承認欲求とさまよう心
私の好きな事ってなんだ?
とよく考える。
誰に見せるわけでもなく、
聞かせるわけでもなく、
承認欲求というものをマルっと無視してでも私が行動を起こすものって何なんだろう。
書くことは嫌いではない。
ただ、誰にも読まれないのに書き続けるのかと聞かれれば「わからない」というのが答えだ。
好きなことをするために才能は必要だろうか?
でも、才能があるから書いているわけでもない。
好きな事をするのに才能はいらない。
そもそも、才能のあるなしが行動の基準ではないはずだ。
人はどういうとき「私には才能がある」と思うのか。
自分ではなく、人から言われた時なのか。
比較対象もなしに、才能のあるなしを自分自身で判断するなんて不可能ではないのか。
人と比較する時点で「才能」が嫌いになりそうだ。
本を読むことも嫌いではない。
本は著名人たち、専門家たちの考え方に触れるコストパフォーマンスが良いものだと考えている。
でもこれは「好き」とは違うのかもしれない。
何はなくても私が突き動かされるものとは一体?
つい最近、日本のレゴ認定プロビルダーの作品がボストン美術館に展示されるというTwitterを見た。
そういえば、子供の頃はよくレゴブロックで遊んでいたような気がする。
私は一度、説明書通りに作るとそのうち飽きてしまう。
だから、壊してまた違うものを創る。
そうやって破壊と創造を繰り返す。
私は、作っても、造っても、創り終わると興味を失くしてしまう。
だからもっと創りたいと思うのかもしれない。
少し前に、今やっていることが本当に好きなことなのかどうかを確かめる方法で、「無人島でひとりっきりになった時でもそれを続けますか?」という問いがあったような気がする。
誰にも評価されない。
そもそも、見せる相手もいない。
比べられることもない。
良し悪しなんて自己満足でしかない状況であっても続けるのか?
モノ作りは続けられるような気がする。
ナイフが一本あれば、木に模様を彫ったりするかもしれない。
モノを作っているときは無心になれる。
余計なことなど入り込む隙などない。
私は、そうやって何かを表現することが好きなのか?
文章で表現したり、モノを造って表現したりすることが好きなのか?
でも、身体を使って表現するのは好きではない。
私の好きなモノやコトと、それを表現するための道具が合わさったところに私の本当の「好き」があるのかもしれない。
歳をとると”好き”がぼやけてくる。
大人になるにつれて無難にこなすことを覚える。
あまりにそれが続くと人生がぼんやりしてくる。
そしてまた、「本当は何が好きなんだろう」という旅に出る。
答えはもう知っているはずなのに、、、。
それに、自分の好きな事を子ども時代にだけ求めるのもどうなんだろう?
大人になってから見つけたものだってあるはずだ。
ただ、そのベースとなるものは子ども時代にあるのかもしれない。
私の気持ちや考えをつらつらとただ書いているだけの文章は、ハッキリ言って読者のことを何一つ考えてはいない。
話のリズムや読みやすさ、共感や気づきといったものをすべて読者に丸投げしている。
でも、私のなかでこの書き方は少し楽しい。
無名で素人でもある私が多くの人に読んでもらおうとすると、ライティング技術というものは欠かせない。
誰が素人の書いた文章を読むのか。
誰も読まない。笑
”読者に伝わりやすく”というのは書き手にとって使命にも似たところがあるかもしれない。
ただ、私はこれを意識し過ぎると書けなくなる。
「こうやって書かなきゃいけない。」なんて考え始めたらもう終わりだ。
多分これは三流の思考。
好きなことをするだけならそれでも十分。
今この瞬間、書くことは楽しい。
自己満足でしかないけれど、「私なりの表現」というものがここにはある。
と思いたい。
失礼な言い方だが、これは読者に届く必要はない。
これを読んでどう思うかはその人の感性だ。
その感性に丸投げしてしまおう。笑
これはもうマスター〇ーションと同じだ。
私一人で気持ちよくなっている。
でも、”好きなこと”って人の顔色を伺う必要はないはずだ。
じゃあ、好きなことってオ〇ニーなのか!
いや、これ以上はやめておこう。
いろんな方面で怒られそうな気がする。
でも、だからといって人が不快になるものを提供したいわけではない。
意見の相違はあるだろうけど。
好きなことって、人の評価は気にしないようにしながらも相手が不快にならないように配慮しなければならない。
ちょっとハードルが高すぎやしませんかね。
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