辞書を編纂するという仕事があるらしい。
小学生のころいい辞書を選ぶ方法を教えてくれた先生がいる。
「いろんな辞書で恋と愛を調べてみてください。」
先生曰く、この意味をどのように書き分けているかで辞書の性格が出るという。
本屋さんに行くと大量の辞書が置かれている。
当時はどれがいいのかよくわからず、収録語〇万字と大々的に書かれたものをレジに持って行った記憶がある。
沢山ある方がいいような気がする。
小学校、中学校のころまでは紙の辞書を使用していたけれど、高校生の時は電子辞書に変わり、社会人になった今はGoogle先生にお世話になっている。
よくわからない言葉があれば、検索ワードに引っ掛けて一番上にヒットしたページをクリックする。それで終わり。みたいな感じである。
「効率的に情報をひろって早くそれを理解する」つぎから次へと文字を読みこなしていく。
本を読むなかで昔ほどわからない言葉の意味を検索しなくなったように感じる。
分からない言葉の意味をわざわざ検索する手間をめんどうと感じる。
文脈で理解できるようになってからは、知らない単語をなんとなく文脈に乗せて解釈して、次の文章に進んでいる。
英語を勉強し始めたころもしっかりと辞書を引いていたけれど、そのうちそれをしなくなった。
専門用語以外は大まかな意味をくみ取り、どんどん読み進めてしまっている。
深い勉強は立ち止まって考えることから始まる。
何かを読んだり、聞いたりしていると立ち止まることができなくなる。
立ち止まらずに走り抜けたほうが“なにかをやった気になる”からなんだろうか。
たしかに、本を一冊読んだ時の爽快感はたまらない。
辞書を引くというのは立ち止まる行為である。
立ち止まって索引を探し、検索するワードにたどり着くまでに時間がかかる。探していない言葉を視線のなかに置き、探している言葉を見つける。
期待していない情報が入ってくることは避けて通れない。
辞書を引くということは、探していない言葉を見ながら、探している言葉を見つける行為である。
かつて外山滋比古先生が、乱読のセレンディピティという書を書いている。
偶然の出会いへの期待を読書に見出している。
忘れてもいいからいっぱい読んだほうが良いらしい。
辞書を編纂するひとはことばの専門家である。
常にことばについて考えて、時代と共に変化することばを追いかけている。
そんな人たちのことばの編み物に触れることで、セレンディピティをもたらす期待は大きいように感じる。
辞書には文脈がない。
あいうえお順に並んでいるからだ。
哲学用語のとなりに、季語がのっているなんてこともある。
辞書を引くことは、そんな偶然性に身を投じることである。
検索すれば、探そうとする言葉は見つかるが、わかっているようでわかっていなかった言葉を見つけることはできない。
ふと探していると昔から目にしていたけれど、よくわかっていなかった言葉に出くわすことがある。
それこそが、辞書の偶然性の産物なのだと思う。
そんなことを、考えた。
ターゲッティング広告にまみれ、求めているものがどんどん入ってくる時代こそ、辞書をめくることが重要になってくるんじゃないかと思っている。
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