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自分の感受性くらい

忙しいとは「心を亡くす」と書く、なんて言いますね。

「心を亡くす」ほどではないですが、仕事が立て込んでくると、「心がぱさつく(ちょっとしたことで心が揺れる)」が起こります。

私の話で恐縮ですが、仕事柄、研修やコーチングを行う「感情労働」なるものに従事しています。感情をフル稼働させて人と対峙し、1日を過ごします。
いくら研修があろうとも、そこで出会う方にとっては、その内容については一回きりの学びの場ですから、責任を持って、プラスのインパクトを残そうと務めようとします。それはプロとしてそうありたいし、そうあるべきだと思うからです。(できているかはさておき…)

その結果、「ポジティブだよね」と周りからは言っていただけます。ですが、それは人の一面。特に家族からみると、必ずしもそうではないようす。
自己成長を求め、日々頑張っているけれども、ポジティブさよりも、自分への不甲斐なさ、まだまだであるという感情に覆われて、頭を抱えて、葛藤する「闇の時間(?)」のほうをよく目にしているようです。特に、忙しくなると、心がぱさつき、闇が色濃くなります。家族は、いい迷惑。

・・・と書きましたが、何が言いたいかというと
「一人の人間の内側には、さまざまな感情がある」そして、
「忙しくなると心が揺れて、闇が濃くなる」というのは、
人によって差はありこそすれ、幾分かあるのでは、と思うわけです。

忙しくて、加えて上手く行かないこと、思い通りにならないことが続くと、苛立ちます。言い訳の対象を見つけ、その苛立ちを周辺に撒き散します。

もう、醜い所業でしかありませんが、悲しきかな、時にそうなってしまう自分もいて、その際には「ああ、やってしまった」と思うとともに、ふと思い出す詩があるのです。

それが、茨木のりこさんの『自分の感受性くらい』という詩。

以下、引用させていただきます。

「自分の感受性くらい」

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかけるのを
暮しのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

茨木のり子「自分の感受性くらい」

読むたび、心に冷水を浴びせられたような気持ちになります。

言い訳できることは色々あるものです。

自分の能力、自分の性格。
生まれや、親の影響。
友人や職場の環境。

状況を鑑みて、仕方ないよね、と思える場合もあるでしょう。
でも、それを「仕方ない」で認めた瞬間、他責にする理由が、じゃんじゃか湧いてきます。

「何であろうと、あなたの人生の責任はあなたにある」
愛を持って、背中を愛を持って叩かれる、そんな気持ちにさせられる詩です。

忙しくて、心がぱさつくのも、自分のせい。
周りがどんなであれ、そこに影響を受ける受けないも、自分のせい。

環境に身を任せて、そこに影響を受けるままにすることを「わずかに光る尊厳の放棄」と呼ぶのでしょう。

短期的にも、中長期的にも、誰かのせいにすることは簡単です。
どんな状況でも、自分の中で受け止めて、自浄する。
そして環境から影響を受けるのに、ただ身を任せるだけにならない自分を、形作っていきたいものだ、そんなことを思わされました。

まだまだできていないですけど、
こうした心を滋養していきたいものです。

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