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私の昭和歌謡

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昭和は遠くなりにけり(おばあちゃんがいつも「明治は遠くなりにけり」って言ってたっけ)私も歳をとったもんだ。 でも、昭和歌謡を聞けば、そこに私の青春がよみがえるの。 だから、昭和人…
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#昭和歌謡

私の昭和歌謡102 異邦人 1979

私の昭和歌謡102 異邦人 1979

この指があなたに届くその時を子供のように信じていたの

シルクロード。
大ブームになったのがこの曲のヒットだった。

最初から異国情緒たっぷりに作られた曲だと思っていた。
でも、違った。

シンガーソングライターの久保田早紀は、並木道で有名な国立駅の風景を見て作ったという。えー、そうなの?

このイントロ。

それまでの歌謡曲では聞いたこともない、不思議な中東風の旋法で作られていた。このイントロが

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私の昭和歌謡101 バス・ストップ 1972

私の昭和歌謡101 バス・ストップ 1972

一発屋。いいじゃないのよ懐かしくつい口ずさむバスを待つ時

一発屋。でいいじゃん、と思う。
実際、この曲はいい曲だった。当時も今でも。

バス・ストップという題名がアメリカンだった。
平浩二のファルセットの声が気持ちよかった。
メロディーがなんか懐かしかった。
歌詞が女がびっくりするくらい奥ゆかしかった。

そして、後日談で知ったのは、平浩二という歌手のファルセットを生かすために作られた曲だったら

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私の昭和歌謡100 東京キッド 1950

私の昭和歌謡100 東京キッド 1950

占領下。いきで、おしゃれで、ほがらかな映画に驚く令和の夜

私の昭和歌謡100回目となりました。

私が生まれる少し前の映画を語ります。

日本は1945年から1952年の7年間、米国の占領下にありました。

「東京キッド」はその間につくられた映画です。そして、13歳の美空ひばりが同名曲をこの映画の中で歌います。

病気の母と子が寄り添うように暮らしている。そこへ、放蕩の末アメリカに行ってしまった

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私の昭和歌謡99 死んだ男の残したものは 1965

私の昭和歌謡99 死んだ男の残したものは 1965

反戦歌とは思わずに口ずさむ初めて歌詞に気づくは令和

森山良子にハマっていた。

反戦歌の意味も考えず、小学生の私は真似して歌った。その頃は、まだ高い声がスーーっと出ていたから、平べったい森山良子の声より、よっぽどスゴイぜ、なんか思いながら、ガンガン歌った。

こういうのが私の昭和歌謡の鑑賞だった。

だから。歌詞もメロディーもすっかり覚えているのに、全く味わっていないも同然なのだ。

流行った歌

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私の昭和歌謡98 雨 1972

私の昭和歌謡98 雨 1972

お座敷で三味線つまびき歌う唄円山芸者の息子の歌声

三善英史。
さすが母親が円山芸者だけあって、演歌とは違う座敷唄の発声だった。

そこがめずらしくて聴いた。小さいこぶしが自然に入る。これは真似するのは結構難しかった。

昭和生まれは、ヒット曲は歌うから。聴いて歌って味わうのだ。

🎵雨にぬれながら たたずむ人がいる
傘の花が咲く 土曜の昼下がり🎵

こういう情景を歌うのであって、女心のどうの

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私の昭和歌謡97  真夜中のギター 1969

私の昭和歌謡97  真夜中のギター 1969

名曲はロック、ポップス、歌謡曲、フォークはとくにシンプルがいい

1907年前後のフォークソングは、今では全部同じに聞こえてしまうww

失礼。例にすると、昭和40年ごろの歌謡曲が万葉集なら、フォークは古今和歌集って感じかな。

敬意を表して例えました。ごめんなさい。

昭和歌謡に精通している方は、次のつぎはぎを歌ってみて。私の言いたいことがわかると思うから。

ざわわーざわわーざわわーーーーー(

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私の昭和歌謡96  小さなスナック 1968

私の昭和歌謡96  小さなスナック 1968

君はいまどこへ行ったの?僕ひとりキャンドルライトに揺れる面影

いつの間にか流行っていた。
覚えてすぐ歌える童謡のような有節ソングだ。

グループサウンズ風の青年たちがフォークソングを歌ってる。3番まであって、最後に半音上げて終えるぐらいしか曲の展開がない。

たまに、それほどの工夫もない一発ヒットが出る、そんな一曲だと思う。

小学生の私は、友だちと、曲より歌詞を論じ合った。論じ合ったというと、

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私の昭和歌謡95  魅せられて 1979

私の昭和歌謡95  魅せられて 1979

ほんとうに好きな男の腕の中違う男の夢を見れるの?

芥川賞は「太陽の季節」と「感傷旅行」「エーゲ海に捧ぐ」しか読んでいない。

21世紀になって、本屋で文藝春秋をチラッと立ち読みしたことはある。夢中になって立ったまま、なんて全くなく、すぐに立ち去ってしまった。

最後に読んだのが「エーゲ海に捧ぐ」だったから、その印象は強く残っている。小説と映画と歌謡曲がセットになって、今ではジュディ・オングの歌声

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私の昭和歌謡94   黒ネコのタンゴ 1969

私の昭和歌謡94  黒ネコのタンゴ 1969

うきうきとタンゴにのっておしまいはアジの干物で興醒めの歌

ボーイソプラノが歌うってとこがよかった。
しかもタンゴ。

前のめりにどんどん歌う。
幼い子供の歌は、呪文のようだ。暗記を忘れないように、味わったりしない。

熱唱系もいいが、それにうんざりしていた頃、こういう歌は爽やかで、たちまちヒットした。男の子で色気もないし、すぐに覚えて歌えてしまう。

家事を手伝う昭和の子は、こういうリズムがいい

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私の昭和歌謡93   あなたのブルース 1968 

私の昭和歌謡93  あなたのブルース 1968 

ブルースが暗く悲しく胸を打つ一人暮らしの男の胸を

はじめ、森進一が歌っているのかと思った。
ところがテレビでは矢吹健という歌手が歌っている。

こんなハスキーな声で歌う人は森さんだけかと思ってたのに、いるんだー。それが小学生の私の感想だった。

こういう声をミスティーヴォイスと言うんだそうな。

もちろん昭和の子供は、特徴的な部分は、元気に歌う。

🎵あなた あなた あなた あなた あーーーな

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私の昭和歌謡92  愛の化石 1969

私の昭和歌謡92 愛の化石 1969

期待して女優の歌を聴きたればルリ子は語るひたすら語るw

浅丘ルリ子。
目がぱっちりで、唇がぽっちゃり厚ぼったい、それはそれはの美人女優だった。カトリーヌ・ドヌーヴと並んだって負けない。日本人なのに。

当時、見るたびにほれぼれでしたよ。

「愛の化石」という歌謡曲にはものすごく期待感があった。どんな声で、どんなにチャーミングに歌うんだろうって。

だからこそ、失敗だ、と、落胆した。なに!この曲は

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私の昭和歌謡91   蘇州夜曲 1940

私の昭和歌謡91 蘇州夜曲 1940

戦前の異国情緒のシネマには敵わないなあ美女の歌声

山口淑子(李香蘭 りこうらん)は、もちろん昭和の有名人である。

波乱万丈の人生だった。
・1920年中国奉天で日本人両親の娘として生まれる。
・美しい容姿とソプラノ歌手として中国女優李香蘭として活躍。
・漢奸の容疑で命からがら中国から日本へ逃げ帰った。
・日本の女優山口淑子として、三船敏郎や池部良と共演。
・ニューヨークでイサム・ノグチと5年間

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私の昭和歌謡90    雨の御堂筋 1971

私の昭和歌謡90 雨の御堂筋 1971

昔から欧陽菲菲ベンチャーズ日本歌謡はグローバル

15歳の私が驚いたのはステージ衣装だった。

それまでの衣装は、ピアノの発表会で小学生が「かっわいー」と言ってもらえるような、裾が広がったふりふりレエスのドレスだった。

なんと!欧陽菲菲は違った。

ボディにくっついたようなぴったりサイズ。肩ひもーーーー!胸から上が露出。もちろん足が見え見え。それで踊る。

それだけで、テレビ時代の歌手はいいのだ

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私の昭和歌謡89    山寺の和尚さん1937  東京ブギウギ1947

私の昭和歌謡89 山寺の和尚さん1937  東京ブギウギ1947

ジャズやブギ戦後流行ったもんじゃない服部良一ここにあり

ヒット曲はヒットしてからしばらくはテレビやラジオで流れる。

「東京ブギウギ」もその一つだった。戦後の暗い気持ちを吹き飛ばすような曲を提供したいという服部良一さんの思いを、歌手の笠置シズ子がのびのび歌う。ものすごいエネルギー量だ。

今あらたに動画で見てもほれぼれするほどの歌唱力だった。

今年のNHK連ドラ「ブギウギ」のモデルになっている

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