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ジャズとシュタイナーと間章と


先日米粉パンを買いに新しい店に出掛けたら、その店の店主がマスクを剥ぎ取った笑顔で出迎えてくれた。その光景が余りに自然で一瞬気付かなかったほどであった。
何とも言えないくらいに癒された。マスクをしていないというだけでこれほどの安心感を感じるなんて、マスク無しの社会の時は当たり前過ぎて気付くはずもない。
その店はヴィーガン系のお店である。やはり自分はこういう人達と付き合うべきだと思った。
最近、結局自分は思想的にはどういう位置付けにいるのだろうと考える事がある。

芸術家の間で玄米菜食、つまりマクロビオティックを実践している人が多いことを知ったのはニューヨークに住み始めた頃だった。
仲良くしていたミュージシャンが私に久司道夫の本を見せて、自分はブラウンライスを食べているんだと嬉しそうに語っていた。日本人としてそんなの知らないと言えなくて思わず知っているフリをした自分が懐かしい。
そんな時に偶然マクロビオティックのお店での職を見つけて働くことになり、
縁とはそんな風にトントン拍子にやってくる。ところが日本に帰国してからはそういう縁を感じる事が殆どない。一度日本を捨ててしまったことへの試練なのだろうか、自分から能動的に関わらなければ縁を結べない。
ジャズもヴィーガンも向こうからはやってきてはくれないようだ。

神秘主義に傾倒しているジャズミュージシャンが少なからず存在することを知ったのは随分と後だった。
知り合いのミュージシャンがスーフィズム(イスラム神秘主義)の言葉を引用していたのを見てスーフィズムに興味を持った。
土取利行というジャズドラマー、パーカッショニストがインド人の音楽家によるスーフィズムの本を日本語に訳した翻訳本を出版していて、暫くの間私の愛読本になっていた。
彼自身はジャズソプラノサックス奏者のスティーヴ・レイシー氏からスーフィズムの本を紹介されたという。
その後、私はシーア派のイスラム教徒と知り合ってイスラムにも詳しくなり、イスラム学者の井筒俊彦の本を読むようになったきっかけにもなった。
ニューヨークでは様々な宗教を持った人達に出会う機会がある。
ニューヨークにいる日本人で、ある宗教に傾倒している人達に何度か声を掛けられた事があるが、誤解を恐れずに言えば、そういう人達に幸せそうな人を見かけた事がなかった。だから説得力に欠けている。
勿論、幸せな人も中にはいるのだろうけど、そういう人はごく限られた人のみだと思っている。
何かの宗教を信仰するということはつまり、その思想を至上最高のものとしなければならないので、そうなるとどうしてもそれ以外のものは下という位置付けになってしまう。同等とするのも理屈としては難しいだろう。
そういう事もあってか、自分は何かの特定の宗教を信じる事が出来なくなってしまった。

それから暫くして、シュタイナー(ルドルフ・シュタイナー)を知ることになった。彼の思想は宗教ではない。
ただ、シュタイナーの思想は最初は取っ付きにくくて理解するのに何年もかかった。今でもまだその道の途上にいる。
知れば知るほどに分かったような、分からないような、狐につままれたような感じに今でもなってしまうのだけど、これほど面白くて説得力のある思想は自分の知る限りなかった。その後日本に帰国してから念願叶って、シュタイナーの本の多くを翻訳した翻訳者と一緒にシュタイナーの思想を学び初めた頃、翻訳者の口から「間章」の名前を聞く。どうやら「間章」と親交があったようだ。
「間章」はシュタイナーの思想に関心を持っていたという。
「間章」とは、60〜70年代にかけてフリー・ジャズを中心とした音楽批評活動、イベントやレコードのプロデュース業をしていて、特に伝説のサックス奏者「阿部薫」をプロデュースした事で知られているだろう。
ジャズを学び始めた頃に「阿部薫」のアルバムも聴いたし、様々なジャズ評論家の名前は目にしたはずなのに「間章」のことは何故かどうしても思い出せない。
でもそれまで私の中でジャズとシュタイナーは点と点に過ぎなかったけれど、
「間章」のおかげでその点と点を繋げるきっかけにもなった。
思想を発展させるのに、私はどうしても音楽の力を必要としている。
前回「ジャズと漂泊」というタイトルで記事を書いた。
ジャズに特化するつもりはないけれど、音楽を起点とした思想と文化を発展させる場所を求めて「音楽と漂泊」とテーマに、不定期で記事を書いていこうと思う。
どういう形になるかはまだ白紙状態ではあるが、この「点と点」を結ぶこの先を今は知りたくて堪らない。
もしよければお付き合いくださると嬉しいです。





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