反社会的勢力はなぜ日本に多く、増え続けるのか(4)

良いヤクザと悪いヤクザ、それぞれの庶民化
 反社が社会に入り込む三つ目の例は、見聞きした話である。見たというのはある論文であり、聞いたのは元金融機関職員でこの仕事をやっていた人達からの話である。こうした仕事をする部署をコンプライアンス部門と呼ぶが、業界仲間というと大げさだが、彼らも横のつながりを強化した情報交換で自分達の組織を守る努力をしているのだ。
 私が聞いたのは、お祭りの際の夜店を取り仕切る人達はヤクザである、という言葉だ。しかし、この人達はヤクザとは言っても、神社の境内などでの夜店の場所を決めたり、彼らの安全を守る目的があるとのことなので、日本の社会生活にとって必要な人達であると言えるのではないだろうか。
 だいたい、この人達がヤクザなら、神社の人達はヤクザと関係があることになってします。
 会ったことがないので普段の彼らが何をしているかは知らないが、この点においては、夜店間のトラブルや誰かの嫌がらせなどを防止するためにも重要な役割を果たしている。
 この人達に繋がるのかどうかはわからないが、戦後の混乱期、特に特高などの警察機能が低下または喪失した時期に、自警団を作って人々を守った人達がいた。これは幾つかの本で上奏されているので、興味がある人は是非読んでみて欲しい。彼らは、当時の人々にとって、絶対に必要な存在であった。そして、その役割が徐々に不要になっていっても、いわゆる「ヤクザ」という稼業を続ける人達もいたらしい。この稼業であるが、警察機能の提供の代わりに、ショバ代を貰うというものなのかも知れない。
 ちなみに、米国でアルパチーノが主演した1973年の映画「セルピコ」は、犯罪の多いニューヨーク市を警備して回るニューヨーク市警の一人が主人公の映画だが、このセルピコも、例えば朝の巡回の時にダイナー(日本で言えばモーニングセットを出すような喫茶店)のカウンターに座ると、お店のオーナーがコーヒーなどを出すのだが、お金を貰わない。支払わないというべきか、それが日本人の言う阿吽の呼吸か、それとも警察官の横柄な態度が背景にあるのか、は、実は映画をよく見ないとわからないのだが、当時のニューヨークは(今もだろうが?)はこういう警官がいないと治安が維持できなかったのも事実である。
 上述の日本の自警団のようなものかも知れない。良いヤクザの例である。

悪いヤクザは極道のこと?
 次に悪いヤクザだが、これは暴力団のことなので触れる必要はないだろう。広域暴力団という表現もある。
 問題は、この良いヤクザと悪いヤクザは、どう庶民の中に溶け込んでいくかだ。これも聞いた話だが、例を二つ書いておこう。

 一つは、前回の二つ目の事例と同じで、普通の庶民と結婚することで、その後を静かに生きていれば、世間が忘れるというものである。ところが、金融機関などが使うリストでは、これが残っている場合があると聞いた。その時は、ヤクザと親族関係になると、永遠に問題から脱せられないというリスクがあるように感じてしまった。悩ましい。
 さらに、仮に夜店の人と結婚したら、どうなるのだろうか。というのは、夜店で働く人たちを、読者の皆さんはどう見ているか、私は気になるからである。つまり、夜店で働く人達そのものを普通のサラリーマン家庭と異なると感じている人がいるならば、その人と良いヤクザが結婚しても、庶民化にはならない。悩ましい。
 もう一つは、普通の庶民との結婚はマイルストーンながら、中小企業であれ零細企業であれ、一般庶民の社会生活に入ることである。
 ところが、日本では、こういう人達を真面目に受け入れる素地が出来ているだろうか。私の友人には、夜店で働く人を知っている人がいるのだが、この人によれば、その人は何をするにもどこか遠慮しているように感じるとのことだった。

 結局、良いヤクザ、がいるならば、彼らを、反社のカテゴリーから抜け出させる努力も必要なのだろう。


もう一つの物語ーー桂三枝の「くーもんもん学習塾」
 桂三枝の落語に、「くーもんもん学習塾」というのがある。ヤクザの一家が、経済的に厳しくなってきた環境下で、生活費を稼ぐために学習塾を始めるという話だ。
 チョー怖い兄貴が刑務所から出てきて先生になって、英語を教えると、先生を怖がる生徒は必至で勉強する、という話である。
 英語の熟語も面白くて、Don't look at meはメンチを切るな、Far a wayは高飛びせい、などと聞いているだけで面白い。そしてこの先生は自分の教えることに文句を言う学校の先生がいるならば、「連れてこい、勝負したるけん」と生徒に言う。こちらは怖い話だが、責任感があるという見方も可能だろう。
 そして極めつけは、塾の父系参観。このチョー怖い兄貴に感謝する父母が、塾長にどの高校に入れるかと質問する。塾長は誤解して、「入ると言ってもいろいろありますからねえ、網走、〇〇、・・・。まあ最近は〇〇が扱いが良いと・・・」と話すところで、部下が「それは刑務所の話です」となって終わる落語だ。

 実は、日本には文科省の認可を経ていない教育組織が存在する。予備校や有名な学習塾ではなく、元先生が定年してからやっているような個人経営の塾はその範疇だろう。
 さて、この「くーもんもん学習塾」はとても面白く、桂三枝さん(今は桂文枝さん)の知恵が如何にすごいかを物語るが、同時にそれは、我々がよく相手をみて子供を塾に通わせなければならない、ということを意味している。
 今の時代、お金が儲かれば良い、という流れがあるから闇バイトが横行し、ブラック企業が増えてします。同様に、勉強さえ教えてくれれば良い、となると、やや怪しいと考えるべきところも出てくるかも知れない。

 その点でちょっと気になるのは、大学である。地方の小さな私立大学などは定員割れして経営が苦しくなっているとことがあり、中には他の資本を受け入れて再生を図るところや、地方自治体の支援を得て私学だったのが公立大学になる例も出ている。
 また、村おこしを考えているところに、どこからともなくやってきて、村おこしを手伝いましょう。勉強する組織を作りましょう、などという例もあるらしい。これは真面目なケースだったと聞いたが。
 しかし、だ。こういうところこそ、気を付けないとどういう人が入ってくるかわからない。学校経営を支援する資本家、大学で経歴も公表しない教員、いろいろあり得る。このあたりは、文科省の強い指導を期待したい。


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