見出し画像

海外ノマド…は全然キラキラしていない。けれど、日本を離れて、海外に行くと分かること 目に見えるものと見えないもの

海外ノマド生活…
ビジネス海外ノマドもたくさんあって、良いことばかり書いてあることも多い。
海外に住むということ
海外で働くということ…

実は簡単なことではありません。それは十分知っています。そして、人生でどれだけ奇想天外なことが起こり、トンデモないことが起こり…。それでもこうして海外生活を続けているのは、ここでしか得られない尊い経験が得られるからだと思う。

そして、それは決してキラキラしたものではなく、どちらかと言うとドロドロしているし、ぐちゃぐちゃしているし、良いことなんてどこにあるんだろうか?なんて思うこともある。

ただ、1つだけ言えることは色んな意味でちゃんと生きていることを実感する。そしていつでも何かを学んでいる気がする。ただ生活をしていても、自分が向上できる気がするのだ。

そして、このご時世、日本を離れて、日本を遠くから見ながら、そして海外という別の国を見ながら、色んなことを思い、考え、知ることができる。
今回は少し厳しい…記事かもしれない。でもきっと役に立つと思う(多分)


情報社会の中で、考える力を失っていないか?

私が最近SNSやブログを見て思うこと…この情報社会の中で、人は受ける情報量が多すぎて、自分で考えることをあまりしなくなったのではないか、ということだ。

また、本来なら情報は無料じゃない。ましてや誰かが本当に知りたい情報は高額だ。だからこそ、専門家が提供する情報や高額で、「アドバイザー」とか「プロXX」みたいな人が高額でその情報やノウハウなどを販売している。
それこそ、「ノマド」だって「ビジネスノマド」がいて、「ノマド」や「海外情報」を販売している人もいる。

もっと言えば「1年間で1億稼ぐ」なんて書いてそのノウハウをビジネス化している人もいる。だから情報は無料じゃない。誰かの「経験」がそうやって販売に繋がる時がある。

けれど、無料の情報も世の中には多すぎて、それを処理する前に次の情報が入り、だからそれをちゃんと情報処理する時間がなくなり、さらにちゃんと情報処理しないままアウトプットしてしまう傾向にあると思う。

そういうことも、日本ではない少し遠くから見て、そして時に私にとっては「ノマド」というカテゴリーのビジネス、海外暮らしをしている人を見ながら、色々もうことがあるのだ。

今となっては海外暮らしをしている人も多く、そしてそこに住んでいるからこそ、情報提供などがビジネスになっていることもある。

見たものだけを信じて良いのか?

色々記事を書いて、特に海外で立ち向かう問題などを書くと、色々ご意見を言ってくださる方や、色々なアプローチをしてくれる方もいる。有難い。ただ、私はSNSではあまり自分の本当の素性を出していない(顔などを出していない)

そして、NOTE以外でもSNSではなぜか実際の私とは別の人柄を想像される。なぜかSNSでは私は実際の自分とは別人のようなのだ。私はノマド生活という点では自分のことを話しているが、性別や容姿、趣味…自分自身のことを言わないでいる。もちろん顔を出した写真などもほぼ出していない。

それは書くということの集中しているからで、それは自分のちょっと変わった生活、「ノマド生活」や「海外生活」などについて書いているからだ。それは「書く」ということが好きで、趣味の一環として好きなことを時間のある時に徒然書いている。

本当の自分はこのSNS上、NOTEの自分とは恐らく全く違うと思う。
ただし、一応気を付けていることは、誰かを傷つけたり、攻撃をするようなことは書かないように…とは思っている。

ブログが炎上して分かった人間の心理

それは、大昔、NOTEを始めたきっかけとなった記事がバズり、そして多くのコメント、批判、批評を得、そこで日本の(日本語なので)人のSNS,記事に対する読み方、考え方、などを十分理解できたからだ。

実は今とは全く異なる記事を書き、トンデモない数のビュワー数になった。
それは今と全く異なる記事であったのだけれど、その時に多くの人が関心のあったことに関して書いた記事だった。


実はそれは別のブログで書いており、そのブログはそれをきっかけに閉鎖してしまった。誰もが注目していることを書けば、ビュワーも増える。それは自分がどうしても納得いかないことに関して、自分の「なぜ?」を突き付けるために、色んな記事を読んで、それをまとめたものだった。

ただ、その時に、相手がどういう人か、を考えないで、(そしてもちろん言っている人も自分が誰か分からないから、というのもあるが)コメントしたり、批判したり、批評したりできるんだろうなあということが分かった。

相手の職業は?
相手の年齢は?

SNS上だから、そんなこと関係なく何でも言っていいのか?
知らないからこそ、何を言っても良いのか?

SNAは人を社会的抹殺できる

私は…三浦春馬さんの死について、色々記事を読んでそれをまとめて、「情報社会に流されるな」と思いながら、彼はどうして亡くなってしまったのか…ということその記事などからある仮定を立てた。(それを仮説ともいう。)
もちろん、それは真実ではないし、色々な記事や状況からの考察でしかない。それでも多くの人の「なぜ?」から、私の記事は今までの記事で一番読まれた記事になった。

「指殺人」なんて言葉があるように、多くの人が何も考えずに書いた言葉や言動で人が社会から抹殺されることもあるし、死に追い込まれることがある。SNSという情報社会だからこそ、情報が広がり、それが本当か嘘か、そんなことがどうでもいいくらい、その情報のせいで、人が社会から抹殺されるのだ。

そして会社が潰れたり、人がある業界から消えたり…。そしてそれが自分のせいだと思う人はいない。言葉で「正義」を語ることは本当に「正義」なのだろうか?そしてそれは本当の情報なのだろうか。

真実は本人しか知らない…

ただし、私たちが見聞きする情報はどこからか知らないところ、知らない人からの情報で、どんなことでも、結局、真実は本人しか知らないのだ。そういうことを自分が書いた記事で本当に学んだし、そういうことを言いたくて書いた記事が、その願いは虚しいほど伝わらなかったように思う。

そして、真実を伝えようとする人がいても、それを阻止されることもあれば、真実は曲げられたり、隠されることもある。人は信じたいものを信じ、本当かどうかはそこまで重要じゃないこともあるのだ。
そして、その嘘野中に10%でも真実が隠されていれば、それは嘘とは言えなくなることもある。大きな情報の中の切り取られた一部だけで、私たちは物事を判断してしまっていることがあるのだ。

SNSという世界で、有名にもなれるし、何でもできる可能性がある。けれど、SNSで知らない人の悪口を言え、他者を責めて、批判して、さらに存在まで否定する(平気で「死ね」とか知らない人に言えたりする。)
知らないからこそ言えることもあるが、でも知らない人にどうしてそこまで言えるんだろうって思うこともある。そして、自分は一人でもそれが多く集まれば多くの人が一人の人を攻撃してしまうこともある。

その前に…。ちゃんと考えないといけない、ことがある。自分の言動に責任を持つ、ということもそうだけれど、それよりも何よりも、SNSで見た、読んだ、知ったことは本当に真実なのだろうか。真実のたった1部を切り抜かれ、抜粋され、それだけを見ているだけじゃないんだろうか…。スマホの小さな画面から、得られる情報は本当に、それが真実なのだろうか。

記事を読んで、考えて、そして自分の意見を書く。

それは本当に簡単なようで簡単ではないのかもしれない。その時に頂いた多くの意見などを読んで、私が感じたことは

●私が書いたことをきちんと読めない。これは携帯電話などの小さな画面から読むせいか、一語一語読んでいないので、理解力が低下し、小さな文章の違いをちゃんと理解できていない。

➡「~だろう」「と考えられる」というのは断定ではない。それが論文を書く時に使用する言語である。それは科学的根拠がないと断定できないからだ。断定できた時だけ「だ。」「である。」と断定できる。

➡私はわざと本当に大切な部分を書かなかった。ただ、それを調べて他の文献(記事)に書かれたことを掲載(リンクを張ったり、引用)した。それが学術的文献を書く方法だ。だが、文章をそのまま読む人が多く、私が「こう言った」「ああ言った」ということを平気で言う人がいた。

結局、自分が書いたこと、口にしたことはそれが同じ母国語を話す人間でも100%理解されないこともある。そして、読んだことに関して、ただただ意見や批判、批評をすることはできるが、それをする前に
●少しでも考える
●他の何かを読んだり、調べたりする

ということすらせず、誰かの書いたものや言ったことに対して自分の意見を言う。

ほんの少しだけ、立ちどまって考えよう

だからこそ、この今の世の中で、少しだけ、ほんの少しだけ、何かを見たり、聞いたりしたときに立ちどまってほしい。その今得た情報は信ぴょう性はあるのか?そしてその情報はどこからのものか?

誰が言ったことなのか?
どういうところが発信した情報なのか?

日本でも色んなゴシップが流れる。そしてSNSやブログなどで、多くの記事が掲載されている。誰でもが何でも言える世の中なのだ。それに対して、

「本当?」とか「なぜ?」とか思うことが少なくなっているように感じるのだ。そして、さらにそれに対して書いたコメントや意見、批判など、ちゃんと読み返しているんだろうか…

頭が良いとか悪いとか、そういうことではなくて、今得た情報、状況に関して、立ちどまって、考える、そして、それについて少しでも調べる、ということが、今新たに大切な能力になってきているのではないだろうか、と思うのだ。

海外に出ると分かること。視野を広げると思考が深くなる

海外にいることと、ちゃんと考えること…それは関係していないようにも思うのかもしれない。けれど、海外に出ると

●自分の思考は広がる
●今まで知らなかったことを知ることができる
●知らなかったことを肌で感じることができる
●自分には関係ないと思っていた世界も身近に感じることができる
●日本を外側から見ることができる

けれど、そういう経験や知識を持つことだけが良いとは言えない。それは他の知識は経験を得ることで、広がる世界があることは確かだし、知っていることも増えるかもしれない。

けれどそれは自分の視野が横に広がるだけで、上になるわけではない。それは誰かより上の立場になるわけではないということだ。横に視野を広げても、もしかしたら、小さな村でそこで1つのことだけに集中して生きている人はそのある分野では誰よりも上を行く知識を持っているかもしれないのだ。

だから海外に行く、海外で暮らす、海外で仕事をする、ということは視野は広がるが、それが誰かより上になることではない。そして、知識の深さ、広さと言う点で上下があるのであれば、どんなことでも絶対に自分よりも上がいるのだ。

知識を得ると知らないことが増える

知識、教養は裏切らない。私はそう思っている。そして、知識はいくらあっても無限に増やせる。

知っている知識を〇としよう。
そして、その知識の〇が大きくなると仮定すると、その〇の周りが知らない領域となる。ということは知識が増えると、〇が大きくなり、その領域が大きくなる。そして、自分が知らないことが世の中には多いということを更に痛感するのだ。

そして、知識の得方は本来本からで、そしてさらに専門書など、であり、誰でも書けるSNSやブログなど書いた人が誰かも知らず読んで、その情報を正しい情報として処理してはいけないということだ。

「専門家」は「専門家」ではないことがある


とは言え、色々な記事に「専門家」とか色々経歴が書かれていて、それでその人が「すごい人」と思うことがある。けれど、「専門家になる方法」なんて本すら出ている時代、ある程度簡単に「すごい人」になれる世の中なのだ。

ここで今私は2つの記事のリンクを付けた。でも、よくみてみよう。
1つは…誰かのブログ?どんな記事?誰が書いている?

そして2つ目は東洋経済だ。同じようなこと少し言っているようにも思うが、その情報源がどこか、誰が書いたものかということも重要だ。それが信憑性とも関係する。この2つなら、東洋経済の記事のほうが信憑性はあるだろう。要はGOOGLE検索して、一番最初に出てきた情報が絶対ではないのだ。ちゃんとその情報の信ぴょう性も調べる必要がある。

でも、ある意味簡単に「専門家」と言えてしまうことが分かる。

真の専門家とは

ただし、本当のプロになる、には1万時間必要と言われている。

https://toyokeizai.net/articles/-/653657

私は…NOTEの自己紹介にも書いているが、言語学博士だ。まあ、博士らしくない博士だなと思うし、どう見ても、博士ではないし、博士らしい仕事もしていない。そして、「博士」が何か知らない人もいて、大学の「教授」とか「准教授」とか、それと「博士」が認知されていないこともある。

欧米では大学の講師はほぼ必ず「博士号取得者」という条件がある。しかし、実は日本ではこの「博士号」を取得していない大学教授も多い。多くてびっくりする。

因みに、もしかしたら「博士」と言っても、それすら自称もいるかも、知れないんだが…。簡単に言えばMR.とかMRS.とかではなくて、世界的にDRと書ける正式な「博士」だ。

「博士」って?となると思うが
大学で、修士課程を勉強し、そして博士論文を書いて、博士号を取得している。それだけだ。それが偉いとかということではなくて、ある専門の知識に対して、それだけ勉強して、少しだけ詳しい、ということだ。そして博士論文を書いたお陰で、様々な文献を読み、研究や調査をして、そこから分析をして、自分で考えて、仮説を立てて、実証していく…そしてそこで何かしら「答え」を導き出す。そういうことができるようになる。

勉強が好きな人が「博士」かもしれない。まあ、実際理系の「博士」は重宝されるが文系や人文化学系の「博士」は仕事もあったりなかったり…することもある。

海外での経験ももちろん、重要だ。

海外に行って、情報は情報だけではなく、それを自分で実感し、体験することができる。それは人生において、かけがいのないものだ。それはSNSやスマホから得られる情報とは別の有意義なものが得られる。

そして、日本にいるだけでは得られない体験や情報、普通なら会えない人に出会えたりする。だから私は外国に行くと、その国の、地元の不安定な環境に身を置いてしまう。

そして、もちろん、今私のおかれている環境は決して良いものではないし、困難しかない。

でも、それなりの覚悟もあるし、色々調べて、自分では納得して、今の状況にいる。自分が今いる組織がどんな組織で、何をしていて、どういう状況かは把握している。
けれど、もちろん個人情報などになるし、色々特定されないように、組織名とか、そんな詳しいことは書いていない。
そしてちゃんと自分もそこで働けるように、それだけ必要なスペックは持っていると…思う。

ご意見など本当に有難いのですが…。経験を積んだ方が良いという方もいらっしゃいました。でも…。若くないのでこれから経験を積む…というのはちょっと…逆に難しい…し既に自分の分野では「専門家」なので、これ以上を求めるのは少し難しい…。のだ。

相手のことを知らずして、SNSでの誰かに対する批判や誹謗中傷…それとは又別ではあり、お心遣いとして、色々ご提案や情報を頂くこともあるんですが…。そして見ず知らずの相手に、そんなことをしてくださることは有難いことでもあるのですが…。

相手のことを、もう少しだけ、知ってから…。相手のことをもう少し分かってから…。名前も職業も、年齢も…何も分からない「架空」の人物かも、しれない人に対して、本当にそれが正しいことか(特に誹謗中傷は)今一度考えて、自分の行動に責任を持って、欲しいなと…。思うんです。







だって…
私はここで「言語博士」って言っていますが…どなたかその証拠、見たことがありますか?(^^) 
私が書いている記事の中に…ちゃんと調べて、ちゃんと読めば私が誰かもう少し分かるものもあり…。そういうところは見られていない、調べていないんだなあ…と思うこともあるのです。

本当に大切なものは目に見えない、心で見るんだよ。

星の王子様の1節です。それとは異なりますが、本当に大切なものは目に見えていないかもしれません。情報社会で実は誰かにコントロールされているかもしれません。
本当の情報をちゃんと選別して、得て、理解できる、それが今のこの情報社会、世界が繋がっている日々の中で本当に大事なことではないんでしょうか?
という今日はまじめなブログでした。

この記事が参加している募集

振り返りnote

仕事について話そう

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?