見出し画像

『関西弁で読む遠野物語』その1|なんでまた、『遠野物語』を関西弁に?

『遠野物語』が柳田国男の手によって出版されてから、今年で110周年になります。
柳田と同じく、関西出身の民俗学者、畑中章宏さんの新刊『関西弁で読む遠野物語』について、お聞きしました。
 
ーー『関西弁で読む遠野物語』ですけれども、そもそも、なぜ関西弁にすることになったのですか?

柳田国男って「遠野」の人っていうイメージが強いけど、ほんまは関西人だってイメージ、みんな、もってへんよね。
 
ーーはい。知りませんでした。
 
民俗学が他の学問と大きな違いがあるとするとね。まぁ、経済学者かて社会学者かて政治学者かて、みんな自分のこととして経済や社会や政治について論じるわけやけど、民俗学っていうのは、自分が生まれ育って、どう考えてきたか。土地との結びつきとか、親との関係っていうところから、いろんな物を見る。自分のアイデンティティが常にベースにあってね。柳田が関西人やったいうことは、僕にとって非常に親しみを持って柳田の書いたものを読めるわけです。
僕なんか東京に30年位いてるから、かなり言葉もちゃんぽんになってると思うけど、東京の人からすると関西人のなんかキャラクターみたいになってて、オレ、阪神ファンちゃうって言うてんのに阪神優勝したら「畑中さん、よかったですね」とか言われる。
僕の父方も母方も、いい家でもなんでもない。普通のほんまの百姓として何百年も何千年もやってきたっていう、そういうアイデンティティとか関西に生まれ育った自分ていうのが、ずっとあるんですけど、そんな普通の先祖とかが何を考えてきたか、全く記録に残らないやないですか。でも、そういう人の考えてきたことって、自分の身体にも心にも沁みついてるって僕は思い続けてる。柳田もそういうところが、あったと思うんです。
 
柳田はエトランゼ(旅人)として遠野に行って、佐々木喜善から非常に面白い話を聞いて、それを文語体にまとめたんです。
ちょっと話がそれるけど、民俗学者の宮本常一って人がいて、西日本の山口の周防大島ってところの人。あ、そう、日本の民俗学者の代表的な人って、みんな関西の人みたいなとこがある。柳田国男は兵庫県の人。折口信夫は大阪の天王寺の人やから、これも親しみがあるしね。南方熊楠っていうのは博物学者で民俗学者でもあるけど和歌山の田辺の人。
その宮本常一が言うには、東日本と西日本には非常に大きな違いがある。歴史学者の網野善彦さんも、長い歴史を通して政治体制から社会体制、家族構成、物の考え方から何から東日本と西日本とは、別の国だといってもいいくらいの違いがあると言ってる。
だから、西日本の人間として東京に行った柳田が、東京の生活をしたり、その場所から東北の風景を見たりしてるところを考えると、兵庫県の福崎町辻川で生まれた柳田が、思春期以降の若い頃は千葉とか茨城で過ごすんですけど、どうしても西日本との比較で見るとか、関西の人間としてそういう風景を見てる感じが、ずっとあったと思う。
柳田は最晩年に「自分は生涯、関西訛りが抜けなかった」って言ってる。その言い方の中には、身体も心も生まれた時のアイデンティティをずっと引きずってきたということがある。
そのような人が、東京で佐々木喜善から岩手の遠野の言葉で東北の話を聞いたわけやねんけど、東北の風景を見ないで聞いて、その後に確かめに行くみたいな形で遠野に行ってる。
佐々木喜善から話を聞いてる柳田って、どっかで関西弁に、というか、自分の耳で聞いて自分の言葉に翻訳して聞いてる。文字化する前の佐々木喜善が発語した言葉を、関西の人が聞いて関西弁で理解したというふうには言えるんやないかと。
その柳田が、非常に面白い河童の話とか天狗の話とか、あるいは恐ろしい飢饉にまつわるような話みたいなのは誰かに聞かしたい。お母さんとか。遠野の物語を聞いた時点では、柳田のお母さんは死んでしもてるんですけど、柳田は親子関係とかお父さんとかお母さんの思い出話を一杯してて、そういう人の影響をすごい自分が受けていると語っている。民俗学者っていうのが、いかにそういうところをベースにいろんなものを汲み取ってるかっていう話が『故郷七十年』って講談社学術文庫から出てます。仕入れとくとええよ(笑)
『故郷七十年』っていうのは、柳田の晩年に出たすごくいい本なんです。神戸新聞社の人が柳田の人生を語ってほしいとインタビューして、自分のお父さんのこととか、お母さんのこととか、子ども時代のこととか、福崎の住んでたとこの近くに川が流れてて、河童に足を引きずり込まれそうになった経験とか、遠野物語につながる自分の原体験が書いたある。
その柳田が、佐々木喜善から聞いた話を「こんな面白い話がある」と、東北ではこういう話だけど、うちの近所でも、おんなじような話はあるよな、あるいは、うちの近所には全然ないけど、東北にはこういう神様がいてぇ、みたいなことを、もし、お母さんが生きてたら、話して聞かせてたかもしれへん。そういう時は、関西弁で話して聞かせたんやろうなあと。あ、だから、翻訳っていうのとはちゃうかもしれへんな。柳田国男の言葉で語ったらこうなったであろう『遠野物語』やね。

インタビューは、まだまだ続きます。

この記事が参加している募集

おうち時間を工夫で楽しく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?