スピリチュアル・宗教・科学の違いと共通点ー人間の概念の内側のものと、外側のもの

そう。

”日本の””いわゆる”スピリチュアルというものは、表面的には繋がる繋がると言いながら、結局的には「善悪」を強化する考え方が非常な割合で多い。

というのも、本当のスピリチュアルというのは、まるで無条件、制限なしの世界に入ってしまうので結局やはり人間の概念には大きすぎる。

そして、現代人(現代はスピリチュアルブームである)は、殊に「制限のある」世界しか受け入れられない、条件付きスタンスになってしまっている。

しかも、現代日本人は更に、「誰かが」良いか悪いかを決めてくれる、それでなければ自分では何も決められない(自分で決めたと思っていても、実はそれは大抵誰かが良いか悪いか決めたものであったりする)、文化が奥深くまで浸透しようとしている。
(これらにも背景や根拠もあるのだが、ここでは割愛する)

ちなみに逆説的に聞こえるかもしれないが、日本で法律にわざわざ違反したような犯罪が増えている背景にも、これが少なからずあるように感じる。(ここも話すとこれだけで長くなるのでこの記事では割愛する)

私のクライアントさんにはスピリチュアルにどっぷり浸かっていたという人も多いが、(あくまで私の体験的統計ではあるわけだが)こういう人ほど、やはり世の中が善悪・上下・白黒などでスパッと竹を割ったようにわけられるという考え方が埋め込まれてしまっている人や、それでなければ安心できない人が多い。

その中には、それで強迫性障害を急速に悪化させた人などもいる。

そして、善にしても悪にしても絶対的で、その角度、その一面から見たら、そのまま固定する傾向にある。

「存在する・しない」もそうである。スピリチュアルは目に見えないものを存在すると言うから一見柔軟に見えるのだが、例えば科学の端くれ、身体のメカニズム・心のメカニズムを学んでみても、「存在する・しない」ということですら、「ヒト」の作った概念のひとつでしかないことに気付いてくる。本当のスピリチュアルというのは、存在する・しないの概念よりも更に外側にあるのだ(ある、という言い方も……なのだが)。
そして実のところ面白いことには、日本人の”スピリチュアル”を謳う多くの人たちよりも(ついでに書くと本当のスピリチュアリストは、”謳う”ことが本当に語弊しか生まないことも知っている)、科学者の方がよっぽど目に見えない言語にも表現不能な世界を信じている。

そして、これらの下には、「自分自身の土台が安定しないから外側で土台を作ってくれることを求める」愛着障害と深い関りがあるのだが、これに関してもこの記事では割愛する。

日本のスピリチュアルと愛着障碍は非常に関係性が深い。

現代の日本のスピリチュアルというのは、これは決して批判的に言うわけではないが、ある種の位置づけから言えば、ひとつの宗教である。

そして、日本のスピリチュアルに傾倒している人たちは、自分自身の他人軸の人生脚本プログラムを、これによって強化させ、それでいながら一見表面的には「本当の自分と繋がる」と言っているように見せるため、それで自分自身の本当の問題を隠す隠れ蓑にしてしまっている場合が多い。

そして、日本のスピリチュアルは、「わかろうと」する。

ひとにわかるはずのないことを、概念の外側のことを、自分(各スピリチュアリスト)の概念の内側でわかろうとし、更にはそれを自分の概念枠の言葉において他者にも表現し説明しようとする。
…ちなみに…表面的な書き方だけではこれも逆説的に見えてしまうかもしれないのだが、それでいながら、スピリチュアリストの多くは実は元々は「外(他人)から来た情報」をいつの間にか盲信する傾向が高く、そうしてもやもやと出来上がってきた自分の中の理解できる中での摂理・ルールに当て嵌めて全てを理解しようとし、「自分で」知ろうとすることがない傾向がある。
宗教(宗教も社会的な意味と本当のスピリチュアル=魂的な自分と神との繋がり、という意味の2通りあるが、この場合前者)が他の宗教を断罪したり差別したり排斥しようとしたり敵・間違いと見做そうとするのと同じように、この種のスピリチュアルも、相手が宗教であろうが科学であろうが他の派のスピリチュアルであろうが、何やら「敵・味方」に分けるというある意味根源的な人間らしい概念の上に成り立っている節を感じる。

科学者というのは、科学によって世界・宇宙すべてを「わかろうと」しているかのように見えて、実は、真逆の学問である。

科学は、確かに、「自分達の概念枠の内側」においては、生活を便利にしようと開発をするなど、発展させようとする。

しかし、科学というもの自体は、ある意味究極論かもしれないが「わからないということをわかる」ための学問である。

本当に追究を重ねる科学者は、科学ほど意味のないばかばかしい学問はないとまで言うという話も、複数から聞いたことがある。

そして、大枠の意味では全てを大自然に委ねる(良くも悪くも、という面はあるが)。

(ついでに…スピリチュアルだけではなく、現代日本では科学も「宗教化」しているところは多い。科学によって宇宙の全てを網羅できる、とがむしゃらに、真理真髄の追究やひとの生活のためよりも、これもやはり共通点としてはただ視野狭く具体的な二元的なものを見る)

本当の(本当の、というよりも純粋に「魂」という意味における)スピリチュアルというのは、=本当の科学なのである。
更にいえば、=本当の宗教(神との関係)とも言えるわけだ。


※追記しておくが、あくまでも私は世の中のスピリチュアルも宗教も科学も、一切否定するつもりも批判するようなつもりもない。
寧ろ、宗教と言えば私自身神論者でもあるし宗教を持つ家系で育ち、しかも複数の宗教と非常に親しく親近感もある。
スピリチュアルにしても、私は今現在のセラピストとしての科学に行き着くまでに、社会的(目に見える世界)的目や宗教的な目から見れば明らかあからさまに「スピリチュアル」と見える世界を通ることで今ここに至っている。
私は、どこの世界にも親近感があるし、どの世界にも現在進行形で身を以て深く関係がある。 どの世界にも身をおくことができる。
なぜなら、全ての道はローマへ通ずではないが、同じとてもとても広いところへ行き着いているから。

※更に追記。
ヒトの「概念」の外側を理解するということは、ではどうすれば良いのか。
まあまず不可能なことである。
地上を歩いている人間の足の裏よりも何百分の1と小さいアリに、地球規模、いや銀河系を理解しろ想像しろと言っても、無理な話である。
だから、「他者」からの情報で自分を保とうとするのも自分探しをしようとするのも頷ける。
しかし、これでは(特に現代日本は非常にこれに陥りやすい傾向の土台ができあがっているのだが)、他者軸の人生・他者から身につけた言葉(しかも言葉というとてつもなく狭義なツール)によっての理解から脱することはできない。
概念の外側に出るには、ただし唯一の手段がある。
自分の内側から物を聴くことである。
これを、江戸時代までの日本人は世界の誰よりもごく当たり前にやっていたという。
それも、現代社会情報社会のいつの間にか入れられた暗示で染まった他者から作り上げられた「自分の内側」ではなく、本当に真の内側を区別できるところまでいき、そこと繋がり(繋がる、という言葉自体スピリチュアルのように見られがちだが)、物を聴くこと。
そこは即ち潜在意識の本当に深い部分、そして実は他者とも繋がりながら全てをわかっている部分、宗教的角度から言えば神、スピリチュアル的角度から言えば真の自分自身、であるため、つまり直接そこから教えてもらうのである。
そして、現代の人々は、もはや自分の内側(潜在意識の浅い部分)まで、ありとあらゆる外側の情報・暗示に侵食されている。そして、必ずその「ルール」に従って「自分自身を認識」しているのである。
ただし、「外側」から情報を入れると、それはやはり「外側からの言葉というツールによる情報」となってしまう。それでは人々に真髄を伝えることは不可能じゃないか!ということになる。
しかし、この点さえわかれば、科学でも、スピリチュアルでも、宗教でも、実は(もしかしたら唯一かもしれないが)、他人から入れる、を超えて、個々本人たちに自分の内側と繋がる道筋を作る・歩むこと、そのやり方と方向性だけを差し向け見守りそこまで寄り添う、ということが、可能である。

そして実は私のセッションやセミナーは全て、これを見据えたものである。

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