見出し画像

ドバイとフランス⭐︎娘の学校⭐︎こどものやる気と無限の可能性

私は、自由奔放に生きてきました。一度きりの人生、誰のせいにもせず思い切り生き抜こうと常々思っています。娘にもそう生きてほしいと願っています。

そんな私の娘の19年間は、エキサイティングだったと思います。今年6月にフランスの高校を卒業し、9月からロンドン大学に進学が決まりました。


今回は、その娘について書いてみたいと思います。

娘が生まれてすぐに主人と離婚したので、娘は生まれてからずっと家に男性がいるという経験がありません。父親代わりに何でも手伝うと張り切っていた私の父は、娘が1歳のとき癌であっという間に他界しました。

主人には、指一本たりとも娘に触れて欲しくないと私が意地を張って一切の援助を断ったため慎ましく育ててきました。保育園では、私がお迎えに行くと私の姿を見つけ、娘は駆けつけてきました。その様子を見た園長先生は、最近の子には珍しく微笑ましいと言ってくださいました。

娘は、3歳で補助なし自転車、4歳で一輪車を乗りこなす抜群の平衡感覚を持っていました。ひとりで随分練習したのでしょう。テレビも見せずゲームもさせなかったので、そのぶん時間がたくさんありました。

画像5


娘が、保育園年長の8月初めの夏祭りに行ったときのことです。同じ国際結婚ママに会い、近くの公立小学校でいじめがあることを知りました。私立へ行かせたほうがいいと言うのです。すぐに友人に進学塾を紹介していただき問い合わせました。


めだか教室

懐かしい「めだか教室」


娘は、無念にも憧れの幼稚園バスに乗れなかったので、学校に電車で行けたらどうかと提案したら大喜びした。そして受験を決めました。

入試まで2ヶ月、一か八で9月から始まるお教室に入り11月に私立小学校を受験しました。娘は、保育園っこですから○も✖️書いたことがありません。先生から教わる全てが刺激的で、娘は毎日のお教室が楽しくて仕方ありませんでした。ダメ元と言う気持ち、受験を楽しめたらいい、いい経験だぐらいに気張らず望んでいたと思います。

2歳3歳から受験準備を重ねてきたお友達は、入試を目前に学ぶことに飽きてモチベーションが下がっているように見受けましたが、その逆に娘は、課題ができてもできなくても楽しくて目がキラキラしていて、絶好調にぐんぐん伸びたところで本番を迎え成果を全て発揮できました。


朝は何を食べてきましたか? お母さんが作った大根の葉っぱのふりかけとご飯と味噌汁です。

ハンカチを持っていますか?刺繍がしてありますね。 お母さんが刺繍をしてくださいました。

毎日、何か続けていることがありますか? 毎朝お母さんとラジオ体操をしています。

などなど、娘の面接は、お教室で練習した質問ばかりでラッキーでした。運を掴むのも才能のうちです。ひとり親で経済的なことも尋ねられましたが、娘と共同作業で掴んだ幸せでした。学校の窓口で分厚い封筒を手にしたときは涙が溢れ出しました。やったー!

サイラ写真

受験票


学校選びのポイントは、娘との相性と通学時間が1時間以内でした。まず、自宅から吉祥寺へ出掛ける途中で幾度となく見てきたキラキラ笑顔の生徒たちのいる学校の説明会に行きました。そのとき校長先生が「うちの子たちはかわいいんです!」と仰いました。この一言が私の心を強く打ち、ここしかない、絶対にここでお世話になると決めました。娘が入学したとき、私をイチコロにした校長先生は中等部専任となり小学部を去られました。代わりに校長になられたのは近所の米屋のおじさんみたいな風格の先生でした。なんか違う、なんか違うと詐欺にあったような気分でした。


私はこの校歌が大好きです。自分で決める子に育てたかったです。

たくましく 生きる子であれ 朝のぼる 太陽のよう すこやかに おおらかであれ 世紀の子 歴史をつくる 子どもたち ふみしめて行け まっすぐに〜   考えて 自分で決める 子になろう 正しく学び よく鍛え 確かな道を みつけよう 野にある花の 優しさを 草や小川に 問いながら〜


私は、娘にお祝いに何でも欲しいものを言ってごらんと尋ねました。娘の口からこぼれたのは「パパに会いたい」でした。その気持ちを長年私に言えずに我慢していたのかもしれません。このときから、娘はパパと毎月食事に出掛けられることになりました。主人は、私の父が末期癌で入院していたとき、父には恩があると仕事の合間にほぼ毎日父を見舞ってくれました。私たちは、たまに病院で出会すことがありましたが、そのとき娘がまだ1歳でそれ以来の再会でした。


娘は、入学式の翌日からひとりで行けると言い電車とバスで一丁前に出かけて行きました。誤って急行電車に乗り都心まで行き引き返したこともあったようです。朝の混雑している時間に慌てず判断できた娘に生きる力を感じました。「ひとりで行けるんだ、偉いね!」と近所の方に声をかけられると、嬉しくてまた張り切る、たくさんの方からの声掛けのお陰で良い子育てができたと感謝しきれません。


一年生の一学期、友達とふたり旅がしたいと言い出したことがありました。”旅”?休日に学校の近くの大きな公園に行くのはどうだろうと、その時は提案しました。その数日後に、クラスメイトのお母さまから娘たちが学校からバスに乗らずに歩いて駅に向かっていると連絡をいただきました。私の迂闊な提案をヒントに、冒険行動に発展して先生方にまで心配をかけた苦い思い出です。バスで数分の道のりですが、7歳の彼女たちには予想のほか遠かったようです。でも、女子のお喋りは止まりませんから、それはそれは楽しい時間でふたりの関係が深まったと私はちょっと嬉しく思った記憶があります。そのお友達とは、今も仲良くしています。


娘が3年生でクラス役員をしていたときのことです。日本赤十字の東北大震災の募金を役員が校門で募りました。みんなに募金を呼びかけるのに、私が募金しないのはおかしいから募金をしたいと私に言いました。支援金の使い道が納得いくものかどうか、日本赤十字は政治家の天下り先で信頼できないので私は募金しないと話しました。

役員会で娘がそれを話すと、会長の6年生がそれに興味を持ち私が会長に考えを話したことがありました。その翌日、生徒会担当の先生から余計な話をするなという真っ赤なボールペンで書かれた長い手紙を受け取りました。学校は、私立公立に限らず政府の指示通りに日本赤十字の募金を集めないといけないのです。赤い羽根や緑の羽も同じです。これで、娘は吟味して募金する理由を悟りました。何事も言われるままに流されてはいけないのです。留まって、考えましょう。一円の価値、簡単に手に入れることはできないのです。


学校は、東京の武蔵野市という立地のせいかお利口さんが多い学校です。天然、野生児の娘は、まわりをきょろきょろしながら染まったほうがいいものには染まり弾くべきものを弾き学校生活を送っていたと思います。娘の肌は麦色で、黒い黒いと大きな声で言われいじめられたことが何度もありましたが、誰も助けてくれませんでした。黄色人種ではありませんから、それを受け入れなくてはいけません。学校の先生は、なんの対処もしてくださらなかったので、娘は強く自分で乗り換えたと思います。


受験の目的だったいじめ回避はできたのか? 私立にいじめがなかったと言えば嘘になります。日本では、勇気を持って「違う」と言える人が少ないからです。異質なものを彈くのは日本独特な気がします。小学校受験は、正解だったかどうかわかりませんが、何事も経験、悪い選択ではなかったと思います。


私たち親子は、東北大震災の年のクリスマスからお正月をドバイに旅行しました。私は1995年に初めてドバイ を旅行しましたが、その頃とは天と地ぐらい大きな発展を遂げていてピッカピカのドバイ、ここに住みたいと憧れを抱いたと思います。


放射線計測機を持ち、誰もがピリピリして神経質になっていた日本とグングン上向きのドバイ、ここに日本施術者がひとりもいないなら私が一番乗りしようとこのとき志しました。娘には、英語が話せるようになったらカッコよくない?と聞きました。もちろん、娘の答えは「YES!」でした。


2012年娘が四年生の夏、日本の生活を整理して、私たちはドバイに来ました。初めからインターナショナルスクールに行く気満々の娘でしたが、現地の状況や英会話の問題でスタートは日本人学校からでした。

画像8

日本人学校の砂漠キャンプ


日系企業の駐在のお子さんばかりの中で、娘は浮いていました。多くの日本人は、下町エリアの同じアパートにまとまって住んでいて学校から帰宅すれば毎日一緒に遊べます。私たち親子は、学校を挟んで反対側の欧米人が多く住むエリアに住んでいたので、教室でも話が合わず仲間外れになってしまいがちでした。日本での生活と違い大きな部屋に住み、ホテルのレストランでの食事、地に足のついていない環境で育っているお子さんは、家の大きさを自慢しあったりします。メーカーの駐在家庭は、日本へ戻れば田舎の工場地帯付近の建売り暮らしではないですか。


私たち親子はムスリムで、日本では外食を殆どしませんでした。お菓子も私の手作りが多かったように思います。日本では、お煎餅の柿の種にも豚エキスが含まれています。コンビニの既製品やレトルトも食べません。ドバイでは何でも食べられると喜んでいた娘ですが、家庭料理で育ったため外食は味が濃くて食べられません。お友達から週末にどこで食事したかを聞かれ、娘はいつも家と答えるので貧乏くさいと思われていたでしょう。ファストフードを食べたことさえ自慢げに話すお子さんもいました。娘は、誰に何を言われても私の手料理が大好きだと話し、お友達を食事に誘います。そんな娘を誇りに思います。


ドバイに来たころは、まだまだオンライン化が進んでいなくて様々な手続きに時間がかかりました。学校から帰宅した娘を玄関ドアの前で待たせることもしばしばで、お腹を空かせて床に座って宿題をする娘を見つけシマッタと何度も思いました。近所に住む日本人の方にも随分と助けていただきました。娘にこんなにも寂しい思いをさせて性格が歪んでしまわないか、このまま続けて娘を希望通りインターナショナルスクールに入れられのか、中途半端なことをしてるのではないかといつも自分に問いかけていました。でも、娘は英語を自由に操る自分を夢見てついてきてくれました。


娘は、四年生2学期から六年生1学期までの日本人学校生活も我慢の限界が来ていました。ドバイの中のインターナショナルスクールをいくつか受験しましたが、海外では英会話はできて当たり前で12歳で英語が話せなければ入学はかなり困難です。娘の希望は、日本人が一人もいない学校でしたから日本人が英語が苦手ということを知らない学校ばかりです。どの学校からも合格通知をもらえず困りに困っていたところ、友人の勧めで隣の首長国のブリティッシュスクールを面接し、一年後に勉強についていけるようになるならという条件付きで受け入れていただきました。9月始まりの学校は、日本の小学六年生が終了していないため1学年下げられます。あげくに英語ができないため合計2学年下げてのスタートでした。

画像10


今まで、友達と喧嘩しようが何が起きようと学校に行きたくないと言ったことが一度もありません。学校で一言も発声しなくても休まず学校に行きました。隣の首長国から、私は朝5時に家を出かけドバイで仕事をしていたので、帰りも夜10時を過ぎてしまうこともありました。娘は、朝ひとりで起き、食事をして学校のバスで登下校して夕食もひとりでとることも多かったですが、英語習得に邁進していたのでしょう。


学校帰りの英語塾から帰宅するときは、信頼のおけるパキスタン人のタクシードライバーが迎えに行ってくれました。彼は、車中で娘に今日は何したの?どんなことがあった?たくさん話しかけてくれたそうです。まだ英語がよく話せないときに、その会話が自信につながったと、つい先日娘が話していました。

単語


私は何度か学校に呼び出されて、担任の先生から質問に対してYESかNOだけでも反応して欲しいと言われました。娘は当時を振り返り、英語が全くわからずその判断すらできなかったと言っています。イギリス人の校長先生は、大らかできっと一年経てば大丈夫といつも言ってくださいました。その通りに一年後には、ネイティブの発音でペラペラとお喋りな娘に変身していました。この1年間でこなした問題集は数十冊、甥っ子が大学受験で使った単語カードは食べてしまったかのように頭に入れてなくなりました。こどもには、無限の可能性があります。私が仕事を持ち、近くで勉強しろと言わなかったのが一番娘のためになったと確信しています。


灼熱のドバイ では、子どもがどこへ行くのにも車で送り迎えするのが当たり前です。14歳以下のひとり行動は違法ですが、私が仕事しているため娘は電車やバスでどこへでも行けるようになりました。安全と言われるドバイですが、私はタクシー運転手に襲われた経験があります。私は窓を開け助けを求め車を止めました。娘がひとりで乗れるのは信頼するドライバーが運転するタクシーだけです。


外出も決して安全とは言えません。転校して隣の首長国シャルジャに住んだ一年は、危険すぎて娘はひとりで外に出たことがありませんでした。とても不自由な生活を強いてしまいました。その後、娘のクラスメイトが住んでいるドバイ空港近くのアパートに引越しました。学校から帰宅したら友達と宿題をし、隣の大きな芝生の公園でたくさんのUAE人の友達とバスケットボールやバレーボールする毎日で、娘の英語力はどんどん上がっていきました。やはり友達と話すことは上達の近道です。娘の大の仲良しは、アメリカ人とジブチのハーフでアメリカのイントネーションです。おかげで娘の発音はアメリカとイギリスのミックスです。


娘、ブリティッシュスクール4年目16歳のとき、私がタンザニアに仕事の拠点を移す機会がありました。アフリカには娘が安心して行ける学校がないため、娘は私と離れてボーディングスクールに行かなくてはなりません。娘に相談したところ、独立心旺盛の娘は「ひとり」に反応して大賛成です。ネットでオーストラリア、ニュージーランド、イギリスと探し、憧れは夏と冬で校舎を引越すスイスのル・ロゼ やボー・ソレイユでした。冬は午前中勉強して午後からスキーという生活は、破天荒な娘には魅力的でしたが年間1400万円以上はどうやっても捻り出せず、縁があってフランスのボーディングに転校することにしました。超エリート学校で、貴族、大統領や政治家、エルメスやプジョーファミリーなど雲の上の人たちが卒業生にずらっと並びます。

画像11

ハウスキャプテンは、留学でポイント高い


画像3

ノルマンディーの学校 寮が点在しています。


4月フランスで面接してその場で入学が決まり、新学期が始まる9月までは大忙しでした。6月まで今まで通っている学校で無料でフランス語の強化授業を、同じアパートのイラン人からフランス語会話クラスをしていただきました。日本人がドバイのフランス大使館で未成年者留学ビザ申請、これは前代未聞です。後にも先にもないでしょう。だからこそスルーできた書類もあり、時間はかかりましたが結構ラッキーにビザを取得できました。8月には日本で支度を整え、9月始めドバイ経由でパリに娘ひとりで向かいました。


おフランスのボーディングは、ガウンの用意が必要だったり文化の違いを感じました。9月から1年間はフランス語教科クラスに在籍しフランス語検定B1レベルをとり、翌年はターミナルといって普通クラスに入るのが一般的です。娘は苦労して英語を勉強した経験を活かし、入学して3ヶ月でB1レベルに引き上げ12月にはターミナルに移るという偉業を成し遂げました。翌月1月には飛び級もして、19歳の今年に学校を無事に卒業しました。どこからそのパワーが生まれるのでしょう。

画像4

憧れのスキー場La Plagneスキー合宿(ヨーロッパは2月にスキー休暇あり)


ブリティッシュスクールもフランスの学校も、学校からのメールは娘が翻訳し返事も娘が書きました。私は、それを私のアドレスから送信するだけです。フランスの学校では、フレンチバカロレアでなく国際バカロレアを選択し大学はイギリスを目指していました。本人曰く、イギリス人の先生の教え方が理解しやすいそうです。乗馬やフェンシングなど新しいことにもチャレンジしました。学校の先生の入れ替わりが激しく文句を言ってる間にコロナ騒動が始まり、去年3月14日に学校閉鎖、9月に学校が再開するまでのオンライン授業に苦戦して目標のポイントがとれなかったり、学校の最終テストも大変だったらしく最後の最後まで苦しんだようですが、頑張った甲斐があり7月に希望の大学の合格通知をいただきました。私は見守るだけで、何もしてあげられませんでした。よくひとりでやり抜いたと褒めることしかできません。


昨年、今年と、コロナ禍で思うようにならなかった方も少なくないでしょう。娘の友達も、IBを途中でキャンセルしたり最後に落としてしまった子が少なくありません。

画像7


2020年3月12日、娘から学校が週末に閉まるからチケットを買ってくだっさいと電話がありました。4月末のイースター休暇が終わる頃には学校に戻れると思い、14日のドバイとパリの往復を買いましたが、エミレーツが飛ばなくなる胸騒ぎがして翌週21日に東京の家に帰しました。案の定、ドバイ のフライトがキャンセルされました。私は、会社とアパートの更新手続きがありドバイ を安易に離れるわけにいきません。娘ひとりで家事にオンライン授業に頑張りました。家計も予算を立てて予算内に収める努力、自炊に疲れてレストランのバイトで賄いにありつくなど工夫したようです。これは生きる力です。人に言われてやるよりも、必要に迫られて始めると面白さを発見したり、いままで気付かなかったことに目を向けることができます。いいチャンスだったと思います。

ロイヤル


9月からは、ロンドンでの生活がスタートします。友達と刺激しあい、切磋琢磨してどんどん成長していくことを願っています。日本にはたまに変えるぐらいが丁度いいでしょう。

フランスの名門校で起きる事件については改めて書きたいと思います。

長文にお付き合いいただき、ありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?