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田植えをする。からだを通してつながる世界 ー身体知、風景、祈り。

人間は大地において、自然と人間との交錯を経験する。人間はその力を大地に加えて、農作物の収穫に僶(つと)める。大地は人間の力に応じてこれを助ける。人間の力に誠がなければ大地は協力せぬ。

鈴木大拙(2010), 『日本的霊性 完全版』, 角川ソフィア文庫, p61

田植えの季節

5月は田植えのシーズン。全国各地の田に水が張られ、農家が手塩にかけて育てた苗が出番を迎える。見渡す限りの田んぼが水で満ちると、一気に風景が変わり、また次の季節に移っていくことを直観する。

5月末の岩手県遠野クイーンズメドウ。いつもは主にプログラムを運営するタイミングでの滞在だったけれど、今回は田植えのお手伝いを中心に、ここで皆さんが日々行っている仕事を一緒に行った。

”ホスト(≒ゲスト)”としての関わりから、何気ない日常の延長線上を共にする”フラットないちプレイヤー”としての関わりへと、主語を変えて関わることで、これまでの滞在とは違った気づきを得ることができた。からだは全身バキバキで疲れていたが、意識はとてもクリアな不思議な感覚。

刻一刻と変わる状況の中、人間がコントロールしない(馬や自然などを第一に置いた)時間から生まれるものは、想像を超えた出会いに満ちている。

めぐり巡ってつながっている ー「森林美学」と全体性

初夏の遠野

今回の滞在中、別の用事で訪れていた北海道大学の小池先生上田先生とお会いし、はじめて「森林美学」という言葉に出会った。

森林美学は、功利(木材生産など)を追求しつつ「技術合理の森林は最高に美しい」、「美しい森林はもっとも利用価値が高い森林」とした。ここで「技術合理」とは、自然との「調和」を前提とし、「利用価値」とは、いわゆる環境の保全も含む多様な森林の役割を意味するという。

出典:「森林美学の源流を訪ねて」,http://lab.agr.hokudai.ac.jp/fres/silv/index.php?plugin=attach&refer=%BB%E4%A4%CE%B0%EC%B8%C0&openfile=%BF%B9%CE%D3%C8%FE%B3%D8%A4%CE%B8%BB%CE%AE.pdf (2024/06/01アクセス)

美しい森をつくることと経済的な価値は調和するということ。善、美と用は同時に達成され得るのだということ。

小池先生が森について今起こっていることを話してくれた。曰く、ここ30年間でCO2濃度が100ppm増加して現在420ppm程度になり、このままの状態が続くと地球環境に大きな影響が出てくる(既に出ている)。

林床・下層部が育たなくなる(次世代が育たなくなる)

CO2が増えると木が勢いよく育つようになる。結果、枝葉が大きくなることで上層部が覆われ、林床部分に光が届かなくなり、次世代の木(下層部にある若い木)が育たなくなる。

また、植物と共生している菌類にも影響が出る。菌糸は植物の根が届かないところの養分、特にリンや水、窒素を供給してくれるようになっているが、光が届かないと地下のバランスが崩れ、次世代の木の生育にマイナスの影響が出る。

メタンガスが発生する

20~30年後にCO2濃度は520ppmになることが予測されており、520~550ppmを超えるとメタンガスが発生するらしい。林床に光が届かなることで水分の蒸発量が減ることや、高CO2状態になると気孔を開かなくてよくなる(蒸発=水の利用が減る)ことで、地表が湿地のような状態になりメタンガスが発生しやすくなるというメカニズム。

メタンガスはCO2の25倍の温室効果があるため、メタン濃度が上昇することのインパクトは大きいということだった。

CO2が増えることが温暖化につながる、となんとなく直線的に認識していたが、めぐり巡って身の回りの生態系のあらゆるところに影響が出ることを知った。

CO2の増加は、元をたどれば人間自らが経済的豊かさを求めて推し進めてきた社会や諸活動による影響が大きいと言われている。自分の日々の暮らしや行動がその一端に加担している事実を思い、心がじんわりざわついた。

光に満ちた森

短期的な目線で人の手が入った山や森は、ごっそり伐採されているか、間伐のゆき届かなくなった薄暗くてじめじめした針葉樹の森になり、美しさより空虚や近寄りがたさを感じる。

一方、原生林を中心とした広葉樹の森や人の手が程よく入っている手の行き届いた森は、心地よい木漏れ日が差し込み、さまざまな植生、生き物が同居する豊かな空気や美しさを感じる。

本当に必要な分だけ取って、それ以上に取らない。それがお互いの持続可能性につながり、また結果として美しい森を作りだす。情緒的に美しい森をつくることと、科学に基づき持続可能な森を目指すことはつながっているのだと感じた。

森林美学というのはそういうものかもしれないと、クイーンズメドウの森を見て思った。

鎌と草刈り機、のこぎりとチェーンソー ー身体と道具、機械

田植えの前段階として、田の周りに杭を打ち込んで、野生動物に苗を食べられないように柵を作る。そのために、杭を打ち込む地表の草を刈りこむところから始める。

田の周りを杭打ちする

草刈り機のエンジンをつけようとすると、なぜか動かない。数台ある草刈り機でそれぞれ試したが、うんともすんともまったく動く気配がない。仕方がないので、全員鎌を持って人力で草刈りをすることになった。

それぞれの持ち場を決めて、鎌一本で草を刈っていく。鎌を使うのはほぼ小中学生以来の感覚で懐かしかった。よく晴れた日の太陽の温かさが心地よい。

ざっざっざっ、と無心で草を刈っていく。鎌を草むらに入れこみ、手前にざあっと引いて草を刈り続ける動作をしているうちに、自分が草刈り機のように思えてきた。

考えてみると、機械になったものにはその原型(イメージ)がある。草刈り機の構造の原型は、鎌ではないか。人の手による草の刈り方を応用して、それを動力化した結果が草刈り機になる。機械とは、身体の拡張した結果である。草を刈るという行為や感覚を通して、とたんに道具や機械が身近になる。

草刈りが終わると次は杭打ちに移る。打ち込んでいく杭は、周辺の森で間伐した木々を均等な長さに切り、先を尖らせて、先端を打ち込んだときに腐らないよう火で炭化してしつらえる。ここでの作業の基本は、みんなで知恵を出しあい、周辺にあるものをすべて活用することだ。

間伐材で杭をつくる

地面に打ち込めるよう先を尖らせる過程で、チェーンソーの台数が限られていたので、鉈(なた)で鉛筆削りのように木を削っていく。当たり前だけど劇的に効率が悪く、腕の疲労が半端ない。一方、隣でチェーンソーを使って杭を作っている人たちはものの1~2分で杭を仕上げていく。

チェーンソーで木を切っていく姿を見て、チェーンソーの原型はのこぎりで、決して鉈はそうではないと思った。冷静に考えると当たり前のことだけど、熱中して作業していると楽しくなってやり続けてしまう性(さが)。

のこぎりを借りて作業を再開すると、効率がぐんと上がった。一から鉈で削るのではなく、のこぎりで切って最後に鉈で整えることで、先端の美しさも増した。

道具や機械は、身体の拡張した結果生まれるものである。からだファースト。

人が生み出すテクノロジーは、身体性を帯びることで身近な存在になる。

(閑話休題)
みんなで杭を準備している様が、とても原始的でほのぼのとして好きだ。

田植えと祈り、労働 ー身体と風景

つくった杭を田んぼの周辺に打ち込み、水抜きをすると、いよいよ本番。直前、均等に田植えをするための線を地表に引く。

田に線を引いていく

全体に線が引けたら、いよいよ田植えを開始。
引いた線に沿って等間隔で苗を植えていく。よく晴れた天気の中で腰をかがめて一つのことに集中する作業は気持ちよく、一心不乱に苗を植えていく。

日が照っているとことろ、影ができているところで水温がこんなにも違うのかと、足元で感じた水温でふと我に返る。そのとき、からだを使って実践することの大切さを感じた。

広く言えば身体知。からだを通して学ぶということ。おそらく、これから田に射す日の具合を見て、水温の高低が直観的に分かるようになるだろう。それは、先人は当たり前に持っていた感覚・知恵で、培ってきた身体知を基に日々の生活を営んでいたのだろうと思いを馳せる。

「身体知」、身体に根ざした知です。頭でっかちな知識とは違い、こつや勘は、その人の生活体験のなかで培われ、身体や生活の実体に根ざしたものです。身体知の学びとは、実に創造的なことですが、そのためには身体の存在が重要なんです。

出典:「創造的な知の源泉はリアルな身体性にある」,https://www.works-i.com/works/series/academia/detail002.html (2024/06/01アクセス)

田植えは祈りだと感じた。無心にえっさえっさと作業しながらも、「元気に育ってくれよ」と心に思いながら作業する自分に気づいたとき、「ああ、こういうことか」と思った。

手植えすることは、現代からするととても非効率なのだけど、手で植えることによって生まれるものがある。それは祈ること。そして、身体に根ざしたその祈りは、感謝。

自然に敬意と畏怖、感謝の念を抱き、いのちをいただくという循環の在り方を体感した。

田んぼという風景は、当たり前すぎて、農家の人たちは田んぼを前にしながら、「おらの村には何もない」と言ったりする。そして、田んぼが埋め立てられてコンビニでもできれば、「何もなかったところに店ができた」と言ったりする…(中略)…しかし、よくよく考えてみれば、田んぼというのはすごい場所である。そして、それを作るのには多大な労力を必要とする。

稲垣栄洋(2024), 『雑草と日本人』, 草思社文庫, p144
田植え完了

身体化した田植えは風景になる。

田植えをしているその瞬間の様(さま)はもちろんのこと、からだを使って労働をした結果としてできた場は、関わる人の想いをともなう場となる。それはたんなる景色ではなく風景となる。風景がつくられるということはそういうことかもしれない。

労働 labor とは、人間の肉体の生物学的過程に対応する活動力である。人間の肉体が自然に成長し、新陳代謝を行ない、そして最後には朽ちてしまうこの過程は、労働によって生命過程の中で生みだされ消費される生活の必要物に拘束されている。そこで、労働の人間的条件は生命それ自体である。

ハンナ・アレント(1994), 『人間の条件』, ちくま文芸文庫, p19

自らの手を使って、自然の中ではたらくことは、しんどいけれど楽しい。その過程で自然との調和や共生の在り方に気づく。

「いのち」としての営みは、関わる人の想いを生じさせ、その想いの一つひとつ、総和が残したいと思える風景を生み出す。

さいごに ー馬と暮らしのランドスケープ

陽気なあまのじゃくからの話が心にささる。

「ある人に何をしているのか?と問われたときに、”馬の解放”と答えたんだ。そうすると、その人は「なるほど!それに照らすと自分は”植物の解放”をしているんだと思いました。」と言われたんだよ。」

陽気なあまのじゃくさんの話

自分のやっていることを強いて、「”○○の解放をしている”と表現するとしたら何なのか?」そんな問いが頭を逡巡する。そのとき、答えはすぐに出ず、現在の自分のことを思い揺らぐ。

いつだって理想と現実の狭間で、人は生きている。

もやもやと逡巡する問いを抱えながら、森の中で馬と出会う。壮大な自然やなつっこい馬たちは「まあいいじゃないか。」とばかりに自分のざわつきを受けとめてくれる。

馬たちのいるこの場は、その瞬間に、自分の中で身体化、風景化していく。今は少なくなりつつある遠野の風景。今もまだ残っている暮らし、大地に根ざした風景を、残したいと思う。

「人間は微力ではあるが、無力ではない。」

今回の滞在中に、出てきたこの言葉がこころの中をこだまする。

たくさんの人に、この場で感じるたくさんのことを体験してほしいと思う。老若男女問わず、その人が今求めているものに訴えかけ、本来の在りたい姿を鏡のように映し出してくれる体験に満ちた場をたくさん届けていきたい。

歴史は書かれている書物のなかだけにあるのではなく…(中略)…私たちのくらしのなかにもひそんでいます。そして、そういうものがあきらかになってこそ、日本人はほんとにどんな生き方をしてきたかが、あきらかになると思います。

宮本常一(1986), 『ふるさとの生活』, 講談社学術文庫, p32

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