自分自身の人生・内面を整理することとアニマルコミュニケートの関係性

ふと、私がこれを非常に繋げて考えているという角度からの記事を書いたことがなかったことに気付いた。

動物や植物と対話をすることと、自分自身と繋がるということ、一見関係がないように見える人もいるかもしれないが、私の考えるに、実はこれは、非常に太く密接な繋がりがある。

なぜなら、動物や植物は、無意識領域の塊であるから。

過去の記事でも何度か書いているが、私はもともと、幼い頃から、動物や植物や自然とばかり”対話”していた。
小学校の通学路の途中にある竹藪で立ち止まっては、何時間でも竹や草木や鴉などと話し込んで、片道子供の足でも15分あれば行き来できるところをいつまでも帰ってこないので、家族に心配をかけていたようだ。
母親仲間に聞いたら、「あら、お宅のお子さん、道路で草とお話してたわよ」という具合だ。

ひとと動植物とでは、言語体系が違う。
いや、そもそも「言語」というのは人間の顕在意識の概念でしかないから、”会話””対話”という言葉を使うこと自体、語弊がある。

「アニマルコミュニケート」という言葉を使ってしまえば、それもそれでその中にいろいろな”層”があるようだが…。

ただ、動植物との対話、というのは、宇宙との対話、無意識との対話である。
対話、という言葉にも語弊がある。

例えばだが、スピリチュアルヒーラーなどが、石に手をかざしながら
「今、石と話しています…」とやっている、
あれは、「今石と話している」と見せないと見ている側(人間の顕在意識たち)が理解できないがための、パフォーマンスである。

私が言っているアニマルコミュニケートとは、例えば猫に「今夜なに食べたい?」と聞いて「にゃあ~」と言われても猫語がわからないから、アニマルコミュニケーターに通訳してもらおう!というような意味のアニマルコミュニケートではない。

私は、私の体験した人生の一大事の時、本当のアニマルコミュニケーター(偶然知り合いであった)の方に救っていただいたが、彼女は外国から、そしてうちの仔の写真も見ずに、存在と事情を私からほんのごくごく僅かに聞いただけで、私や家族たちとの関係性すらほとんど全く知らない中で、本当に必要な瞬間にうちの仔と繋がり、彼の状態を共有してくれた。

私は以前の記事でこれまた何度か、魂と肉体との関係性をこう考えている、というような概念(とはいえ言葉に無理やり当て嵌めてのものではあるが)を書いたことがある。
宇宙は大きなエネルギー体であり、そこから無数の触手が出ているようなイメージで、その触手が「肉体」を一時期、指人形のようにはめて包括する。この説明型角度を使うと、催眠でもスピリチュアルでも解離でも科学でも、あらゆることが矛盾を感じさせず説明できる。
詳細はここでは書かないが。
ともかく、言うなれば、その大きな大きなエネルギー体の「核」の方にアクセスするイメージである。その「器」の触手の”部分”だけではなくて。
ただ、無論その上で、おおもとにアクセスすれば、触手の部分の状態にもアクセスすることができる。

そして、このおおもとの部分というのは、自己の部分(自の分=自分)のおおもとでもあるわけだ。
そして、似たような角度から言ってしまうと、スピリチュアルヒーラーではないので”いわゆる”スピリチュアルのように捉えられたくはないのだが、自分の内面を整理する、自己と向き合う、自分自身と繋がるとは、要するに自分の深い潜在意識と自己一致をする、ということである。つまりこれは、「おおもと」に繋がっている方向であるわけだ。
ユングはその間に「集合的無意識」があるとも言っている。

前世療法を行う時もそうだが、必ず一度そこに繋げる。セラピーのクロージング(統合作業)はそこで行われる。


そして、自己不一致の人たち(人生に問題を抱えている人たち)は、この、自分自身(いわば顕在意識)と、本来の自分自身(潜在意識と繋がったありのままの自分)との間に、不通状態が起きている状態であるといえる。
エリクソンは、「あなたのクライアントは、自分自身の潜在意識とのラポールがとれていないがゆえに、あなたのクライアントなのだ」という言葉を残している。
自分自身と自分自身との間に、あらゆる不純物が詰まりに詰まって、いくら手を伸ばそうがお互いが届かなくなってしまっているのだ。
そして、ここに何が詰まっているのかと言えば、専門的な言い方をすれば「認知の歪み(非適応的認知)」である。自分自身(同時に=世界)に対する見方が歪んでしまっている、または外側の他者の生き方や見え方や情報を自分自身に無理やり当て嵌め貼り付けた、何にしても「色眼鏡」のことである。

そして、クライアントの中には、この自分自身の色眼鏡に気付きたくない人もいる。つまり、本来の自分が見えなくなるため、見えちゃいけない、ために、色眼鏡を必死に溜め込んできているわけであるから。
しかしながら人生、苦しい。問題を何とかしたい。もしくは、身体的症状に出たりなど。
こういう場合は、身体的アプローチから入ることもできる。身体の問題と心の問題は必ずイコール関係であるから、心理的に自分自身と向き合うことに向いていない(段階の)人は、身体的アプローチから入り、それが合えば、自分自身の問題と向き合い色眼鏡をとっていこうとできるまでに移っていくことができる。
それと同時に、私は、これはあくまでクライアントさんによって、なのだが、自分自身と繋がることを拒絶してしまう時、(しかしながらこれが合う場合、)動植物との対話を導入する場合がある。

動植物と「今夜何食べたい?」のような、要するにその器を担っている触手部分のみと話すのは、また別の話だ。これはいずれにしても人と人との会話と同じで、要するにその人の「五感」によって感じている「主観」の世界「社交」の世界であるから、そうではなく、動植物のエネルギーと繋がる、要するに一種のアニマルセラピーと言えるものでもあるかもしれない。
全ては繋がっている。

その意味での本当の(という言い方も語弊があるが)動植物…自然との対話は、無意識との対話であり、それは、実は=自分自身である。
本当に深く繋がるアニマルコミュニケートは、あくまでお互いの関係性に一切のディスカウントもなく、ただ、「あなた(私)に今必要なメッセージ」が来る。

つまり、自分自身と繋がるためのメタファー(クッション)として、動植物にその役割を担っていただくのである。
動植物が本当に好きで自然に溶け込み対話したい場合、そちらが動機付けになる場合もある。そうして、本当に動植物から今必要なメッセージを受け取ることができるようになると、いつの間にか、いわば三角関係のように繋がっている”自分自身”のメッセージを受け取ることができるようになり、そこの間に詰まっている色眼鏡も取り去っていくことができる。

逆に、本当に自分自身と繋がった時、自然とは対話できている(ことに気付く)のである。
ひとも動物であり、体感で常に自然と繋がっている。一体である。それを、「対話できない」と思い込み対話できている己のありのままに気付かないという選択をしているのは、顕在意識の潜在認識(色眼鏡)であるから。

本当のアニマルコミュニケートとは。
実際アニマルコミュニケーターの著名らしい人も言っていたことでもあるが、これは当然、猫語や犬語を学ぶことでも、頭で行動観察し研究し尽くすことでもない。
ただただ、純粋なる…言葉で表現するのは難しいが、いわば、愛と感謝と尊敬のエネルギーで、待つこと、である。
愛と感謝と尊敬のエネルギーだけになる、ことであるという言い方もできるかもしれない。
そして、「待つ」という言い方にも語弊があるが、待った時には、既に来ている。一体であるから。また、顕在意識を超えたところには、時間軸という概念自体がない(時間軸と言う概念は顕在意識が理解納得できるために自分たちで作った言葉)のだから。

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