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鳥にも色々な”鳥格”があるのか?ー「私とは何か『個人』から『分人』へ」を読み終えてー

「見人説人話,見鬼説鬼話」(情勢に応じて言動を切り替えること)のできる人が利口であるという価値観の下で育てられた。その価値観に従わない、口下手な私が子供のころから父親に「バカ」と呼ばれてきた。周りの大人のように媚びたり、きれい事ばっかり言ったりするのを真似ればできないわけでもないが、そんなことに心より嫌悪を感じているから父親が望むような人に育たなかった。

小学校も、中学校も、高校も、さらに日本語学校の時も、友達たちが私の前にいる時と、私の嫌いな人の前にいる時とは違ったふるまいをしているのを見かけると、その友達とすぐに距離を置くようにしていた。短くても半年ほど口を利かないようにすることがよくあった。その時「なんで私の前にいる時と違うの?私の友達ならあの人と付き合わないで」と思っていたが、それを直接友達に言えなかったため、友達たちは事情がさっぱりつかめなかった。幸いなことに、仲直りしてくれる友達が多かったが、相手によって振る舞いが違う人のことが嫌いのが変わらなかった。

なんでそういう人が嫌いのかは平野さんの本を読むまでには考えたことがなかった。

平野啓一郎さんの本は2年の間異なる二人の方に勧められた。最初は40代の日本語の先生が人付き合いに疑問を感じた私に勧めてくださった。当時「始終同じ人」でありたい私は、それを読みたいと思わなかった。そして一年経った最近、20代の大学生が同じ本を勧めてくれた。勧められたとき、「始終同じ人」という考えが変わっていないが、20代から40代まで影響を受けている本はいったいどういう内容かなと興味をもつようになった。そこで、手に取って読み始めた。

「誰に対しても、首尾一貫した自分でいようとすると、ひたすら愛想の良い、没個性的な、当たり障りのない自分でいるしかない。まさしく八方美人だ。」(p.86)

と本の中に書いてあるが、自分の場合はそれと全く違うと思う。首尾一貫した自分でいようとしている私が、「八方ブス」に近いかもしれない。なぜなら、私は、どんな人間関係においても”素朴”で、”真面目”で、”正直”でいたいから。

素朴とは、贅沢な物質生活を送らない、華麗な身なりや言葉遣いを使わない。

真面目とは、やるべきことを怠らない、果たす役割を人に任さない。

正直とは、事実を事実としてごまかさない。

そんな人でいると、ひけらかしてくる人には、期待された返事を返さない(返せない?)。怠け者やいい加減な人にとっては、目の敵になってしまう。一方、自分から見ると、相手も自分と同じ程度で素朴で、真面目で、正直であるべきだと思ってしまう。そのお互いの食い違いによって、関係が円滑になるわけがないと今気づいた。

また、自分はいつまでも素朴で、真面目で、正直でいられるかと言うと、そうでもないようだ。特定の人の前で見栄を張ったり、企みがあって本心を隠したりしていた。しかし、そんなことをする前に、いつも心の中ではもがいていた。「こんなことをしたら、本当の私じゃなくなる」と。そして、した後に、「こんなことをしたのは、本当の私じゃない」と自分を否定してしまう。

あるとき、本心を隠してある選択をしたのをある先生に告白したら、「こういう選択をしたのも〇さんだから、そんな自分を認めなければならない」と言われた。また、学生相談所のゼミに参加していたとき、カウンセラーの先生に「現実の自分も、理想の自分も、どちらも本当の自分」と言われたことがある。さらに、あの20代の大学生に「〇さんが考えている『本当の自分』は何ですか」と聞かれたとき、自分が答えたのは完全に「理想の自分」だと後になって気づいた。

そう、私は「本当の自分」を「理想の自分」だと捉えていた。そして、理想の自分に達していない「現実の自分」にいつも不満を感じていた。

そう考えると、対人関係の中で形成される「分人」の概念は自分には適していないのではないか?と考えてしまった。つまり、誰に対しても、素朴で真面目で正直でいたい私が、他者ではなく、私自身に向けての「理想像」であり、結局自分に向けでの「分人」になってしまうからだ。

しかし、「一人でいる時の私は誰?」というセッションでは平野さんはこのように書いている。

「私たちは、一人でいる時には、いつも同じ、首尾一貫した自分が考えごとをしていると、これまで思い込んでいる。しかし、実のところ、様々な分人を入れ替わり立ち替わり生きながら考えごとをしているはずである。無色透明な、誰の影響も被っていない『本当の自分』という存在を、ここでも捏造してはならない。」(p.98)

これを読むと、論点がずれているかもしれないが、自分の場合に照らしてこのように考えた。つまり、「素朴で真面目で正直でいる」という自分の理想像は自然に生まれたものではなく、誰かに向けての分人の延長線上に、いつの間にか自分に向けての「理想像」となってしまった、ということだ。

そう考えると、親や先生に向けての分人がその原型であるとしか思わない。父親には「刻苦素朴」と、先生には「誠実勤学」と幼小期から植え付けられた私が言われた通りにやってきたから。

「対人関係ごとに思い切って分人化できるなら、私たちは、一度の人生で、複数のエッジの利いた自分を生きることができる。」(p.86)

と本の中に書いてあるが、いままでは、「複数のエッジの利いた自分」を生きようなんて考えたこともなかった。

これからは自分の内から脱出し、周りに目を向けて自分の分人の実態を知り、もっと客観的にならなければいけない気がする。

最後に、なんでいままで、私の前にいる時と、他の人の前にいる時と違う振る舞いをする人のことが嫌いなのか改めて考えると、二つのパターンがありそうだ。

パターン①は、私の嫌いの人の前にいると、その人と仲よくしようと迎合している友達のことが気に入らない。なぜなら、嫌いな人と仲よくしようと思ってもできない自分のことが気づかせられるし、自分だけの友達じゃなくなるのが耐えられないから。

パターン②は、私の知らない人の悪口を私に漏らすが、その人と一緒にいると、そんなことを少しも触れない友達のことが気に入らない。なぜなら、そんなに不満があるなら、なんで本人に直接言わないの?私にぶつぶつ言っても何も変わらないじゃないの?と思ってしまうから。

こんな自己中心で、思いやりのない自分はどう生きたらいいんだろうね?

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