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第3回THE NEW COOL NOTER賞始まる世界部門~10/27講評

第3回THE NEW COOL NOTER賞「始まる世界」部門へご参加いただいている皆様。

11月部門、ただいま募集しております。
自己紹介や、自己PR、よいと思うものの宣伝などが対象です。
たとえば、ご自身の「自己紹介」の記事を、そのままハッシュタグをつけてご参加いただくということも可能です。
皆さんの様々な背景、個性、これだけはゆずれないというもの、感じること、そういったことに触れたく思います。

どうぞ、ふるってご応募ください!

それでは、本日も3つの応募記事へ、審査委員それぞれからの気合のこもった講評を掲載させていただきます。

ぜひ、楽しんでいってください。

(本日の講評者)

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<講評(みこザウルス)>

手帳や日記が大好きなみこちゃんですので、まずタイトルに興味を持ちました。しかも

「できたこと」に関する手帳らしい。いったいどんな作品を読ませていただけるのだろう……。

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あれ・・・全部同じだ。どれも2行だけ。

・手帳を書けた。
・今日も生きてた。


これには、せやま南天さんの理由があるのです。

数年前の秋。
私は、ベッドから起き上がることができなくなった。

心の病気の一種だと診断された。

毎日の不調の中で、せやま南天さんが拠り所とした実感が
「生きてさえいればいい。」
ということでした。

生きてさえいれば、
何も出来なくたっていい。

この作品全体を読むと、生きているということ、それがとりおなおさず今日自分が達成した「できたこと」なんだという思いが伝わってきます。

一般的には、できたことというと、目標を立ててそれがクリアできたかどうかを指すと思います。自分のタスクをゲームに見立てて、それをクリアすることでゲーム脳が働くので生き生きできるんだ!とメンタリストDaiGoさんが言っていたのを思い出しました。

でも考えてみれば、せやま南天さんのおっしゃるように、生きていなければ何一つできないし、生きるということさえも、精神的にも肉体的にもしんどい人はたくさんいる。

せやま南天さんは、自分に何ができるのか、その最初の一歩として白紙のノートにこう書きました。

・手帳を書けた。
・今日も生きてた。

そして徐々に、そこにできたことが増えていったのです。

・ほこりを拾った
・洗い物ができた
・庭に出た

人は、他の人より遅れていると思ったときに、必死にそれを挽回しようと無意識のうちに焦ってしまいます。だから、手帳にただ、今日も生きてきた、とは普通は書かない。でも、せやま南天さんは生きてきたことの大切さから出発しました。

もし、読み返して達成感を感じるようなできごとが起きるまで、自分で起こすことができるまで手帳が空白だったとしたら、その手帳はもしかしたら永遠に文字で埋まることはないかもしれません。

読み返して達成感を味わわなくてもいい。せやま南天さんが手帳をつけていたのはこんな実感でした。

過去の自分、
昨日の自分とも比べる必要はなくて、
ただただ積み重なってくれたんだと。
書くことで、そう思えた。

手帳というと、スケジュールを思い出すみこちゃん。
日記というとその日達成できたことをおさらいするみこちゃん。
だから、せやま南天さんのこの作品のタイトルに惹かれたのでしたが、その期待はいい意味で完全に裏切られました。

手帳や日記をつけることの原点は、繰り返し繰り返し自分の何かを確かめることであるはず。
であるならば、その一番確かなことは「生きている」ことを繰り返している、それが積み重なっているということだと思います。

スケジュールを予定でパンパンに膨らませて飛び回っているビジネスマンは、本当に充実していると言えるのだろうか。もしかすると分刻みでスケジュールをこなしていくことの方が、かえってさらさらと砂のように日常が手からこぼれ落ち、実は一日終わった後、てのひらには何も残っていないのではないか、とんなことを思いました。

せやま南天さんは違った。
砂のように過ぎていく手帳に書かれた予定や課題をこなしたかどうかではない。なぜなら予定や課題は終わってしまえばゴミだから。横棒で消したりアプリであればチェックマークをタッチしたらすっと画面から消えてしまいます。
残るものは何もない。

普通の手帳は大切なことを「残す」ためではなく、立派に成し遂げたことを「消す」ためにあるんだなとせやま南天さんの作品を読んで思い至りました。

最近ではせやま南天さんは、こんなに書くようになったそうです。

・タオルケットを洗濯できた
・お昼に、お好み焼きを解凍して食べた
・駅まで往復歩いた
・子供の新しいパジャマを買えた
・火曜サプライズの見逃し配信を見た
・月がよく見えた

でも量が増えたからすごいというわけでもない。
少ない日は少ない日でもいいし、書かない日は書かない日でもいい。

でも普通の手帳と違うのは「タオルケットを洗濯できた」このことが終わったら、そこにはタスク終了!ってことで横棒が引かれるけど、せやま南天さんの手帳は冒頭の「今日も生きてきた」あかしの具体例として、たしかに積み重なるのだということ。

それが、自分というものを作っていくんだなと思いました。

手帳について書かれたこの作品の中に、効率よく手帳をつけていく仕事に使えるヒントではなく、生きていくヒントをいただきました。

ありがとうございます。

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<講評(愛加ちゃん)>

一読して、ぱっと頭に浮かんだのは、年表でした。そう、歴史の授業でおなじみの、史実を時系列にまとめた、あの年表です。

ある年月日から、過去を遡れば、ある年月日は終着点。でも、先を追いかけると、同じ時点が始まりとなる。

頭の中で、ある年月日から過去へ、未来へと指を動かしながら、その事実を確認した時。
今度は、そのある年月日が、今、という言葉に変換された。

今わたしが息をしているこの瞬間から、過去を見れば、今は終着点だけど、未来を見れば、今は始まりとなる。

そう、呟いて、はっとしました。

えらいこっちゃ!
自分が過去に意識を取られるか、未来に目を向けるかで、今この瞬間は、終わりにも始まりにもなるってことじゃん!

たったそれだけの、当たり前の事実に気付いただけなのに、何だか凄い大発見をしたような気持ちになりました。


そこで、再度アカネの始まりの物語を読んでみました。

何の心構えもないまま、突然耳にしたユウマの訃報。
誰とも会いたいと思えなくて、窓の外を見ても何も感じない。
パタン。アカネは扉を閉ざしてしまったんですね。
それは、思い出がアカネの気持ちのベクトルを過去へと誘った、涙の海の世界。

彼のいない世界。それは、この世の終わり。

でも、ある日耳にした歌が、閉ざされた扉をノックした。
優しさと痛みの両方を感じさせるその音は、これから続く未来があることを示していた。

でも、アカネの手の中にあるのは、思い出。

ユウマと手を繋いで、ユウマの髪を撫で、ユウマにLINEして、ユウマに好きと言われて触れたあなたの頬…
この「手」なの。この手は記憶してる。
その触れた感触を、温もりを、優しさを、肌の柔らかさを…

そんな大切なものを手放して、閉ざされた扉のドアノブをつかむことなんてできない。

でもね。

必ず終わる。
必ず終わる。
この悲しみは、本当に終わるの?

涙で見えなくなった、奥底の気持ち。悲しみ浸りたい訳じゃないことに気づく。

そんな心に呼応するかのように、夢に現れた、ローズピンクの鳥。
見せてくれたのは、世界中の海。
それは、ユウマが見たかった未来。

目が覚めた時、手のひらの中にあったのは、ぎゅっと鳥に捕まっていた感触。

ローズピンクの鳥と見た、ユウマの未来がこの手のひらの中に。
その感触が、気持ちのベクトルを、未来へと向ける。

「ユウマ。ありがとう。」

その言葉とともに、閉ざされた扉がぐっと開かれた。
終わりは、始まりになる。
アカネの世界が始まる。


そんな、爽やかな読後感を味わったところで流れる、cofumiさん作詞の曲・begin。

過去をリセットするから、世界が始まるのではなく。
気持ちのベクトルを、ほんの少しだけ前に向けた時に始まるのだと。
自然と顔を上げられるような歌だと感じました。


物語と音楽で、心の風通しを良くしてくれるような作品。
ご応募いただき、ありがとうございました。

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<講評(一奥)>

文章を読む。そして文章を書く。
そう考えた時、私達はどうしても小学校の授業などの記憶から、教科書だとか小説だとか、そういったものを連想すると思います。

しかし、そうした「文章」表現と、こうしたnoteのようなSNS系の媒体には、大きな大きな違いがあるように思えます。

それは「連載性」と「双方向性」である、と一奥は考えます。
誰かと関わること、誰かに読んでもらい――その反応がかなりリアルタイムに返ってくることが、想定されたものであるように思うのです。

たとえばまさにこのnoteでいうならば、コメント欄。
あるいは、通知機能や、記事で誰かの記事を引用する機能、などなど。
そこには「誰かの表現を受けて」自分の表現が生まれいづる、という、まとまって出版される”完成した”書籍には無い連載性があり、即時性、リアルタイム性がある。

実は、それこそがTHE NEW COOL NOTERコンテストで理念とさせていただいている「批評もまた作品」ということです。

hummingbird1980さんが、様々な思いが去来して、ただ突き動かされるままに書かれていること。
そこに、まず器としての自分の文章があり――それが誰かにとっての「世界の扉」となって、そしてまた自分もまた誰かの文章を取り込んで、その交流の先に「文章表現」の世界はある。

hummingbird1980さん、このたびはご応募いただき、まことにありがとうございました。

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*講評は分担制としているため、必ずしも応募順に講評結果が発表されるわけではございません。よろしくお願いいたします。

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応募作品はこちらのマガジンに収録されます。
 他の参加者様の作品もお読みいただき、ぜひ、当コンテストを通して新しく知り合い、また仲良くなった、との声をお聞かせください! 皆様の縁がつながるコンテストでありたく思います。

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