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新卒、東京、1人暮らし。ゲームチェンジは突然に。

こんばんは。cousukeです。
東京で新卒サラリーマンやってます。

今日は休日。朝起きたら、11月とは思えないくらい暑かった。。
その感覚のまま、カフェに半袖で直行。アイスコーヒー頼んだんですが、
さすがに寒かったです。もう秋ですね。

そんなこんなで季節感覚はおろか、(忙殺されすぎて)時間感覚すら怪しくなってきた今日このごろです。

あらゆる感覚が鈍ってきた中で、貴重な休日。束の間の休息。
この時間を大事にしたいなと思い、noteにて振り返りをしてみることにしました。

結果が評価される世界へ

今日は11月3日。
上京して、社会人になって半年以上立ちました。
ざっくりとですが、社会人がどんなものかが少しずつわかってきたタイミングです。

このタイミングで一番強く感じるのは、学生と社会人では、大きくゲームのルールが違うなということです。

ざっくりいうと、行動が評価されるか、結果が評価されるか。


学生までは、基本的に「行動していること」自体に評価が与えられます。

生徒会をしているだとか、
部長をやっているだとか、
自主ゼミやってるだとか。

行動に移していることこそが大事。

私自身も今になって、行動を評価してもらっていたことを痛感しています。
例えば、院生時代にやっていたフィールドワーク。
投稿論文等の”結果”の部分は出しきれなかったものの、”飛び込み力”が買われて、各所で一定評価をいただくことはできていました。

でも、これはお金を払って学生を”やらせてもらっている”ときにしかない評価です。ポテンシャルを買われている、という状態に近い。

研究者であれば、論文という”結果”がシビアに評価され、その先でさらに被引用数等の数値で継続的にその評価が可視化されます。
行動は取って当たり前の世界です。

そこが院生と研究者の違い、ひいては学生と社会人の違いだと思います。

評価がないと辛い

では、”社会人は結果さえ出せば良い”のでしょうか?
私はそうでもないように思っています。

結果を出すだけではなく、”評価される”ところがそれ以上に重要。

(話は飛びますが)人は社会性の高い動物。
集団に属する動物です。
故に、集団からの評価は、生きていく上で不可欠(なはず)
少なくとも私はそう感じます。

したがって、持続的に社会人を続けるには、評価されることから避けては通れません。

そして、その評価を決めるのはあくまで人。
人が決める以上、単なる”定量成果”だけではなく、様々な力学が働いた上で評価が決まります。


ここをしっかりと見極め、短期的な損得勘定で動かない。
結果さえ出せば良いんでしょ、というスタンスだと確実に首が締まります。

結果を出すことに傾倒した場合、今度は自分の体や家庭にガタがきます。
体も心もずっと同じコンディションが続くわけではありません。

そういった、仕事にとどまらないあらゆる自分と接する小世界の中で
どうバランスを取り、社会的評価を得るのか。

学生のときは社会人的な思考回路を持ち合わせていなかったので、こういった思考の上で行動を決め、修正するという一連の流れが辛かったりします。

でも、辛いからこそ、評価がないともっと辛くなる。
ゲームルールを理解することで、持続的に働くことが何より大事だと思います。

さじを投げたくない

そんなこんなでゲームルールが変わり、思考が変わり、心底疲れるわけです。

好きだった読書にも少し距離ができて、体力は落ちる。
休日は何もする気が起きないことも。

ぼーっとスマホを見て一日が終わった日は涙が出そうなくらい悲しくなります。

これが社会人か。とさじを投げたくなりますが、
もがくことをやめたくありません。

体がきついときはしっかり寝て、夕方からでもいいから、なにかひとつ、探しに行く。
友達と遊ぶのも良いし、何も考えずにぼーっとすることをしよう。

心も体も能力もキャリアも。
何もかもコントロールしようと思わないこと。

一息ついて、自分の気がむくことに正直に応える毎日を続けていきます。


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