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「どんな命にも価値がある」て全力でいっとく(2/2)

私の中で「こういうやつの命には価値がない」と烙印を押したかった存在。
私の中での「悪」の象徴。
「ああいう人もいるくらいだから。やっぱオカシイ人間ているのよ」と納得する絶対的根拠。

―自分の祖母を形容するにはあんまりな言いぐさだけど、私にとってはそうだったんだ。でもそんなばあちゃんとの関係が少しずつ変わって、ばあちゃんも少しずつ変わって、何か、最後、緩んでかわいくなって亡くなってったんだ。

津久井やまゆり園の事件を振り返るところから、そんな我が身の顛末を前回書いた続きです。

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そのばあさんの存在がどれだけ憎たらしかったかということを
前回うまく伝えきれたか分からないけどともかく
自分にとってはそういう存在としか思えなかったばあさんだったんだけど…

そんなばあさんとの日々を駆け抜けて振り返るようになった今思う
ばあさんの人生、彼女にしか見えていなかった景色がある。

戦前戦中の時代や価値観の影響を大きく受け、
親の愛を上手に受け取り損ね、
戦後の引き上げで長屋くらしに落ちぶれた運命を憂いて
嫉妬と恨みに燃えながらも、
英語を操りダンスを楽しみ謡にも書道にも才能を見出した
華やかな美女だった若かりし日の祖母。
戦後直後の貧しい苦しい時期に生まれた長女の母のことは
上手く愛せなかったけど6歳下に生まれた長男の叔父を溺愛した祖母。
その長男が18歳で病死して
頭のネジがどこかおかしくなってしまった祖母。
いろいろあった
時代を駆け抜けた
めちゃくちゃだったし、長女の母とその娘の私からしたら
酷いばあさんだったけど、晩年みんなから少しずつ愛をもらって
それが相乗効果を生んで、最後に祖母自身の愛が溢れて生を喜べた。

生きたねぇ。ほんと、よく生きた。

変だな。

あんなに憎らしかったのに。

そのすべてに、私自身がすごく勇気づけられた。
私にとって「悪の象徴」のようだった祖母が、
だんだん幸せそうになり、なんだか彼女の(悪かった時代も含めた)
人生を尊くすら思えたなんて。

え、あれ…

あの人の命に価値、あったね。うん、あった。あれぇ。

「価値のない命」なんて、ひょっとして無い…?

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「クソばばあの尊さ」

私、ものすごく大きな「恵み」をもらったんだと思った。
だって、このおかげで私は、きっとこの先何があっても、
人間を信じることができる。

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おそらく世間一般では、このような
「クソばばあの尊さ」的なものを実感する機会は、多くはないだろう。
それも仕方ない。

でも、介護や看護やあらゆるケアに関する職業の人たちは
「クソばばあクソじじいも尊い。
どんな人もその人なりに山を登り道を歩いてきた歴史があり
死ぬその瞬間まで変化の可能性を秘めた生きた人間だ」
と深いところで感じながらその仕事をしてくれたらなぁ、と思う。

そして、人の最期に関わるケアの仕事というのは
本当に深くて難しくて大変で尊い職業なのだから…
もっともっと、その「働き方」や社会的地位や待遇が改善され
誰からみてもその尊さが自然と伝わるように扱われて欲しいと思う。

もしもそれが当たり前の社会だったら、
「障がい者施設」に向けられる視線もまた違うものとなっていて、
そしたらあの青年は自分の職業や職場、
ケアする対象となる入居者さんたちのことを
もっと誇りに思えていたかもしれない。

そして、本当は専門職の方に限らず、あらゆる人が子どものうちから
「クソばばあクソじじいも尊い。
どんな人もその人なりに山を登り道を歩いてきた歴史があり
死ぬその瞬間まで変化の可能性を秘めた生きた人間だ」
と自然と信じられるような世界観の中で育つことができたら
どんなに良いだろうと思う。
それが当たり前の人は、大きくなってからも
老人をそういう目で大切にするだろうし、
自分が老いた時にも自分の存在価値を見失わずに
最後まで幸せでいやすいんじゃないかなぁ。

悪魔のようなクソばばあを施設に預けもせず
家族で介護し自宅で看取るというのは、なかなか、ハードだ。
いろいろなリスクがあるしマンパワーの確保が大変だし
情緒を穏やかに保つのも難しいというか不可能。
家族全員疲弊する。回復には時間がかかる。
だから、誰にでもすすめられるものではない。
いろんな歪みが生まれながらもなんとか乗り切れた私たちは、
本当にラッキーだった。
決して、迂闊にチャレンジしてみよう、なんて考えない方がいい。

ただ、そこから得たものはすごく大きくて。
「なんかよくわかんないけど、
ココにこの人が生きてるってことがめちゃ尊い」
という、今後一生色褪せることが無いであろう感覚は、
私が、自分や他人に向けて思わず
「オマエには生きる意味があるか」と圧力の刃を向けたくなる時に、
「ちょっと待て、違う。違う。違う。そうじゃない。」
と思いとどまらせてくれる、大きな錨の役割を果たしてくれている。

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これがもし、祖母が最初から「善人」なら
こんなことを思うようにはならなかった。
「善人は好き、悪人は嫌い」と今も思っていただろう。
「悪の枢軸」と三姉妹で呼んでいたほどのクソばばあが変化したからこそ、
そう思えたのだ。

太陽と月のように、光と影のように、
善人と悪人も、天使と悪魔も、良品と不良品も
どちらか一方だけではなりたたない存在で。
悪いクソばばあがいるから分かることがあってできることがあって
それが実は恵みだったりして。
この世界は本当にもう徹底的に、
きっぱりと分かれずあれこれが混じり合っている。
その訳わかんなさが愛おしい。
悪いことの後に良いことがあるとかそういう単純な話じゃなくて、
悪いものが無ければ絶対に生まれない良いものがある
そういう仕組みになってるってところが、この世のミソなんだね。

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そんな祖母のおかげで、私はもうすっかり
「どんな命にも意味があるよ」と、強く信じられるようになった。

そしてそれは、私が自分自身の存在にも
意味を感じられるようになる始まりだったと思う。

それまでは「祖母と似た行動や考え方」が自分の中をよぎる時に、
「こんなものはあってはいけない」
とただふたをして振り払って見ない様にしてきた。

「私は欠陥品じゃない。私は不良品じゃない」
「あんなやつと同類ではない」と。

でも、
「生まれつき欠陥品や不良品の人間なんていないんだ」
と信じられるようになったことで、
どんな自分のこともやっと肯定できる入り口にたったんだ。

あるものはある、無いものは無い
そこからスタートするだけだってことがやっとわかった。

だからこそ、津久井やまゆり園のようなニュースに触れるたび
とっても辛い。

「意味の無い命を殺さなければ」と思ってしまった被告の青年
その青年を見て「殺人鬼の命に価値などない」と裁きを下したくなる人
あるいは…内心どこかで
殺人はもちろんしないけれど、障がい者や病人や子ども老人みたいな、納税する力のない社会のお荷物を、自分は支えてやってる側であって、そういう支えを必要とする人たちが減ることは社会を発展させるために悪いことじゃない、と、つい思ってしまう人…

自身を「ちょっと待て、違う。違う。違う。そうじゃない。」
と思いとどまらせてくれるアンカー(錨)が無い人たちの心の中に
ぽっかり浮かんでくる虚の姿。
それはつまり、いまだ自分のことを
「生まれつきの欠陥品かもしれない、不良品かもしれない」
と信じきれない恐怖の中にあるということだろうか。
多くの場合は完全に無自覚に…むしろ自信持っているつもりで。

だとしたら、心から、世界中の人に向けて、言いたい。
「あのね、あなたは、欠陥品でも無いし不良品でもない。
あなたの命に意味はある。
あなたの能力や実績や持ち物じゃなくて
あなたが生きてることそのものに価値があるの。
存在しているだけでもう十分すごいんだよ。
生きててくれてありがとう」

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とはいえ、そう言われてもピンとこない人も多いかもしれない。
国会議員が生産性の高低で国民を評価する時世だ。
「自分は生産性が低い」と感じる人は、
いくら言葉で「あなたの存在には価値がある」と言われても
実際、生きていくのが辛いかもしれない。

生活の糧となる給料の額に
肩書きでジャッジするまわりのひとたちの目線の中に
「みんなが同じく尊い人間だなんて、キレイゴトだよ」
と悔しさをぬぐえない人もいるかもしれない。

たしかに、生きていく限りまわりの評価から完全に逃れることはできないし
どうしてもその時代に求められているキャラクターや能力により近い人が評価されやすく、そうでない人が苦い汁をすする、という不公平は簡単にゼロにできない。

でも、
「生産性だなんだってね、あなたたち何言ってるの。
私は私で、価値がある存在なんですよ。
稼いでる金額や、やってる職業や、関係ないですよ。
私はね、生きているだけで価値があるのです。」
そう、自分自身が心の奥底から思えたら。
まわりの評価が変わらなくても、目に見える景色が変わる。

現実は厳しいけれど、だからこそ、
「私は存在してるだけで価値ある」
と思えるかどうかってことがすっごく大切な時代。

じゃあ「存在してるだけでうまれる価値」って何なんだろう。
例えば、失業して、浮気して酒に溺れて、家族から見捨てられて、ひとりで外で眠る、おじさん。
例えば、大好きな電車を見たくて家の近くの線路までこっそり散歩に出かけてそのまま電車に轢かれて亡くなってしまった、幼い子。
そういう人たちの一生、ってどんな価値があるんだろう。
「だれかの役に立った」と言えるのか「幸せに思い切り生きた」と言えるのか。
それが傍目に分からないようなどんな生にも本当に「価値」があるのか。
無駄な人生は本当に無いのか。

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ちょっと話が戻ります。
私は、祖母の変化と、私の超重要な気づきの連鎖のスタートに

「私が祖母に触れると決めた」

ことがあったのは、単なる偶然ではなく、
めちゃくちゃ深い関係があると思っている。

人がこの世に生きているということは、身体があるということだ。

死後の世界を信じていようがいまいが、
生きているということは肉体があるということで
肉体がなかったら(この世に)生きていない

これだけは全員共通だと思う。

ということは、ある意味肉体がすべてなのだ。
身体を触れ合わせること、
「そこに私の肉体がある」「そこにあなたの肉体がある」と感じること、
それが「生きているということである」と言っても過言ではないくらい、
肉体が触れ合うということにめちゃくちゃ意味があると思う。

そして、その肉体を使って
…五感や皮膚感覚やあらゆる、その人の使える部位を使って…
この世界を感じるということ、
そのことに、すでに生きる意味があると思う。

つまり、この世に生まれて飛び出た時点でもう、
「その人がそこにいる価値」というのが生まれていて
それは、そのあとどんなに社会的な評価軸上は落ちぶれてしまおうとも、
罪を犯したり人を傷つけてしまおうとも
ほんの少ししかこの世界を味わわずに旅立ってしまおうとも
「生まれてきたってことは価値があります」
ということは、最初から決定しているんだと思う。

そんなことを、自分のココロやアタマの中であれこれ感じるんだけど
うまく言葉にしあぐねていた時に、
まさに、美しく分かりやすい言葉で言い表してくれている小説に出会った。
大切なシーンのネタバレになってしまうからタイトルは書かないけれど、
私はこの宝物のような言葉を一生、大切にしていきたいと思う。
結局、プロの作家のボキャブラリー頼みでなんとも恐縮ですが、
紹介させてください。

月が私に向かってそっとささやいてくれたように思えたのです。
お前に、見て欲しかったんだよ。だから光っていたんだよって。
私がいなければ、この満月はなかった。
木々もなかった。風もなかった。
私という視点が失われてしまえば、
私が見ているあらゆるものは消えてしまうでしょう。
私たちはこの世を観るために聞くために生まれてきた。
この世はただそれだけを望んでいた。
だとすれば、教師になれずとも、勤め人になれずとも、
この世に生まれてきた意味はある。
生まれてたった2年ぐらいでその生命を終えてしまう子どももいます。
そうするとみんな哀しみのなかで、その子が生まれた意味はなんだったのだろうと考えます。今の私にはわかります。
それはきっと、その子なりの感じ方で空や風や言葉をとらえるためです。
その子が感じた世界はそこに生まれる。
だから、その子にもちゃんと生まれてきた意味があったのです。
同じことで、(略)
人生の大半を闘病に費やし傍から見れば無念のうちに去らざるを得なかった命もまた生まれてきた意味があったのです。
その人生を通じて、空や風を感じたのですから。

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私たちは、「人の役に立てる存在でありたい」と本質的に思う生き物だ。
だから、「仕事」に重きをおき、何かを「為さねば」と思ってしまう。
特に現代ではそれは、必ず金銭の報酬を伴うものと思われている。
それゆえに「俺は稼いでるんだから偉そうにするな」という夫婦間のハラスメントが生まれるし、
不況の時代に「自分には価値がない。十分に稼げる仕事が見つからない。スキルが足りない。」という焦燥を産むし、
多様性の時代の幕開けに「自分の好きなことで生きていきたいけど好きなことが分からない」と、何者になればよいか分からず彷徨うものたちを追い立てる。
一方で、
子どもを生まない人が「生産性が低い」と罵られ、
病人・障がい者・老人は「社会貢献していない」とお荷物扱いされ、
子どもは「将来立派に稼いで納税してくれる対象」くらいに見なされ、
その子の持って生まれた尊さを伸ばすことより今の日本社会の秩序を乱さず「経済発展」に分かりやすく貢献できる類いの有能さを身に付けさせることに、
親も保育者も教育者も躍起になる。

それは、全部全部、ひとつの根っこから来ているんじゃないだろうか。

あなたはあなたの視点でこの世界を感じているだけですでに、
生まれた意味を遂げているのに、そのことを感じていない。

もしそれをみんなが感じられるようになったら
「あぁ、今日は私は何もしなかった。
でも、生きるということを続けられた。
この世にいるということを続けられた。
私という視点がこの世を感じた。
今日もよく生きた」
そう思うことが許されるとしたら。

先ほどの小説の引用には敵わないが私の言葉を使ってなんとか存在価値を論理的に肯定するなら、私はこんな風に説明できると思う。

私たちは、言ってみれば、生まれてから死ぬまでずっと「居る生業」をすでにやっていて、本当は、それで、もう十分。

ただ、生きていくということは先ほど書いたように肉体があるということとイコールで、肉体を維持するためには、食べて排泄して健康を維持するために衣食住の営みが必要になる。
だから、人間にとって「為す生業」もやはりすっごく大事。

でもそれは、あくまで、「居る生業」との表裏一体なのだ。
「為す」ことで「居る」をより鮮やかに感じられたり
「為す」ことで「居る」が楽になったり
「為す」ことで「居る」を継続させたりするため。
そのどっちが先かといったら「居る」なんだと思う。
「居る」ために「為す」を必要としているだけで、
「為す」ために「居る」わけじゃない。
「為す」の形はそう考えると、お金が発生するかどうかにかかわらずめちゃくちゃ多様なのだ。

そして、時に「居る」ために「居る」みたいな役割を持って生まれてくる人もいるのだ。一見生まれてから死ぬまでずっと寝たきりで何もしてないように見える人がいたとしたって、その人は「居る」仕事を生涯かけてやりつくしたってことで、「為す」をせずに「居る」ってことは怠けてるどころかむしろものすごく難しい玄人の技なのかもしれない。

別にこれは「なんだぁ、じゃあ〜あたしって居るだけで価値があるからぁ、玉の輿に乗ればいいしぃ」的に開き直って楽してしまいましょう、とすすめているわけではない。ましてや、「居るだけで価値があるんだから犯罪もオッケー」なんてまったく思っていない。犯罪、特に凶悪犯罪は、どう考えても「為す生業」の履き違えだ、間違いだ、失敗だ。でも、それが「居る生業」=「命そのものの存在価値」までも否定するわけではない、ということ。
大切なのは、「居る」と「為す」の表裏一体のバランスをその人なりに追求していくことで。自分にとって「ちょうどいい」を探る作業は生きている限り続くだろう。
カラダが「新陳代謝」しないと死んでしまうのだから、ココロだってアタマだって新陳代謝して「アップデート」が必要だ。
でもその、やり方やペースやベクトルは、人によって違う。

でも「為す」ことを失うことをや、欲しいものを手に入れられないことを極端に恐れる必要は無いよってこと。
「居る」を積み重ねて。
「居る」ために必然的に「為す」何かを積み重ねて。
その中で自然と道ができていくって信じて、「居る生業」だけは絶対に全うして。

だから「自分で自分を殺さないでね。心も肉体も。」

そのことを常に自分に伝えられていたら、そんなに大きな間違いを犯すことはたぶん無いのだ。

津久井やまゆり園で亡くなった19名の方々が、そこに存在して、その人にしかない視点で世界を感じていたこと、そのものが本当に尊いと思う。そして、その結果、「居る生業」をやってる実感を感じられなくて戦い方を間違えてしまった青年の手にかけられるというすごく辛い役目を担って、ものすごく大きな問いとメッセージを世の中に発信してくれた。本当に、本当に、無念だろうけれど、遺された私からは、生まれてくれて生きてくれてありがとう、あなたたちの人生と死を無駄にしません、と言いたい。

そして、大きな大きな取り返しのつかない間違いを犯した被告の彼もまた、人生をかけて私たちに、その存在価値を問いかけている。バカモノ!!目を覚ませと言いたいけれど、この先、彼が、「何を間違ったか」を見つめて彼自身の(贖罪も含めた)生を生ききる手伝いをしてくれる人が適切な位置にいてほしいと思う。そして、この世界をほんの少しだけ前進させる一コマとして生を全うしてほしいと思う。

そんなこと、人間としての感情が、”遺族感情”が許さない、彼は死ぬべきだ、と思う人もいるかもしれないけれど、この世の中は、そんなこっちの都合はお構いなしだ。私の父が突然ドアをあけて帰って来なかったように。

そんな、こっちの都合に構わないこの世に、恨みをぶつけて誰かを切り捨てても、思ったほどスッキリはしない。
嘆きはものすごく大切だから、嫌だ嫌いだ許せないって気持ちは大切にして、どんどん出したら良いと思う。
でも、出し切ったら…どんな出来事もどんな理不尽も自分の生の一部として引き受けて、メッセージにしよう。
そして、自分が生まれる前よりも死んだ後の方が、ほんの紙一枚の厚み分でいいから、少しだけ、やさしい世界になっていることを本気で祈ろう。そしたら、いつまでも憎んでいる場合ではないいし、恥ずかしがっている場合でもないし、勇気を出し惜しんでいる場合でもないし、これまでの自分にしがみついている場合でもない。そんな風に思える時がくるかもしれない。
あの日、高校生の私が祖母に抱きついたように。

そんな風にして
「みんなが『居る生業』を生きている。
存在してくれてありがとう。」
そこからスタートできる社会にしていきたい。
自分より弱い人を殺すことでこの世での居場所や自分の死に場所を求めたいなんて、誰も思わない世界にしていきたい。

間違っても、欠陥品で不良品のオカシナヤツが罪を犯して社会から排除されました、というストーリーで終わらせて、同じような事件を再生産したくない。
少しずつ、前に進みたい。