ショートショート60 「悪魔の所業」

海に面してそびえる崖の上、眼下では剥き出しの岩に打ち寄せた激しい波が、白い飛沫を上げて砕け水面に幾ばくかの泡を作っては消えていく。

その光景を虚な瞳に映しつつ、一人の女が立っていた。背後には悪魔が直立不動の姿勢で腕組みをし佇む。

悪魔と言っても、風態は人間の男と見分けがつかない。女がそれを悪魔と認識したのは、本人がそう名乗ったこと…そして汗ばむこの季節に涼しい顔をして、長袖のジャケットに袖を通したその姿に、何かこの世ならざる雰囲気を認めたからだ。

女の夫が不運な事故によりこの世を去ったのはつい1ヶ月前のこと。実感のないまま骨壺に居を移した夫、彼女はその事実を受け入れられぬまま、心を閉ざした。虚無としか他に表現の見当たらない1ヶ月を過ごす中、女は何かに憑かれたように、夫にまた逢いたいという気持ちに支配された。

死してしまったものは戻らない。ならば自らが黄泉へ赴こうと、この岬に足を運んだのだ。

後ろに控えるこの男が声をかけてこなければ、そのまま足を前に進め、想いを遂げていただろうに。恨めしく思いつつも、男の声に足を止めたのは、誰かに想いを話すことで心の整理をつけたかったからなのか、この高さに身を投げることへの恐怖が高まったからだったのか、それは女自身にも分からなかった。

「あなたは、悪魔なのでしょう? 私の魂を奪いにきたのですか。」

「いいや、私はお前の心を乱しに来たのだよ。」

「もはや、私の心は空っぽです。それをどうやって乱すというのでしょう。」

悪魔は答える代わりに、左の掌を上に向けてかざした。

掌の上の空間が、水面のように揺らぎ、そこに写し出されたのは失ってから毎日思い続けた夫の顔だった。

「あぁ、あなた。私もすぐに行くから。」

すがろうと伸ばした手は、そこに何もないかのように空を切った。

少し寂しそうな顔をした夫の口元が何かを言っているように動く。声は聞こえなかったが、それは

「い・・・・き・・・・て。 し・・・・あ・・・・わ・・・・せ・・・・に。」

と言っているのが見て取れた。精一杯口角をあげ、笑顔の形を作る夫の顔を見て、女はその場に頽(くずお)れ、嗚咽する。

「ラクに……させては、くれないのですね。」

「あぁ、俺は悪魔だからな。」


❇︎


ここは黄泉の国。

後ろに悪魔の気配を認めた男は

「妻は…?」

と振り返らずに声をかける。

「戻っていったよ。」

悪魔の返答に安堵した表情を浮かべつつも、男の眼から堪えきれなかった本音が涙の形を借りて、流れ落ちる。

「本当は、僕も彼女と一緒にいたいんだ…。」

「だろうな。その想いがあの女をあそこへ呼んでいたんだ。」

「君が、未来なんて見せるから。彼女が、子どもと笑っている未来を。」

「本人は、妊娠に気付いていなかったがな。」

「あんなものを見せられたんじゃ、僕は自分の気持ちを殺すしかないじゃないか。本当に……君はひどいやつだな。」

泣き笑いと言った表情の男に、無表情のまま悪魔は答える。


「あぁ…俺は悪魔だからな。」


そして悪魔は、黄泉の奥地へと歩いていく男の背中を直立不動のまま見送った。

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