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「どんな命にも価値がある」て全力で言っとく(1/2)

私の心の中にこびりついて離れない事件がある。
2016年7月、相模原の障がい者施設
津久井やまゆり園で19名が亡くなられた大量殺傷事件。
「障がい者は家族を不幸にしている」
「日本と世界の経済のためにやる」
と被告の青年が自分の犯行に意義を感じているところが、数ある大量殺傷事件の中でも際立って印象的だったのだ。

多くの人が胸を痛めたニュースだったろう。私もその一人だ。
「価値の無い人間」と烙印を押されて
元職員だった人間に殺されたご本人たちも、
死に至らずとも同じ施設に暮らす仲間たちが殺されるのを目の当たりにし
心も身体も傷ついた入居者の方たちも、
亡くなられた方のご遺族、
そして、障がいを持つ家族・友人がいるあらゆる人たちも…
それぞれの深い無念さを思い、恐ろしい事件だと思った。
そして被告の青年に対して、何やってんだよ、と怒りが沸いた。

ただ一方で、単純に彼を責めなじり
お前みたいなやつこそいなくなれ、と言いたい気持ちにもなれなかったのだ。
「自分と映し鏡の存在を殺すことで自分を守ろうとした」
そんな風に見えたから。
そしてそんな彼に対して「お前みたいなやつこそいなくなれ」と言うことが
「二度とこのような悲しい事件を起こさない未来」
につながるとどうしてもどうしても思えなかったから。

彼は、何らかの理由があって、彼自身に向けられる
「あなたの命には意味が無いのではないか」という圧力に向かって
「俺の命には意味がある」と胸を張ることができない人に違いない。
そして、自己存在の証明のため、
彼にとって”意味が無さそうな命”を殺すことで
社会に貢献しようとしたに違いない。
…そんなことが、事件の概要を聞いただけでありありと伝わってきた。

後に少しずつ事件の背景が明るみに出てくると
その内容はほぼ私の予想した通りだった。
今年の5月にはNEWS23でこのことが大きく扱われ話題になり、
その後Facebookのタイムラインでも様々な人のコメントを見かけた。
その中で深く印象に残った記事がこれだった。
読まなくても先に行けるけどよかったらこれもどうぞ。

+++++

私自身は、このまま行けば恐らく一生
大量殺人に手を染めることはないだろう。
そんなことは、絶対に絶対に絶対にしたくない、
と思える強さが今のところはある。
でもそれは私がひとりの力で手に入れたものではなくて、
本当に無数のこれまで出会ってくれたすべての人たちの支えがあって、
偶然や奇跡が重なった結果そう思えているのだ。

その一方で「自分は意味のあるいのちだろうか」という圧力と
私も長い間戦ってきた。
その意味で、私は、被告の青年の気持ちが痛いほど分かった。
「自分は意味のある命の側にいる人間だ」とつい思いたくなる感覚。
それは、無情な圧力をかけてくる「社会」に対して抗う
健気な姿というよりも
”敵”であるはずの「社会」が帯びている
「意味のある命と、無い命がある」という分断思考をそのまま肯定し
ただ自分が勝ち組・居場所をもらえる側に行こうと思っているだけの
分断と差別自体を問わない感覚だ。
口先で「差別反対」を唱えているのに
頭の中で「差別するべきでない」と思っているのに
「勝ち組なんて言葉は大嫌いだ」と表明しているのに

「自分は意味のあるいのちの側にいる人間だ」とつい思いたくなる感覚。

これは私の中にあった。
今だって完全に消えたかは分からない。
でも、人間は神様じゃないから
いろんな感覚を持つこと自体はOKだと思っている。

問題は、見て見ぬふりだ。
「おまえはのいのちには意味があるか」という”社会”からの圧力と戦う時、
自分を悪なる社会の外側にいる善の代表みたいに思うのではなくて、
”敵”に見える社会の中に、自分の心の姿をきちんと見出して、最後は自分と戦うしかない。

「私は、意味のある命と無い命を分けない。
すべての命に意味があると心から信じる。
だから私の命には意味があるし、それと同じように
どんな人の命にも意味があるのだ。そうに決まっている。」
と心から信じ抜ける自分になる
これが唯一の本当の戦い方なんじゃないかと思う。

でも、この件以外でもよくこういう、
「私は否定すべきものを否定しているから肯定される存在だ」
というやり方で自己肯定しちゃう現象を見かける。
私もさんざんやったしこれからもうっかりやってしまうに違いない。
これを私は勝手に「敵の敵は味方現象の罠」と呼んでいる。
その最たるもののひとつがこの障がい者施設大量殺傷事件であり、
もう一つ思い当たるのが、
DAYS JAPAN編集長の広河隆一氏が性的暴行で訴えられた
めちゃくちゃ胸糞悪い事件だ。
このあたりについてはまた別の機会にゆっくり書きたいと思う。

とにかく「敵の敵は味方」的な考えで、
「あなたたちの嫌なものを自分は否定しているから、
私もあなたたちの仲間に入れてもらえますよね」
と安易に居場所を作ろうとするのは
もんのすごく大きな間違いのスタートになりがちだ。
この事件の被告の青年が大量殺人という過ちを犯す前に
いくつかあったはずの分岐点のひとつが、
この間違いを犯したことだったろうと私は思っている。

残念ながら、彼と似た葛藤を抱えている人は
この社会にまだいくらでもいるだろう。
じゃあ、その人たちが、どんな分岐点で、どんな道を選択できたら、
彼と同じ轍を踏まなくて済むのか。
どうしたら、もう二度と、
そんな理由で人を殺そうなどと考える人が生まれなくなるのか。
私が亡くなられた方々の無念を思う時、そのことが一番気になる。
もし私が殺された一人なら…自分の死を無駄にして欲しくない。
自分の死をきっかけに、みんなに考えて欲しい。
どうしたら良かったんだろう。
どうしたら「自分の存在証明のために人を殺したいなんて発想自体が意味がわからない。だってみんな意味のある存在だよね。当たり前じゃん」てみんなが笑って言えるような世界になるだろうって、考えて欲しい。
だから、私はいつもそれを考える。

+++++

でも、やはり、自分に自信がないと
「どんな命にも意味がある」
を強く信じ抜くのはなかなか難しい。

私は、とってもとっても自信が無い子どもだった。
当然、「自分の命に意味がある」を強く信じれていなかった。
だから、他人に対しても「どんな命にも意味がある」と信じきれなかった。
ただ、そんな私は「すごく意味がなさそうないのち」と向き合う経験に恵まれた。
その中で人一倍「どんないのちにも意味があると思いたい」と、強く強く強く強く思うようになった。
「信じられない」と「信じたい」
この両極が私の中に共存しているから、そこに葛藤が常に生まれ
戦う相手が社会じゃなくて自分そのもの、になりやすい。
だから私は、きっと今後いろいろなことがあろうとも、
大量殺人で敵を殺した気になったりすることは無いだろうと、
そこは言い切れるのだ。
そう思えるというのは、本当に、ありがたいことだ。

今日はその「すごく意味がなさそうないのち」と向き合った経験を
ちょっと振り返ってみたいと思う。


これは以前Facebookに殴り書きした祖母との半生ダイジェスト。

祖母はとにかく孫の私から見ても「邪悪」なキャラだった。
いつも口にするのは恨みと悪口と命令ばかり。
社会的にめちゃくちゃステイタスの高い家に生まれ
その後落ちぶれたからプライドが異常に高く、
それこそ「意味のある命と無い命」に世の中を分断してみなす人だった。
しかし、現実の自分は、文句ばっかり言って自堕落に生きているばあさん。
「出自」みたいなところに頼る以外に自分の存在意義も感じられないから、余計に人を見下したかったのだろう。
同情すべきはその過程で、様々な「喪失」を体験して、
自分をアップデートする気力も意欲も無くしてしまったこと。
そこが気の毒なあまり、私の母は祖母を健気に支えていたわけだけど、
そんな娘に対して感謝のそぶりのひとつも見せないどころか
わざわざ母を傷つけてばかりの祖母は、私から見て本当に嫌なやつだった。意地悪な継母のように、実の娘をこき使うなんてさ。
母は私を産んだ産院から自宅に戻った当日、
すでに自分で台所に立って祖母の夕食を作っていたそうだ。
「あんたは私の世話をするために同居してるんだから子どもなんて産むな」
そういう祖母だった。

「邪悪で意地悪だから生きてる価値がない」
というのもまた極端な考え方なんだけど、
そういう人と同居して日々翻弄されるのは
「彼女に私の人生を搾取されている」という感覚で、
「こいつさえいなければ」と思わないでいられなくなるのだ。
「意地悪してワガママいって迷惑かけるばかりで何の役にも立たない」
「正直いなくていいのに」と、
口に出していうのははばかられたが心の中ではどうしても思ってしまった。

それに、ただワガママで意地悪なだけじゃなくて
何か人間的に大きく欠けた酷い奴、不良品だ、と
祖母のことを思っていた。

祖母の中から出てくるうす汚ない発想や人として間違っているとしか思えない言動の数々を私は心底軽蔑していたし、祖母のような人もいるくらいだから、世の中には手のつけようがない性根の腐った奴というのがいるもんだ、と思っていた。
そしてそんな祖母を忌み嫌い、非難することとで私はそちら側の人間ではない、と自分に言い聞かせ、周囲にアピールし、自分を守ろうとしてもいた。

祖母をそこまでひどい人間だと断定するまでにいろんな出来事や経緯があったが、特に印象深く、恨みの根拠となったのは、こんな出来事だった。

+++++

私の父は、私が7歳の時に交通事故で亡くなった。
1987年11月17日の朝だった。
朝7時ちょっと前、自宅から職場まで1時間くらいかけて
車通勤する途中だった。
自動車会社でのエンジン開発が父の仕事で、運転上手な車のプロだった父。
愛用のスカイラインでいつものように走っていたが、
ある交差点で、信号無視したダンプカーに横から突っ込まれたのだ。
その時、肋骨が肺に何本も突き刺さり、体内で出血した。
でも即死ではなく、父は一度車の外に出て相手に謝罪したという。
その後救急車でいくつか病院をたらい回しにされ、
最終的にある病院に搬送された。
その搬送の途中のどこかで、自宅に救急隊員から電話があった。

三姉妹の長女の私はすでに起床していたから、
母が電話口で強張る様子をなんとなく覚えている。
すると間もなく、真ん中の妹が起床してきた。
いつもニコニコ元気なゴムまりのような女の子が、
顔面蒼白でぐったりしている。
お腹がいたいと訴え、抱き抱える母の腕の中で崩れてしまう。
7歳のしかもかなりボケっとした長女だった私に、
そんな妹を任せられるわけがない。
母は一秒も早く事故にあった我が夫の元に
駆けつけたい気持ちだったと思うが、
次女を見ていてもらえる大人の協力が必要だったので、
当時、車で1分ほどの所に住んでいた祖母に電話をした。

母がかけた電話をとった祖母は
「あぁ、事故の連絡なら聞いてるわ」と言ったらしい。
「??」
聞いてるならなぜ駆けつけないのか…
でもパニックになっている母はそこにいちいち突っ込む余裕はなく、
「あぁそう聞いてるなら良かった。
かくかくしかじかで、今すぐうちに来てほしい。次女を見ててほしい」
と必死に訴えた。当然だ。
でも、祖母はすぐに来なかった。
たっぷり小一時間、ゆっくり部屋の片付けをしていたらしい。
永遠にも思える長い時間を待たされた後、
ようやく小一時間後に現れた祖母に妹を託して、
急いで母は家を飛び出していった。

病院では、父はまだ生きていた。
ただ、母が着いたその時、ちょうど「運悪く」父の容態が良好だった。
「午後に手術すれば助かる見込み」
すでに見舞いに来ていた父の両親はそう聞かされていた。
そのタイミングで、「次女の容体が悪い」と自宅から病院に連絡が入った。祖母が小児科に連れていったところ
「なんでこんなになるまで連れて来なかったんだ」
と言われてしまったとのこと。
「どうやらこちらは大丈夫そうだから、かえって次女を見てあげなさい」
そういう流れになった。
夫は大丈夫そうだが今度は次女が死にそうだと?!
母の頭は相当混乱したことと思う。
そういうことならと母は、父に会わずにそのまま自宅に帰ってきた。

しかしその後父の容態は急変した。
急激に意識レベルが低下し、母は病院に呼び戻された。
その時にはもう、父は話をできない状態だった。
かろうじて息はしていたようだが、脳波はとまっていたというから
人工呼吸だったということだと思う。
母が話しかけると、脳波がピクピクと動いた。
医師と看護師がそれを見て驚いていたという。
でも、目を見て話すことはできず、呼吸が止まり、
それが母と父のお別れになってしまった。

その頃自宅では…
おそらく父が亡くなると時を同じくして、
妹の容態はウソのようにケロっと回復していた。
「二人の痛みがシンクロしていたとしか思えない、
不思議な回復の仕方だった」と後に母から聞かされた。
母が病院に行っていた間のことは正直何も覚えていない。
必死にそんな妹を介抱したという記憶もない。
私はいつもいっぱいいっぱいでボケっとしていて、
そんな余裕がまったくない子どもだったのだ。
特にその日は、ただならぬ気配を私なりに感じていただろうから、
なおさら、カチコチに固まったまま過ごしていたかもしれない。
少なくともその間祖母がいてくれたから、
私はカチコチしてボーっとしていても大丈夫だったし、
祖母の説明を通じて妹がどんどん悪くなっていないことを
承知していたのだろう。
祖母も祖母なりに役目を果たしていたから、
その時は何も変に思わなかった。

しばらくして母が帰ってきた。
どうだったんだろう。まさか。まさか。
扉を開けた母は、奥の部屋で不安気に玄関を見ている私のところに
まっすぐ駆け寄ってきて、膝を折りぐっと私を抱きしめた、
というか、抱きついた。
そして「おとうたん死んじゃった」と言ってワンワン泣き出した。
映画や本や噂でしか知らなかった「死に別れ」が
急に私の人生に降って沸いた。
「一緒にがんばろうね」と、
あまりに頼りない私に抱きつきながら母が言った。
「うん、うん」と私も泣きながらこたえた。
「おとーたんにもう会えない。もう帰ってこない。
もうあのドアをあけて帰ってくることはない。
ウソだウソだ。でも本当なんだ。
気丈なママがこんなに泣いてるなんて。
ほんとにおとーたんは死んじゃったんだ。
何それ、この世って、こっちの都合なんておかまいなしだ」
そんなことを幼いなりに感じた気がする。

その時、横にいた祖母はどんな顔をしていたのだろう。

しばらくして、直後のドタバタから少し落ち着いてくると
母は気がついてしまった。
「どうしてあの日、誰よりもはやく
救急隊員からの連絡を受けていたのに、
あの人は駆けつけてくれなかったのか。
その上、次女の容態が悪いことを伝えて
すぐに来てほしいとわざわざ言ったのに。
その後小一時間も片付けのために待たせたのはなんなのか。
あの時すぐに来てくれていれば、
すぐに娘を預けることができていたら、
もう一度夫と話せたかもしれない、話せたかもしれないのに」

健気に祖母のことを支えてきた母の中で何かがプッツンと切れた。
それから、母は祖母に対してあからさまに嫌悪感を示すようになった。
そして、父が亡くなった当日の朝に感じた疑問も私に伝えた。
それはたしかに、子ども心に非常に納得のいく嫌悪感だった。
だから、祖母のことが、私の大切な
ママとおとーたんの最後の時間を奪った悪魔に思えたのだ。

それがあるから、母伝えに聞く、私が生まれる前の祖母の「悪行」の数々も、「あいつならやりかねない」とすべて納得がいったし、祖母の振る舞いのひとつひとつに、マグマのごとく怒りが沸いてきた。「はらわたって本当に煮えくり返るんですね」て何度思ったことか数え切れない。

あれは、悪魔で、不良品。今でいうならサイコパス?
変だよなんか、人として、おかしい。
そんな人、いなくてもいい。いない方がいい。
不良品なんだから、壊して、排除したって、かまわないよね。

それで、私はじめとする三姉妹は、祖母のことが嫌いだった。
嫌いで当然だ。
あんなやつ、地獄に落ちろ、アホンダラ。
て思ってた。

+++++

「でも…ほんとにこのままでいいのかなぁ。」

父が亡くなってから約10年が過ぎ、高校生になっていた私。
そんな風にふと思った日があった。

私をはじめとする三姉妹はもちろん、全員母の味方だ。
祖母にいじめられて頑張る母を三姉妹が包囲網のように守る、
どうしてもそんな構図になる。
なって当たり前だろ、とずっと思っていた。
でも…

私と母が楽しく話しているところから少し離れて、
ダイニングにひとりポツンと座る祖母の背中が妙に気になった。
父の事故の後、どうにも気持ちの整理がつかず
祖母に対してツンケンしていた母だったが、
祖母は本当にもう「わざとだよね絶対」っていうくらい
怪我や病気をしょっちゅうする人で、
ある時期も大掛かりな胃癌になった。
いや、胃癌の時じゃなかったかな。
もう病気が多すぎてどれがいつだか正直私は覚えきれていない。
とにかく、そういう病気が続く中で、母が
「意地張っていてこのまま放っておいても後悔する。
看病が必要なら同居しよう」と判断したのだった。
元々同居していた祖母と、あれこれあって
わざわざ別居した半年後くらいに父が亡くなったのだ。
結婚後、ずっと煩わしいクソばばあとの同居に付き合ってくれた夫が、
ようやく静かな生活を手にした途端に亡くなった、ということもあって、
母としては、もう一度祖母と同居するのに相当ためらったと思う。
「でも、病気なら、全力で看病してやりたい。後悔だけはしたくない」
…実は父の前にもいろいろ最愛の人を亡くしている母はそういう人で、
いろいろと自分の中で折り合いをつけて、
祖母との再同居を決めたのだった。

そんなわけで一念発起して一緒に暮らし始めたのだけど
予想通り何かにつけて衝突する。
「ほんとあのババアどうにかなんねぇのか」
と頭を抱える気持ちで暮らしていた。

そんな
「何とかならんのか。
この状況を、この関係性を、どうしたら変えられるのか。
ママのために。ママがもういじめられないために。」
という思いのなかで、ふと目に入ってきたのが祖母の背中だったのだ。

心理学やら、人の育ちのことなど、まだ何の知識もない高校生の私、
子どもの頃に比べたらだいぶ自我が生まれてはいたけれど、
まだまだボケっとした娘だった…けれど、本能的に思った。

この人は、ママと私たちがこうして笑っている間、
いつもこうして寂しくひとりで座っているのか。
その輪に入ることができずに。
疎外感を感じたら、人は頑なになるだろう。
弾かれていると感じる人が、輪の真ん中にいる人に
優しくできるわけがない。
「なんで弾かれてんだよおまえ自身のせいだろ」
と言いたいところだけど、仮にそれが100%正論だったとしても、
それをこちらが言い続けたところで、絶対にこの状況は良くならない。
むしろ悪化する可能性がある。
悔しいけど、何か変えたいなら、自分から変えるしかない。
私に今すぐできることをするしかない。

それで、祖母への接し方を「出来る時だけ」変えることにした。

祖母の強みは、すでにおばあさんであるということ。
おばあさん独特の、髪の毛が薄くてホワホワしているとか、
ほっぺたがぽちゃっと垂れている、等の外見的な「かわゆさ」があった。
それから、いろいろ邪悪な祖母だったけれど、
元々頭がキレて冗談が通じるところがあって、
ごく短い間なら楽しい会話をできる時もあった。
そういうポジティブな面を感じられた時には、
素直にそのことを表現するようにしたのだ。

特に、我ら三姉妹は、
おっちょこちょいでチビでドジなズッコケキャラでありつつ、
哀しみを堪えてめちゃくちゃ健気に人のケアをして子育てを頑張っている
「ママ」への愛情を表現するのに、まるで
”四姉妹の末っ子”かのように可愛がる、というやり方
をすることがこの頃から増えていた。
母のことをハグしたり撫でたり、末っ子を甘やかすような言葉で話したり。
私自身反抗期がちょっと抜けたくらい?(うろ覚え)の時期だったから、
まだまだ「ママとの衝突」もあった時期だけど、
それと並行して「ママを守ってやりたい」という気持ちも
急激に育ってきた時期だったのだと思う。
そんな変化を横目で見ている祖母の孤独感はなおさらだろうと思ったから、ママだけじゃなく祖母のことも、できる時は可愛がろうと思ったのだ。
「かわいいねー」と撫でたり
「何くだらないこといってんのー」と抱きついたり
「なんですかこのほっぺにくっついてるおモチは」
とほっぺたをつまんだり。
すると思った以上に、そんな時の祖母は嬉しそうで
「ヤダー」と言いながら笑うのだった。

四六時中「かわいい」とはとても思えない邪悪なクソばばあだったけれど
「思えた時だけ」
「できる時だけ」
「本当に思ったことだけ」
「素直に」
「正直に」
伝える。ただこれだけのこと。恥ずかしがっている場合ではない。
何かが変わるなら。それで、祖母も嬉しいなら、万々歳だ。

高校生の自分が、そんな風に決めて祖母に抱きつきはじめたこと。
実はこれが、今でも私の中で
「人生で一番、自分を褒めてやりたいと思う瞬間」かもしれない。
仮に今後私がノーベル賞をとるようなことがあったとしても、
きっと死ぬ時に人生を振り返り、あの時の自分グッジョブ、
と脳裏に浮かぶのはこの日の祖母の背中だと思う。

そこから、実に15年の長い歳月をかけて、
祖母との関係性はじょじょに変わっていった。
変化のあゆみは、最初のうちはそれはそれはゆっくりで、
「抱きついて損したわ!」と思って余計腸が煮えくり返るようなことも
何度もあった。
でも、塵も積もればなんとやらで、
10年を越したあたりから可愛い瞬間が以前に比べればずっと増えていき
(それでも腸は何かと煮えくり返ったけども)
14年目に入る頃、認知能力の低下や寝たきり状態とあいまって、
本物の赤ちゃんみたいになった祖母は、
「え、誰これ、別人?」と思うくらい、
ピュアで可愛いおばあちゃん、になったのだった。

とはいえ13年くらいは腸が煮えくり返り続けていたわけだ。
難しい性格の祖母は当然介護施設の入居も無理だし
ヘルパーさんも気が合う方がほとんどいない。
唯一ずっとお世話になっていたKさんというヘルパーさんが
神様のような方で、その方無しにはとても介護を乗り切れなかった
と今でも大感謝なのだが、Kさんが来ている時以外は全部、
家族4人総出で24時間の介護を回す、
密度の濃い時間を過ごすことになっていった。
華の20代を介護に費やすことになった私たち三姉妹には
相当フラストレーションが溜まり、
しょっちゅう三人で
「これいつまで続くのかな。あの人ほんとやだ。ほんと疲れる。」
と深刻な姉妹会議を開催していたものだった。

それでもそれを続けていかざるを得ない状況だとしたら、
この状況を肯定したい、と思うのが自然だ。
そんな中でじょじょに祖母の邪気が抜けていって
可愛いおばあさんに変身したのを目の当たりにして、
「最悪な貧乏くじ引いた」ような気持ちにも変化が生まれていった。

なぜ私たちは、
この、「何の役にも立たないクソばばあ」を
毎日一生懸命世話しているのか?
この人がこの世に生きていることに何の意味があるのか?
意味のない命と意味のある命は、やっぱりあるのか?

いや…介護は正直ウザったいし大変で嫌だけどでも…
「この人が今ココに生きている」ということ
それを、最後の瞬間まで、本人も家族も感じ続けているということ
このことに、言葉で言い表せない「価値」を感じる自分もいる。
「あなたがいないと悲しい」という言葉で説明しようとしたら、
それは、うーん、、、まぁ悲しいだろうけど、
開放感も相当感じるだろうし、そんな単純なものではない。

「でもなんかよくわかんないけど
このクソ役に立たないばばあが生きてるってことがめちゃ尊い」

こんな得体の知れない感覚が芽生えてきた。

すっかり可愛くなった祖母と、2010年のクリスマスを最後に過ごした。
プレゼントにもらったウサギのぬいぐるみを「ピッピちゃん」と名付けて、愛おしそうに膝の上に抱きしめ、これまたプレゼントにもらった
パバロッティのDVDを観ながら、歓声をあげる祖母。

「生きてることが嬉しい。
みんなが自分に良くしてくれて、ここはあたたかい場所だ。
居心地の良い場所だ。」

そんなことを感じているとしか思えない姿がそこにあった。
すべてを憎んで恨んで拒絶して、美貌とか学歴とか出自とか
そういう華やかさで外から評価されたい時だけ見栄を張っていた
祖母の殻はもうどこにもなくて。

そして、亡くなる二日前の夕方、もうすっかり息が浅くなり
苦しそうに見える祖母のことを家族で見つめていた。
寝たきりで動けない中しょっちゅう痰が出る祖母は、
枕元にティッシュの箱を置いておき、
痰が出るたびに箱に手をのばしてそれを吐き出すのだった。
もうほとんど話もできない祖母が、
その時もまたティッシュの箱を探し出した。
「はい」と箱を差し出してやった。
そしたら祖母が、ティッシュを一枚取って、私に渡してくれた。
そういえば数秒前に私は鼻をすすった。1月22日の寒い日だったから。
「ありがとう」とティッシュを受け取り、
たまらない気持ちになりトイレに駆け込んだ。
あんなに元気が無いのに、自分のことより孫のことを心配している祖母!
そんな姿を、はじめて見た。
突き上げるような感動と同時に「あの人とのお別れが近づいている」
という実感が襲ってきて嗚咽がこみ上げた。
なんかこう、人生の卒業試験を祖母がクリアしたような瞬間だったから。
もう、後は逝くだけだって感じがしちゃった。

そして1月24日の夕方、自宅で家族全員が見つめる中祖母は目を閉じた。
急激に酸素レベルが落ち始めたので、
ちょうど自宅にそろっていた母と三姉妹が全員
大急ぎで祖母のもとに駆けつけた。
これが最期だと分かっているから、
四人で自然と祖母の頭のまわりを囲ぬ、
それぞれに身体に触れながら口々に「大好き」「ありがとう」と叫んだ。
祖母は私たちの声を聞きながらふーっと目を閉じかけ、
一瞬目を見開いて天を仰いだ。
ずっと会いたかった、昔死に別れた家族たちが
お迎えに来たのを見て驚いている、そんな幸せそうな顔で、
思わず私たちもそちらの方向を仰ぎ見た。
そのまま、すっと目を閉じて。
そして、祖母の身体はこの世での活動を終えた。
エンジェルケアを施してもらった祖母の顔は、
まさにこの世でのおつとめを終え痛みから解放された人らしく、
穏やかでツヤツヤしていた。
「ちゃんと愛された人」の顔になっていた。

(続く)