『ソフィストとは誰か?』(納富 信留)を読む−第1部第1章「ソフィスト」ソクラテス
アリストテレスの『二コマコス倫理学』と納富 信留氏の『ソフィストとは誰か?』を交互に読み進めている。今回は、後者の第1部第1章を読む。ソクラテスは哲学者と思っていたら、実はプラトンが我田引水的に作り上げたものだったという衝撃。
概要
■ソクラテスとソフィストとの関係
ソフィストを考えるには、正反対に位置づけられ続けてきた「哲学者」ソクラテスが鍵となる。伝統的なギリシア哲学史観はソクラテスの登場によって「自然学から倫理学へ」と前後に単純に区分されているが、それによってソフィストの哲学史上の位置付が微妙になっている。
ソクラテスはアテナイ民衆によって70歳の時に不敬罪により「ソフィスト」として死刑になった。その告訴状内容は次の通り。
ソクラテス裁判は未だに謎ではあるが、彼の「知を愛する(フィロソフェイン)」営みは、教育・政治・道徳・言論・知識・神といった事柄にわたったことから、伝統的価値観を生きる保守的なアテナイの人々にとっては日常の生を挑発するものであり、ソフィストの活動と同一視された。
若者と徳について対話し、徳への配慮を促し、彼らを魅了していた。それらの若者から後に半民主政的・反社会的な政治家が育ったことも悪印象だった。徳の配慮により魂が善くなるようにすることを促していたが、それはソフィストが標榜する政治的市民を育成する徳の教育そのものだった。さらに言論を巧みに操り相手を言いくるめる「弱論強弁」がソフィストの能力だが、ソクラテスが舌鋒鋭く論駁する様子はまさにそれだった。
ソクラテスは「正、美、善」を知らないと明言しており、知らないゆえに知を愛し求める「哲学者」足りえる点は、知識を持つ者と名乗り知によって金銭を得るソフィストとは異なるはずだった。しかし、見事に論駁するのに「不知」なわけがないと人々は考え、知らないフリをしているソクラテスのほうがより手強いソフィストと思われた。
このような生粋のアテナイ市民であるソクラテスという謎の怪物への恐れと反発が「不敬神」告発に結びついた。当時はこのようにソクラテスはソフィストと同一視されていた。
■プラトンによる「哲学者」ソクラテスの誕生
弟子の多くがソクラテスの対話集を執筆した。彼らは他の弟子と比べながら自分の立場を鮮明にしていった。その中でプラトンは「哲学者ソクラテス」像をソフィストとの明確な対比で示し、ソフィストを痛烈に批判するという独自の戦略を採った。当時から哲学者対ソフィストの対立軸は存在しており、プラトンが生きる時代状況の問題により、ソクラテスは哲学者として対比されていった。
■真の「哲学者」ソクラテスが「ソフィスト」として死刑
ソクラテスを告発した中心人物のアニュトスは、寡頭政権への反撃を指揮し軍事的勝利を収めた民主派の大立者であり、ソクラテスはソフィストおよび思想家一般への反発を一身に受けることになってしまった。「ソフィスト」の悪名を背負って死刑に処せられた唯一の人物が「哲学者」ソクラテスであり、このことがソフィスト問題の根源的次元を示す。
私見・わかったこと
アテナイでは「ソフィスト」の大枠の中で認識されていたソクラテスを「哲学者」として議論の展開の中でプラトンが作り上げていったということだった。この後の論で、プラトンがどのように哲学者ソクラテスを擁立していったかの言論の流れを知るのがとても楽しみだ。
この姿は学説を細かに分類分析して、細かに言論を組み立てて違いを明確にしていったり、新しい「◯◯論」が生み出されていく様子と似ている気もした。時代の社会背景に応じて、その言説を他者との議論・批評を通じて組み立てて新たな理論を生み出していくこと自体は尊いものである。
一方で、ソクラテスが言論や論駁することに集中して、結果として政治的理由で社会から抹殺される存在になっていったのは、色んな示唆がある。本当に社会を変えたければ、理論の正しさを主張するのみならず「蛇のような賢さ」を持って実践すべしという言葉を、恩師の一人である浜矩子先生にいただいたが、まさにそれを感じた。
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