視覚障碍理解についてー「見え方」

この方の動画が、大変わかりやすいので、共有させて下さい。

視覚障害弱視YouTuberの深刻な悩み! - YouTube

現在、体力と時間の関係であまり書き並べることができないため、非常に惜しいのですが、少なくともこれは私達も非常によくわかる、ということを。

「見える」「見えない」とは?「見え方」を再現する、という矛盾


まず、見え方というのは、目で見えているというより実際何をどこまで認識しているかというのは脳であるので、”見え方”は例え健常者であれ人によりまったく違う、ということ。
そのため、アプリなどで再現はまず不可能と我々は感じています。
勘違いや語弊も広まりやすい…。
しかも、この動画の中でもこの方が仰っていますが、本人はそもそも「自分の見え方」の中で、「自分の見え方を再現」する、という、非常に矛盾に満ちたことをやることになる。
少しわかりにくいですが例えばこの方が「A」というタイプの見え方をしていて、健常者が大まかに「B」という系統の見え方をしていたとする。
しかし、同じものを見ていて既にAという見え方と、Bという見え方が存在しており、Bという見え方を知らないAという見え方をしている人が「Aという見え方を再現」しようとしたところで、その人の目がそもそもAという見え方をしているのだから、画像を調整しようがしまいがAという見え方をしているため、調整のしようがない。
その中で、この方はそれでも何とかして伝えようと、アプリの機能や推測を駆使して再現しようと試みて下さっていたのだ、ということを、晴眼者の方には感じていただけたら、この方の工夫と苦労のにじみがわかると思う。
晴眼者の方、もし、何やら自分と違う見え方をしているらしい人がいて、その人に「あなたの見え方をこの人にわかるように再現して下さい」と言われたら、再現できますか。「見え方」を再現する、ということは、実は非常に難しい…どころか、ほぼ不可能なのです。

「どれだけ見えない(認識できていない)か」を再現することは、別の意味でできるかもしれませんがね。
「見える」ということ自体、本当にいろいろな要素がある。「見えているか見えていないか」と「認識できているかできていないか」も違うし、その場の微妙な調光の差、光の質、体調による見え方の違い、注意力がどこにどれだけどう向いているかの微細な違い……人は簡単に「見る」という言葉自体は使うが、そんなあらゆるものの組み合わせによって「見える」ということが成り立っている。
その上に、目の問題、脳の問題、身体反応の問題など、全てがひとによって組み合わせも違うのです。

晴眼者の方々も、例えばちょっと急いでいる時、道端にあったものの存在に全く気付いていなかったり、「見えていたはず」なのにぶつかったり、目的のものしかそもそも見えていなかったりするでしょう。
「見える」ということ自体が、非常に複合的な大サーカス。

「見えている」ことを説明するのは、物凄く難しい。
「見えていない」ことを説明するのは、物凄く難しい。

その中でも、私達はこの動画に非常に共感する部分があったため、こうして引用させていただき、記事を作っています。
ですのでもちろん、この動画のお二人とも見え方は違うわけです。

「見る」「認識する」=視覚認識機能とは

私達の器の場合は、まず、目や視神経ではなく恐らく「脳の認識機能」の問題。
視野狭窄や追視ができない(同時に焦点移動が難しい)などの問題もあります。ただ、これもどうやら眼球に異常があるわけではないようなので、脳の認識機能でしょう。他、震顫はあるようです、これは脳と眼球の複合でしょうかね(ただ、眼球自体が悪いわけではない)。
他、羞明・夜盲であったり、振り向くなどの動作や階段昇降・周りが動いている時などに視界がぶっ飛んだり(違うように見えますが、これは追視・焦点の問題が日常生活に出るとこうなるわけですね)…他、通常学級で無理やり周りの子たちと同じように振る舞わねばならない、と思い込んだ環境の中で長年、自覚するより前にひたすら「誤魔化し技術」を身につけてきてしまったことによる「見えているフリ」「見えているつもり」で自分自身でもどこまで見えて(認識できて)いるのかいないのかわからない二次的三次的問題であったり…それでも脳でも補完できる部分できない部分…、更には、意識を持っている人格状態によっても視覚状態は違います。

そして、それらが何によるものかというと、これも恐らくは、ですが、出産時低酸素症による先天性重度脳性麻痺による影響と、解離の影響、他、発達障碍の影響ももしかしたらあるかもしれません。これも非常に複合的で複雑です。

光の加減による見え方

羞明、に関しては、晴眼者の方も比較的想像しやすい世界かもしれない。
というのは、晴眼者でも経験があるはずであるから。
晴れた日に一面真っ白な雪に覆われた地面に立った時や、炎天下で日差しの強い日、世界が白っぽく霞むように(この動画の弟さんが言っていた「白く飛ぶ」とも表現できる)なってしまう、真っ白い紙にボールペンで何かを書いている時に真っ白い強烈な光を当てると明るくなるどころか逆に光が反射してボールペンの文字が見えにくくなるとか、携帯電話やPC画面の光を最強にすると逆に文字表示が(ちかちかする、という表現はまた語弊がありますが)読みにくくなるとか。
あとは、太陽をじっくり直視したあと(これ自体危険なので気を付けて下さい)、ぱっと周りの景色を見ると、目が眩んで見えませんよね。
また、太陽をじっと見ていて、その真ん中に飛行機がとおって行ったとします。すると、太陽の真ん中に来た時、飛行機が見えなくなりませんか?しかしこれは、太陽の真ん中に来た時飛行機が消えるわけではなく、太陽の光に呑まれて見えなくなるわけですよね。

羞明は、これらと同じような現象が日常茶飯事、あなたが感じる光の半分かそれ以下の光でも感じている、と思って頂いても良いかもしれない。
我々は幼い時、横断歩道の白い線を物凄く眩しがっていたそうです。
こういう場合、横断歩道の白に反射する光のせいで、周りの景色が飛んでしまって目が眩んだような状態で見えません。
何度も言いますが、あくまで私たちの場合、更にはこれは私達が表現したらこうなる、というだけで、表現と実際のズレもあるかもしれませんよ。

また、晴れた日の見え方がそもそも、恐らく周りの人たちよりも相当眩しく白んで感じています。そうすると、それだけで物の認識は大多数の人たちよりも難しくなります。
だからと言って、曇りの日も、この動画でも言われていましたが、晴れているとそもそもが眩しくて見えないけれど、曇りの日も、光の反射や乱反射で、結局周りを認識できていないことが多い。
そう、「見えていない」と自覚しているのではなく、「結果的に認識できていない」ことが多い、と私は表現しています。
そう。「見えていない」と「結果的に認識できていない」は、違うのです。
「見えていない」というと、「見えていない」ものやことを本人が自覚できているかのように相手に思わせてしまう。そして、「じゃあこれは見えてるの?」「ああ…〇〇」「見えてるじゃん!」ということになる(笑)
根本的に違うのです。そもそもが、そういう問題ではないことの方が多い。

ちなみに晴れの日・曇りの日に関してもう少し個人的に付け加えると、私達は夜盲も呈している場合が多いです。
つまり、明暗の差でやはり見えなくなる(周りの認識力が一気に落ちる)。
晴れの日は、そもそもが眩しい分、ちょっと日陰に入ったりすると(私たちは都心に住んでいますが、これが非常にしょっちゅう起こる)、突然真っ暗になったように感じられるため、結局全く見えなくなります。
これが、恐らく他の人には、そこまで明暗の差は激しく感じられていないのではないかと思われる。ちょっと眩しめのところから、ちょっと薄暗いところに入ったくらいの印象なのではないかな。
これが我々にとっては、太陽をずっと直視していたところから突然プラネタリウム(寧ろ真っ暗な部屋でも同じかもしれない)の中に入った並みの落差を感じるわけです。
そしてまた数歩歩いて日差しの中に入ります。するとまた強烈な眩しさ(しかも先程の落差で更に激しい違いに感じながら)に目が眩みます。これが主軸(凘銀さん)の状態であったりすると、眩しさというより眼痛として感じられ、閉眼してしまう。閉眼してしまうと眩しいより何よりそもそも周りのものを見分けることは一切できなくなる、という場合もあります。私達の場合は眩しさではこちらの方が今は多いです。

では私達の場合、曇りの日は少しはましなのか?
…マシかもしれません。その意味では。
しかし、今現在、曇りの日でも白杖は手放せなくなりつつあります。
というのも、やはり光の乱反射がきつい。また、曇りの日は、やはりその光の乱反射のせいなのでしょうか…基本的に視界が全体的に白んでいるようです。そのため、コントラストが薄くなり、物の見分け、判断はつきにくい。その上我々は「視覚認識」(脳での認識力)が遅く弱いので、尚更かもしれません。
曇りの日、本当に安定した調光の中では(その中でも雲の流れによって太陽光の変化が出るので、やはり刻一刻見え方が変わりますよね)、じっくり注意を傾けていれば、恐らく他の人よりゆっくり、物の認識はできます。
しかし、コントラストがない世界にいるため、自発的に何かに気付くことは難しい、と言えます。
だから、「あそこに〇〇があるね」とか「これ見える?」には反応できる(ことがある)のに、日常生活では何も見えて(認識できて)いなくて気付かないという事態が起こるわけです。

それから…夜。
では夜は?あ、夜盲か、じゃあ暗くて見えないの?と言われると…。
私達の場合は、「眩しい」のです。実は。
夜は、真っ暗なくせに強烈な光があちらこちら舞っていますよね。
真っ暗な中で電灯だとか、店の看板はあちらこちらで強烈な光を発していますし、車のライトはそれが急速に動いているわけで。
…どうやら、大多数の人たちにとっては、例えば歩道を歩いている時も、これもただ薄暗いところと同じで、暗い中で店の看板が浮かび上がっているだけ、いやむしろ「店の看板の明かりのおかげで歩道も明るく浮かび上がって見えやすくなっている」様子。
我々には、これは、
「漆黒の闇の中に歩道の脇にある店の看板が強烈な光(スポットライトと言ってもいい)を放っていて、光は眩しくて目が眩む上に歩道は更に落差で漆黒度が増す」という状態です(笑)
更に凘銀さんに言わせれば、この光で眼痛と閉眼反応として現れてしまうので、そして閉眼してもひたすら眩しい、拷問に近いと表現されます(笑)
以前、学生時代、友人と夜道を歩いていて(その頃は羞明や夜盲もかなり解離していて、一応夜道を普通に…とはいえ大分見えていなかったようですが…見えていると自分では思って、歩ける交代人格がいた)、車道の脇の街灯について、視界の中で光が舞わないか、そしてこの光のおかげで目が回ったり歩道が逆に暗くなってわからなくなったりしないかという話をした時、その友人には全くそのような症状がないことを聞き、驚いたことがあります。しかし、これは大学時代後半のことでした。
その時まで、実は「きっとみんなそうなのだろう」と思っていたわけです。なまじ夜道を普通に歩いてきてしまったために、慣れていたために、自分がどれだけ他の人より危険な視界であったか知らなかったわけです。
凘銀さんなど、視覚認識ができていない上に視野狭窄、更に(恐らく大多数の人から見ればほんの少しの)光で閉眼反応を起こしてしまいつまりは突然全盲とほぼ同じ状態になってしまうにも拘わらず、慣れている徒歩3分(凘銀さんが歩けば5~10分かかりますが)の実家と現在の居宅の道など、白杖を使わず足の裏の感覚と音による判断だけで歩ききってしまいます。ある意味これは恐ろしいことです。

雨の日は、言わずもがなではないですが、更に別の要因が重なってきますよね(笑)
今回の記事ではこういう細かいことを書きたいわけではないので省略しますが、雨の日はそもそも暗い上に雨自体によって視界が遮られ物を認識しづらくなる。その上、(自分が)傘をさしたり、傘をさしている人がたくさん動いていたり(傘などで大きくなり動いているものが視界に入りやすい)して認識力が落ちる。更には雨の日は音の聴こえ方も違います。普段、無意識的にいろいろなものを音で判断している部分がある、これが、雨や風の音で判断できなくなっていたり(意識的にも無意識的にも)、雨の日独特の音の聴こえ方(反響の仕方など)で、周りの認識の仕方もいつもと変わってきます。
ですからとにかく何が見えているか見えていないか以前に、周りのものや状況の認識度合いはまるで変わっています。
ちなみに我々の主軸であり生活上一番視覚認識に頼っていない凘銀さんは、晴れの日と曇りの日でも周りの音の聴こえ方は違う、と言います。これは、同じ器を操っている交代人格の私にも、ここまではわかりません。恐らく湿気の度合いなどのためでしょうが…。
ですから、周りを認識しづらければしづらい程、無意識無自覚的に、他の感覚も駆使するため、視覚にどれだけ意識や力を注ぐかだとか、脳の判断に資格情報をどれだけ手がかりとして使うかだとか、「見えている方が周りが認識できているか」「”見えて”いない方が実は周りを認識できているか」だとか、本当に複合的に変わるのです。

月一回の病院(解離の専門医)へ行くとき、凘銀さんは、駅から出ると歩道と車道の段差がない広い道路を歩かねばならないので、良く、白線を辿ります。
ただ、これは(凘銀さんの場合)白線が真っ白に光っていて認識しやすいからというよりは、足の裏の感覚と白杖で地面をこすった時の独特の僅か浮き上がる塗料の感覚に頼って、白線を辿っています(なので白線が薄れた場所では何度も確認をしたりゆっくりになったり、見失って真っ直ぐの車道にいるにも拘わらず迷ったりもします)。
視覚情報に頼ることが難しい者は、全身の細胞で周りを”視る”のです。

「見えなくなる」ことにより「見える(行くべき場所がわかる)」現象

あとは、晴眼者の方に予想外でありそうなことでは、こういうことがあります。
先程夜道の説明で書いたように、我々は、自動販売機や駅の眩しい電光看板など、目に入ってしまうと眩んで見えなくなります。もしくは閉眼反応が起こってしまいます。ですから危険です。
しかしながら、逆に、これが道しるべになることもあるということ。
私達の家の前には、自動販売機があります。また、夕方頃になると煌々とまっ黄色に強烈な光を放つ大きな店の看板があります。
目に入った瞬間、閉眼反応が起こってしまいます。しかも自宅に向かっている時はこの光に向かって歩くわけですから、もう目を開けることはできません。
しかし、実は、この自動販売機の光で閉眼した瞬間、その位置に向かえばいいということがわかるのです。
これがなければ、夜道、曲がり角からの覚えている歩数を(これは自動販売機の光があっても覚えて数えてはいるのですが)歩いて、その辺りに来たら白杖でくまなくじっくりと探って自宅の敷地を探り出す、ということをすることになります。
唯一、「見えていない」のにも拘わらず遠くにあるものを道しるべにできるという現象です。

焦点を決めるということー視界に入っていることと「見えている」ことは違う

それから、非常に共感することが、この動画内で弟さんが後半の方で仰っていた、『「これ」を見ながら歩く、と決めてるから』という表現。
いくら目が物を映していようがいまいが認識は脳が司る。
晴眼者であっても、歩いている時、「焦点」は無自覚にどこかに定めながら歩いているはずです。ただ、他のものが動いているのも捉えることができるから、車の運転などもできる。
しかし、それでも急いで歩いていたり運転していたり、見えている何かに注意を惹き付けられていたりしたら、いくら視野の広い人でも、視界の端に蝶々が飛んだことに気付かないかもしれませんよね。それどころか、目の前にモノがあって実はそれを探していたのに全く見つからなかった、という経験はありませんか?目の前に大きなものがあっても、そういうことすらもありますよね。
ただ、視覚認識が弱い場合や、焦点の移動自体に難がある場合、無自覚に、もしくはかなり意識的にも近いレベルで、焦点を決めています。そのため、どうしても一度に認識できるものの数は少なくなっているとも言えます。
我々の場合も視野が狭いとか動体視力がないとかも言われてきましたが、何にしても、見る時に時間がかかる。そして一生懸命見る。ようです。
そのため、目自体はそこを見ていても気付かなかったり、歩道を歩いている時に目が物を映している、いないに拘わらずぶつかったり、更には見えていてもその時の光の加減や体調でよくよく集中しないとそれが何であるかわからなかったり。
ただ、視覚認識が弱いひとは、それでも「日常社会で皆さんと同じ環境の中で生きてきている」ので、その年数の中で、ごまかし技術があります。慣れがあります。その人なりに、歩けてしまう場合もあります。
ただ、その時に何が見えているかいないかは、人によってまるで違うと思われる、わけです。
私達の場合は「弱視」という枠からも外されるものかもしれませんが、視覚認識の弱い場合は、特に、「その時その場で一時的な間に見えているもの」は、晴眼者よりも非常に狭いと思って頂いて良いものがあると思います。

見えている世界が、ストロボのようだという表現

もう一つ、特筆したかった、この動画の中で共感したことが…
お姉さんの梢さんの仰っていたお話で、人に話したことがほとんどないと言っておられましたが、「ストロボみたいになる」ということ。
この方のおっしゃっている「点滅する」が、私達の感覚と同じ(似た系統の)ものか違うものかはわかりません。(いや、厳密には「同じ」場合はあり得ませんが。人間が違うので。)

ただ、何となく何故か非常に共感したのが、我々も、周りの景色が非常に断片的だということ。いや、幼い頃から学生時代、社会人になっても、感じていませんでした。連続性がある見え方をしているように感じてきました。ただ、これが脳の補完であることも、今いろいろな表現法をすることができるようになってから、感じるようになってきました。
どんなに少なくとも、私達は視覚情報を、物凄く断片的、とびとびの写真画像のようにしか(いや、これでも言い過ぎ)覚えていません。
その場においても、連続的には見えていないことを感じています。ただ、これを「点滅している」というかはわかりません、言いようのない感覚なのです。
ただ、ぱっぱっぱっぱと切り替わって行くような感覚なので認識が追い付かない、細部が認識できない、という点では、似ているものがあるかもしれません。

他、私達の視覚認識や、日常の困りごと

あれこれ書きたいことはありますが、特筆してみたいところだけひとまず、綴ってみました。

そして、この方も動画の中で仰っておられましたが、まさにこういうことを言語化しておられる当事者は少ないと思い、私達は脳性麻痺や解離者、発達障碍からも、こういう記事を作成したり交流会など伝えていく活動をしています。

また、他にも、これは本当に当時とてつもなく珍しいことだったのですが、今では完全に日常生活のほとんどを司って主軸となっている凘銀さんがまだいち交代人格であった時(この時と今も視覚認識の感覚は違っているようですが)、本人の見え方を本人が書き綴った記事があります。

https://note.com/preview/n747c0c403da9?prev_access_key=c7a0d6281e9da94c11879728b3870434

ぜひこちらも併せていただくと、面白いかもしれません。
他にも、解離性同一性障碍(DID)の症状と視覚認識機能のことを併せて記事にしたものもあります。

他、白杖を携えて外に出ている時の体験や発見を、最近になってなるべく綴るようになっています。
日常困りやすいことや勘違いされやすいこと、晴眼者との認識の違い、お互いこうすれば生きやすい、など、綴っております。


私達の活動


🌠また、ここからは普段の活動の紹介ですが、
私達は心身障碍当事者兼、だからこそ可能な手法を織り交ぜた、心身セラピスト(オンラインでは深層心理にアプローチしたセラピーが主)をしております。
身体の問題でも心の問題でも、そのご本人にはそのご本人の人生の最強攻略プログラムがあります。その取扱説明書・攻略法は、そのご本人の中にあります。私達はあらゆる心理療法や身体アプローチ法やそれらや当事者としての経験など全て統合して編み出した独自メソッドを駆使して、ご本人がそれを手にする、お手伝いをしております。

障碍理解の活動なども広げております。
この記事で興味をお持ちいただきましたら、ぜひ遊びに来ていただけたらと思います。


🌠同時に、今年より、非営利協会を立ち上げました。
障碍のあるなしに拘わらず、ご本人がご本人の社会での心地良い生き方、ご本人の人生での人生最強攻略プログラムを掴み生きていくことができるよう、そして生きとし生ける存在たちが、本当に身近なところから、愛と感謝と平和の輪を繋いでいくことができるように、そして自然と対等にそれぞれがそれぞれに、お互いを補い合い支え合う社会の輪の一端を、広げていきませんか、という、理念の上で、あらゆる角度から参加者の方たちが生きやすくなるためのワークショップ、勉強会、研究会など、展開しております。
この中で、障碍理解の啓蒙活動や互いに支え合い補い合う社会がどうやったら広がっていくだろうか、など含め、展開していこうとしています。
団体概要、理念、挨拶など、ご覧いただき、共感いただけましたら、ぜひ私達と、交流してまいりませんか。
ぜひ、お気軽に接点を持っていただけたら、嬉しいです。


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