さんがにわかって決めつけてる訳じゃないっすよ?」

「ホントかぁ?」平戸は野太い声で反論をしながら、ふっと息を吐いた。「ったく……。まぁいいよ、別に。お前バカだし」

 酒木は甲高い引き笑いを残して大きな欠伸をした。

 二人組の会話を見ていた田中は、平戸の語気に違和感をかんじた。怒りの込もっていない罵倒の言葉。弟分の生意気な発言に腹を立てるのではなく、ボケの振りをイメージ通りにツッコまれた芸人のような、ある種の満足感。イジられたこと自体が芸人冥利とでも言うような態度に見えた。一方の酒木も、この応酬がまるで当たり前かのように振る舞っていた。汚い言葉を吐かれても気に留める様子もない、ごく日常のありふれた光景。彼らのやり取りは反社会的勢力の上下関係とも違う、二人だけの特殊な関係性にも感じられた。友人ともビジネスパートナーとも違う別種の間柄。〝相棒〟とでも言うような。おそらくは、長い歴史を積み重ねてきたことを想起させる何かを感じた。

 田中の脳裏に、昔の〝相棒〟の顔が浮かんだ。今日にかぎって思い出したくないアイツの顔が何度も蘇る。袂を分かったはずなのに、取れないシミのように記憶の壁にへばり付いて離れない。そのたびに、過去の残像の解像度が上がっていった。

 それにしても、タクシードライバーを『タクドラ』と訳す人間は初めて見た。酒木のワードセンスを田中は内心でバカにした。はっきり言ってダサい。胸のうちで酒木を卑下することで、受けた仕打ちを相殺した。

 荒波のように激しく波打つ神経が落ち着いたとき――目的地のビルが視界に入った。ハザードランプをたきながらゆっくりと減速する。入口の近くに停車し、後部座席の開閉レバーを引いた。

「着きました」

 田中は、後ろの二人に一瞥をしながら告げる。

「よし、ちゃっちゃと終わらせるか」

「うす、奴が居るのは三階の部屋みたいっスね」

「やっこさん、散々振り回してくれたからなァ。キツいお灸が必要だな」

「半殺しまでなら良いっすか?」

「待て待て、誰がそこまでやれって言ったよ」

 いくらタクシーの中とは言っても、車内カメラが設置された密室空間で物騒な話を繰り返す男たちに、田中は辟易していた。

 この後、彼らが何をしでかすか分からない。だが、もしも事件沙汰になった時、警察から捜査として車内カメラの提出を要請されたら犯行を裏付ける証拠に繋がることは確実だった。

 巨体を振るわせながら、平戸が降車する。

「まぁ、てめぇの過ちを認めさせてやれば、カネは自ずと俺たちの手元に戻ってくるからよ」

「つまり、楽チンな仕事って訳ですね。おい運ちゃん、俺らが終わるまでそこで待ってろよ。いいな?」

 酒木が手で銃の形を作りながら田中を指差す。

 変わらない威圧的な態度に田中は胸の中で(うるせえ、にわか)と吐き捨てた。態度が表面に浮き出ないように取り繕いつつ、待機料金について念押しをする。

「その間はメーターを継続させていただきますが、よろしいでしょうか?」

「構わないよ。その間に仮眠でもしててくださいな」

 平戸が車のルーフを軽く叩きながらドアを閉める。その後ろで、酒木が肩をぶんぶんと回しながらビルの中へと入って行った。

 その姿を窓越しに追いながら、田中は深い息を吐いた。

 ――ようやく一息つける。田中はポケットからミント風味の清涼タブレットを取り出し、震える手を抑えながら口に流し込んだ。口内から鼻腔にかけてミントの香りが抜ける。不安と恐怖は拭えないが、軽いリラックスにはなった。

 人目の少ない赤坂の通りを眺めていると、スマートフォンが振動した。画面には、何年も通知の無かった人物の名前が表示されていた。

「……何で今さら電話してくんだよ、お前」

 思いもよらない着信に、田中は思わず本音が口から出ていた。

 ダッシュボードに置いたスマートフォンがバイブレーションで虚しく振動している。液晶画面を今一度確認した。やはり、田中の勝手知ったる人物の名前だった。ブルーライトの灯りが、記憶の奥底で埃を被っていた感情に光を当てる。

 思い出したくない、厚いかさぶたの残る、アイツとの過去。

 いつになっても振動が止まなかった。いっそのこと、着信拒否にしようか。しかし出来なかった。未だにアイツに言われた言葉が零れ出てくる時点で、繋がりを断つ勇気が今の田中には無かった。

 口に残るタブレットをゆっくりと咀嚼し、覚悟を決める。田中はスマホの液晶を、そっとタップした。

「……もしもし」

「おう、元気にしてた?」

「まぁ、それなりに」

「そっか。てか、仕事忙しかった?」

「ぼちぼち」

 田中はそれ以上、会話を続けられなかった。暫しの無言の時間が流れる。

 電話の主は原田《はらだ》ヒデオ。田中の元相方で、一年前に『エイミーボックス』というコンビを組んでいた。高校の同級生で卒業と同時に上京し、都内の劇場で活動していた。しかし、漫才の賞レースで結果を出せず、思い悩んだ末に、十年という区切りを期に互いの道を歩むため袂を分かっていた。

「そう言えば、お前のメール読まれてたな。良かったじゃん」

「は? な、何で知ってんだよ」

「〝棚からボタンエビ〟ってラジオネーム、学生のころから使ってたじゃん、お前」

 田中のスマホを持つ右手が熱くなった。電池の熱ではない、身体の内側から込み上げる熱さだった。数十年前のことを覚えてくれた元相方の優しさが、煩悶を続けるさもしい心情を刺激した。

 頑なに電話に出まいと足掻いたものの、あの原田にメール採用を祝われることは、うだつの上がらない日々を送る田中にとって、宙に浮いてしまうほどの喜びだった。

 現在の原田は、ポムスルーズのラジオ粉砕骨折の常連リスナー〝セミプロぼっち〟その人だった。解散後の数ヶ月は互いに連絡を取り合い、ラジオ番組の話やネタメールになりそうな芸能ネタだったり時事ネタだったりを語らっていた。次第に疎遠になっていったが、笑いに真っ直ぐ向き合う原田のスタンスと芸人時代から変わらずに磨き続けた出色のお笑いセンスに、田中は密かに憧れていた。

「で、どうよ? 初採用された気持ちは」

「……うん、まぁ、良かったよ」

「なんだよ、もっと嬉しそうにしてるかと思ったら、案外落ち着いてるな」嬉々とした口調で原田が話を続ける。「それにしても、昔から憧れてたポムクルーズのラジオで俺らが一緒に採用されるなんて、学生の頃は思いもしなかったよな」

 スベったことを突っ込まない原田の優しさに田中は胃がきゅっと苦しくなった。同時に、田中の脳裏に若かりし日の記憶が鮮明に蘇った。

「中学の頃、お前にラジオを勧められてなかったら、今ごろ田舎でつまらねえ人生送ってたんだろうな。まぁ今もクソな人生かもな」

「んなことねぇだろ。あの番組で採用されることが、どれだけ狭き門なのか知らないのか? そこらへんの深夜ラジオとは訳が違う、百通送っても一通も読まれない、そんな悲しいリスナーだって居るんだぜ。読まれただけで凄えんだよ、お前」

 喉元が急に熱くなる。原田の芯のこもった言葉に田中は身をよじらせて喜びたかった。だが田中は素直に感謝の意を表せなかった。

「俺の比じゃないくらい採用されてるセミプロぼっちさんに言われると、何かしんどいな」

 彼の称賛を受け入れることは、すなわち、スベった初採用メールを認めることに繋がる。端的に言って負けた気がするからだ。元相方に対する尊敬、そして虚しい憎悪が田中の狭苦しい胸中に渦巻いていた。

 原田はコンビ解散後、お台場にあるテレビ局の深夜番組で放送作家をしていた。毎週にわたって各事務所の若手がネタを披露する勝ち抜きのコーナーは高い視聴率を誇っており、エイミーボックス時代にも出演していた。

 そのとき田中は、審査員をつとめた関西のベテラン芸人に、「ボケの彼はセンス感じるけどツッコミの君は全然やね。せっかくキレのあるボケを何発もかましてるのに、馬鹿の一つ覚えみたいなつまらんツッコミしか入れへんから台無しや」と批判された。その批判自体に間違いはなかったが、当のベテラン芸人が過去に組んでいたコンビのいわゆる〝じゃない方〟だったこともあり、「売れてないヤツに言われたくねえよ」と舞台袖で吐き捨て、批評を頭に入れることはなかった。

 原田はポムスルーズの凡田と真中からも常連リスナーとして認知されており、投稿したメールも爆笑をかっさらっていた。SNSのリアルタイム実況でも、信者のように崇拝するリスナーが数多く居た。それが田中のさもしい性根を更にかき乱した。

 田中の乱れた琴線を振るわすように、原田が言い放つ。

「いや、しんどいってお前な、少しくらいメールがスベり散らかしただけじゃんかよ。そんなこと気にすんなって。俺だって凡田さんと真中さんに死にたくなるようなリアクションされたことあるぜ」

 田中の頬が反射的に動いた。というより、不自然に歪んだ。原田なりに励ますつもりで言ったのだろう。だが、今の彼には〝そんなこと〟という文言が、怒りの感情を掻き立てた。

「そういうフォロー、マジでいらねぇって」

 何度も何度もメールが採用される原田に、そんなお世辞のような言葉を吐かれることは、田中の自尊心を傷付けるだけだった。怒気を孕んだ言葉を落ち着かせるように、原田は口調を柔らかに返す。

「フォローとかじゃなくてさ。なんつーかさ、そんなもんじゃないだろお前の腕は。バラエティ呼んで貰えたときだって、MCの千脇《ちわき》さんにハマッてただろ? 『お前の顔、逆三角形やないか』って言ってもらえたじゃん。客席もウケてたし」

 二人は解散する数ヶ月前、事務所の先輩芸人の千脇が司会をつとめる深夜バラエティにバーターとして呼ばれ、わずかだが爪痕を残していた。あの時の客席からの歓声、全身が痺れるほどの激しい快感を、田中は今でも忘れられずにいた。

「でも、結局呼ばれなくなったし。足引っ張ってたのは、やっぱり俺なんだよ」

「悲観するなよ、相変わらず悪い癖は治らねえな。もしかしたら、舞台の上じゃなくてスタジオで花開く才能があったかもしれないじゃねえか? そうだろ?」

 原田なりに励ましてくれているのだろう。それは痛いほど分かった。だがポムスルーズに嘲笑された音声が、田中の脳内で不協和音を奏でた。その雑音が鼓膜にへばり付いて剥がれない、不快な雑音に精神が飲み込まれそうだった。

「……実力のあるお前に言われると、皮肉に聞こえるんだよ……」

 口を開いたときには、既に遅かった。勢いのあまり強情な物言いをしていた。原田の優しさは耳には届くが、田中の堅苦しい頭は、その淡い憐情を拒絶した。

「……もういいよ、番組にメールするの辞めるわ。そうすりゃ、お前も満足だろ」

「は? なに勘違いしてんだよ、ナオト。俺が言いたいのはそういう意味じゃなくてだな」

「とりあえず、そういうことだから。メール職人さまは雑魚リスナーのことなんか気にすんな。じゃあな」

「待てよ、俺が言いたいのはそういうことじゃなくて――」

 原田が言い終わるのを待たず、けたたましい音と強い衝撃が田中を襲った。タクシーの車体が激しくバウンドし、ハンドルに顔を何度も打ち付けた。

「な、何!」

「おい、今スゲー音したけど……」

 むち打ち状態の首を擦る。田中は頭を抑えながら、音がした方に視線を向ける。しかし、何が当たったのか、ここからでは判別が付かなかった。

 原田の不安そうな声が遠くに聴こえたが、今はそれどころではなかった。

「悪い、ちょっと電話どころじゃなくなった」

 田中はすぐさま通話を切り、車外に出て状況を確認する。

 ドアをゆっくりと閉める。音のほうに意識を集める。不足の事態に備え、重心を少し落とす。フロントの先端部の死角を、恐る恐る覗き込む。

 まるでボウリングのボールが落ちたかのような大きなへこみ。車のボディは小さい衝撃でもへこむことはよくあるが、車同士が衝突したような無惨な有様だった。視線を落とすと、人形の手のようなモノが見えた。

 冷たい汗が頬を流れる。

 そこには、血にまみれてぐったりと横たわる人間がいた。

 田中は内臓が一気に冷たくなった。見てはいけない心霊スポットを覗いてしまった不穏な感覚に、全身が総毛立つ。止まない身震いに両肩を抱えて必死に堪えた。

 顔の部分をよくよく見ると、白い地肌のようなものが確認できた。しかし違和感もあった。夜とは言え、人間の肌はこんなに白くはない。

 田中はつまらない探求心を働かせた。ゆっくりと、その人間らしきモノに距離を縮めていく。

「うそ……」

 田中は口を塞ぎ、冷たい雨の滴るコンクリートの上に、激しく尻餅をついた。

 サスペンスドラマで遺体を見つけた第一発見者のような大仰なリアクション、それほどの激しい狼狽。誇張された演出だと思い込んでいたが、本当に同じ反応をしてしまうとは夢にも思わなかった。

 地肌のように見えていたものは、顔を突き破って露出していた頬骨だった。小学校の理科室で見た人体模型の作り物とは違い、肉と皮に包まれた人間の骨格をしっかりと感じさせる。その生々しさが田中の精神の均衡を狂わせた。

 タクシーのフロントには肉を突き破るような鋭利な部位は付いていない。相当な衝撃がないと人間の身体はこうはならない。いや、人体は意外と脆いのかもしれない。以前読んだ特殊清掃員のルポルタージュには、丈夫な成人男性が快速電車に飛び込み、いとも簡単にバラバラの肉塊になってしまったと書いてあった。

 あれやこれやと考えながら、冷静を保とうと必死に足掻く。深呼吸を繰り返し、波状のように押し寄せる動悸を抑える。だが、頭と心の整理は全く追い付かない。呼吸は荒くなる一方だった。

 唸り続ける心情を落ち着かせようと深めの息を吐く。――その瞬間、頭上に嫌な視線を感じた。

 田中は反射的にビルの上層階を見やった。そこには、ベランダから地上を見下ろす平戸と酒木の姿があった。

 手すりに身体を預けて唖然とした表情をしていた平戸は、下から見ても分かるほどに顔が青ざめていた。一方の酒木は、短く刈り上げた金髪の頭を掻きながら気怠そうな顔をしている。

 ――まさか、アイツらがやったのか?

 田中は混濁した頭を回転させる。何の仕事かは知らないが、おそらく連中は反社会的勢力の類、つまり半グレで、目の前で頬骨を露出してる瀕死の人物は彼らにとって都合の悪いことをしてしまったのだろう。共犯なのか借金なのかは分からないが、ビルから突き落とされてしまうほどのことをやらかした可能性もある。

 ベランダから凝視していた酒木が、こちらを指差して凄んでくる。

 まるで、『そこを動いたら殺す』と顔に書いてあるような強圧的な態度に、田中は怯んだ。睨みを利かせたまま体を返して部屋の中に戻った酒木は、ものの数分で降りてくるかもしれない。

 どうする? 今なら逃げられる。頭では分かっているが、田中の足は硬直していた。その場から踏み出すことを拒絶するように、地面に根を張って動けずにいた。

 そもそも、ひしゃげたボンネットと血痕がべっとりと付いた車を会社にどう説明するのか? ドライブレコーダーを確認すれば理解は得られるはずだが、修理費や板金代を何割か請求されるかもしれない。田中が務めるタクシー会社は、長引く不況で給与も福利厚生もすこぶる悪かった。事件性などお構いなしに従業員にツケを払わせることに罪悪感の一つも感じないような典型的なブラック企業だ。そんな連中に、自分は被害者なんだと訴えたところで真摯に対応してくれるか甚だ疑問だった。

 一縷の望みにかけてクソ会社に説明をするべきだったが、状況が状況なだけに落ち着いて考えていられる精神状態ではなかった。雪山で遭難した登山者が白い闇《ホワイトアウト》に襲われて右往左往するかの如く、視界も思考もままならなかった。

 完全にヤバい事件に巻き込まれている――。この異常な空気が、田中の判断能力を著しく鈍らせ、冷静な判断力を奪った。

 周囲に人影は見えない。だが赤坂という場所柄、平日の深夜でも人の往来が無い時間はそう長くない。誰かに見られるのは時間の問題だった。いっそのこと、死体を隠蔽してしまおうかと思ったが、人気のない山に埋めに行って上手くいくイメージが全く湧かなかった。犯罪映画でも総じて逮捕されるのが関の山、万引きさえしたことのない自分のような平凡な人間にそんな凶行はなまじ無理だ。もはや、退路は絶たれた。五里霧中、八方塞がりの地獄だった。

「――運ちゃん、そいつ死んでる?」

 折れ曲がった背中に物騒な声が飛び込む。心臓の鼓動が異常なほど加速する。額から汗が一気に吹き出す。声の主は疑う余地もなく、酒木だった。

 田中は後ろを向くのを躊躇した。振り向いてしまったら、もう後戻りが出来ない。地獄の底に引きずり込まれる、そんな不安に駆られた。

 聞こえない振りをしつつ、腰に手を当ててリアバンパーを覗きこみ、「うわぁ、いつの間に擦られちゃったのかな……」とわざとらしく嘯いた。

「耳クサってんのか、お前。そいつは死んでんのかって聞いてんだよ?」

 田中は耳たぶを強引に掴まれた。粗野な飼い主が猫を乱暴に扱うように、酒木は田中の服の襟元を鷲掴みにした。

「えっ、し、知らないですよ!」

「勘違いすんなよ? 言っとくけど、この野郎が勝手に落ちただけだからな」

 そう告げる酒木の口調は至って冷静だった。疑心と不安に駆られた田中は全く信用していなかった。

「おい、酒木。ど、どうするんだよ、マジで?」

 周囲をきょろきょろと確認しながら、息を切らした平戸が姿を現した。その姿は先程の自信たっぷりの佇まいとは打って変わって、小物臭を放っていた。

「さっき言ったでしょ。ただの事故ですって。何の問題もないっすよ」

「……いや、お前、さっきガッツリ胸ぐら掴んでなかったか」

「つってもさ、そのあとにコイツの腹に前蹴りかましてたじゃん、平戸さん。それで落ちたんじゃね、コイツ」

「おまっ、アレは直接かんけーねぇって! だから、コイツが意味わかんねぇ言い訳ばっか言うから、つい足が出ちまっただけで……」あからさまに狼狽する平戸は頭を抱える。「……畜生、この野郎が金持って飛ばなければ、こんな面倒なことにならなかったのによ」

 面倒くさそうに鼻を鳴らした酒木は嘆息まじりに息を巻く。

「しかもカネ見つからなかったし。有馬《ありま》さんに知られたら、俺ら殺されますよ」

 巨体をミミズのようにくねくねと揺らしながら平戸が喚き叫ぶ。

「あぁ! んなこと分かってるよ。それより、今はカネより目の前のコイツをどうするかだろ!」

「落ち着いてくださいって。とりあえず通報される前になんとかしちゃいましょう」

 酒木は気怠い態度を取りながら、落下した男の両足を乱暴に掴んだ。降り続く雨が衣服に染み込んで、持ち上げるだけでも一苦労していた。口を抑えて身を震わせていた平戸も観念したように立ち上がり、追随するように男の肩を羽交い締めするように担ぎあげた。

「おい、トランク開けろ」

 その言葉を聞いた瞬間、田中の心臓は一瞬のうちに凍りついた。無表情で告げる酒木の真意を、脊髄反射のように理解してしまったからだ。

 奴らは、この生死不明の男を、隠蔽するつもりだ。

 そんな身の毛もよだつ所業が平気で出来るほど、この連中は卑劣だったのか? 田中は体毛が逆立つほどの恐怖に苛まれた。

 悪夢に飲み込まれないよう必死に抗う。

「い、いやです!」

「いいから早くしろボケ!」

 酒木の叫声ではなく、平戸の野太い罵声が田中の顔面に吐き出された。

 腹の底から湧き上がる怒りに、田中は全身が萎縮した。

「ちんたらすんな、お前も手伝えや」

「い、いやいや、私は関係ないですよ」

「てめぇ早く開けろよバカ!」

 平戸が前蹴りが田中の向こう脛を襲った。男を羽交い締めにしながらの蹴りで体重が乗っていなかったにも関わらず、革靴の底が肉に食い込むほどの威力があった。

「痛ってえ……わ、わかりましたよ」

 田中は眼を涙で潤ませながら、トランクのボタンを押す。辛うじて、脚の感覚は残ったが、激痛が波状のように押し寄せてくる。そんなことを気に留める素振りさえ見せずに、酒木は落下した男を担ぎ込んでいた。

「クソ、入んねぇな。平戸さん、そいつの頭をぐいっと押し込んじゃってください」

「ふんっ! あ、やべ。今、ミシッて音したよ」

「大丈夫っすよ。人間の骨は何百本もあるから、一本くらい折れたって問題ないってサラ・コナーも言ってたし」

「言ってる場合かよ! でも、刑務所のシーンは好き過ぎてなんべんも観たわ」

「最高っすよね、ターミネーター2は。ったく、入らねぇな。手間かけさせんなよクソが! よっしゃ入ったわ」

「いや、髪の毛がはみ出てんぞ」

 悠々とトランクを締めた酒木は、一丁上がりとばかりに両手の汚れを叩き落としている。一方、平戸は脇から飛び出した髪を指で突いて中に入れようと四苦八苦していた。

「じゃあ、次の現場いきますか」

「は? この中身の野郎はどうすんだよ」

 自販機のボタンを連打するように、はみ出た髪の毛を押しながら、平戸が応える。

「とりま、隠せる場所あるんで。運ちゃん、次、青山霊園に向かって」

 酒木の一声に、田中は死んだ顔で応えた。糸が切れた人形のように頭を垂れて返事をした。千鳥足で運転席へと吸い込まれた。

 車のキーをまわす、雨で指が滑る。濡れているだけではない、力が入らない。指先の感覚もない。幾度の繰り返しを経て、エンジンが黒い息を吐いた。

 田中はバックミラーからトランクを覗き見る。無惨に放り込まれた哀れな男に、向こう脛を蹴られた自分自身を重ねた。

 ナビを青山霊園にセットしようとするが、指が震えて使い物にならない。酒木が発したおぞましい言葉――隠せる場所、そこから連想される地獄、覚めない悪夢が加速していく。

 絶望を纏った雨が身体中を覆い尽くす。

 最悪の夜は、まだ明けることなく、東京の淵を走り続ける。




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