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『絶望してる暇があったら美味いもの食べて寝る』

 満月を見ていると、決まって片想いのあの子を思い出してしまう。
 それは、どうしてだろうか。たぶん、夏目漱石が”I Love You”を『月が綺麗ですね』と口説き文句へ和訳した話が有名だからだろう。好きな子に想いを馳せてしまうのも、仕方ないかもしれない。
 
 だけど、今日の満月は嫌いだった。

 渋谷で用事を済ませ、お腹が空いてくる頃。時刻は18時を過ぎていた。家に帰って夕飯の支度をするのも面倒くさいし、今日は日曜日の夜だ、どこかで美味しいものを食べて帰ろう、とスマートフォンを取り出した。
 渋谷は人が多いから嫌いだ。だからといって、電車で移動するのも億劫なので穴場的なお店を探すことにした。
”渋谷”、”居酒屋”、”穴場”と検索すると、穴場中の穴場のお店が出てきた。ブログの評価を見ると4.4の高評価。店内の雰囲気と、料理も非常に美味しそうなので、ここは行くしかないと思った。

「ここはデートに使えるな」
 僕はスマートフォンを見ながらニヤニヤしていた。年末に気になった女の子と連絡先を交換できて、浮かれていた僕はここで、ご飯デートとをすることを妄想していた。
本当は土曜日にデートをするはずだったが、予定があったため断られてしまった。けど、まだ彼女とのやり取りは続いている。今のところ返信は来ていないけど。

 井の頭通りを歩いて、目的の店へと向かう。まだ、デートの約束もしていないのに、あたかも下見にでも行くかように僕の足取りは軽やかだった。しばらく歩いて、とある雑居ビルに入った。ビルの入り口からまっすぐ歩き突き当りを右に歩くと、古びた扉があった。重厚そうな扉を開けると、10mくらいのアーケードが目の前に現れた。まるで秘密の世界に誘われているような気がして、高揚感が湧いてきた。そして10mほど歩くと、小さな扉があった。ここにお店があるのかと、信じられない気持ちでそっと扉を開くと、そこには、まさしく隠れ家といえる居酒屋が存在した。

「いらっしゃいませ!待ち合わせですか?」
 店内に入ると、体格のいい店員さんが接客してくれた。
「いえ、違います。一人です」
 僕は人差し指を軽く立てた。
「あー、すみませんね。今お席ないんですよー。21時くらいなら空いてますけど」
 体格のいい店員さんは、予約表を見ながら申し訳なさそうに言った。
まあ、日曜日の夜だし仕方がない。僕は少し店の様子を見ようと、店内を見渡した。店内はやはり混んでいた、さすが4.4のお店だ、カップルも多い。薄暗い雰囲気と、渋谷の喧騒から離れた隠れ家は、まさにデートにぴったりだった。カウンターには、日本酒や料理がならび、若いカップルが仲睦まじいく美味しい料理を食べていた。
 ふと、若いカップルの彼女に目がいった。ロングの髪に、お嬢様のような女の子らしいファッション。僕はハッとした。その彼女の後ろ姿が、なんと気になるあの子と似ていたのだ。

 まさか、そんなはずはない― 僕は心の中でその可能性を必死に打ち消そうとしていた。
 彼女は隣の彼と楽しそうに食事をしていた。満たされた幸せが、矢となって僕に目掛けて放たれた。それが一本ではなく、千本の矢が僕に一気に突き刺さった。
嘘だ、そんなはずがない。頼むから、別人であってくれ。僕は声を殺して叫びたかった。

 「時間、どうしますか?」

 体格のいい店員さんに問いかけられ、我に返った。
 「あの、この時間帯はやっぱり予約したほうがいいんですか?」
 この場で少し様子を探りたくて、なんとくなく店員さんに訊いた。わずかながらの時間稼ぎをしたかった。
 「そうですねー、予約した方がいいですね。でも平日の方が空いてますね」
 店員さんの話を聞くフリをしながら、僕は後ろ姿の彼女の顔を確認したかった。

でも確認したところでどうなる?もし、本当に彼女だったら?彼氏といるのに?彼氏と分かったら絶望感に苛まれるだろう。どんな顔をしていればいいんだ?その方がよほど惨めじゃないか?そんな考えが頭の中をよぎり、探ることをやめた。僕は店員さんにお礼を言って逃げるように店を出た。

 まるで失恋したかのような感覚が襲ってきた。連絡もなかなか返ってこないし、もしかしたら、他の男とデートしているんじゃないか、とあらぬ妄想を抱いていた。それが現実に近いものとなり、僕は絶望の淵まで落とされてしまった。傷心した僕は、渋谷駅に戻らず、明治神宮前駅に向かうことにした。この気持ちで渋谷駅に戻るのは、間違いなく傷口を広げると思ったからだ。渋谷駅には煌びやかな充実感が漂い、今の僕には渋谷駅に戻る勇気さえもなく、戻ることも許されなかった。

 明治神宮前駅までには、必ず代々木公園を通る。19時を過ぎた代々木公園は渋谷駅とは違って静かで、街灯の薄暗さが切なさを演出していた。まさに、今の僕にお似合いな場所だった。今日までイベントをやっていたらしく、後片付けを行う人たちが黙々と作業をしていた。その淋しさが、僕の傷心を舐めるようにじんわりと痛みを広げていった。

 片想いというのは”祭り”と似ている。勝手に盛り上がり、そして淋しく終わってしまう。叶うともわからないデートの妄想で盛り上がり、後ろ姿が似ている彼女と遭遇して落ち込むなんて、恥ずかしく、滑稽でもあった。

 ぐう、と腹がなる。気がつけば、もう1時間弱くらい歩いている。ふと、空を見上げると満月だった。薄暗い代々木公園で見る満月は皮肉にも美しかった。
「くそ、なんで今日に限って満月なんだよ。なんでお前は満たされて、おれは何も満たされないんだよ」
 遥か384,000㎞の先の月に向かって吠えても、この声が届くのはあと何年何時何分何秒後の話だろう。いつもは、美しく感じる満月でも、今日はなんだか嫌悪感を抱いてしまう。でも、嫌悪感を抱いていても、お腹はやっぱり空いてしまうのだ。

「とりあえず、美味いものでも食べにいくか」
 腹が満たされれば心も多少なりとも満たされる。確か、ドラマのセリフにこんなセリフがあった。

『絶望してる暇があったら美味いもん食べて寝るかな』

僕は再びスマートフォンを開き、美味しいご飯を求めてお店を探し始めた。
そんな渋谷の満月の夜。

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#東京

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