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生きづらさ克服シリーズ① 今日のカウンセリングを受けての気づき

 こんばんは。今日は3本目の記事です。なんせ書きたいことが最近沢山あって。いつもは日記のような感覚で書いていましたが、今回からのシリーズものでは、自分の生きづらさと向き合ってどうやってこれからの人生を生きやすくするかの軌跡と、同じような悩みを持つ人にとって少しでも有益になるような情報が書けたら幸いです。
 noteを未だに全然使いこなせていないのですが、今回は見やすくなるよう目次を初めて設定してみました。


1.生きづらさを感じたのはいつから?

 今日のカウンセリングでは社会復帰に向けて色々な話をしたのですが、そもそもずっと生きづらかったと吐露したところ、いつからそのように感じていたのか聞かれたので振り返っていきます。
 記憶に残る幼稚園時代はまだ感じていなかった気がします。ただ、お絵かきが苦手で何も絵が描けなくて泣いたり、友だちに代わりに描いてもらっていた記憶があります。ごく普通に過ごしていたと思います。
 小学校に入ってからは、少し変わった子だと思われていたと思います。周りから浮いてなかなか友だちができなかったり、小学2年生のときにはクラスの目立つタイプの男子を中心にいじめられていました。あと、ドッジボールでボールを投げることが極端に苦手でした。読書が好きでよく本を読んでいました。小学校高学年辺りから始まる女子特有のグループ意識が苦手でした。よく「何にも考えずに遊んでいた小学生の頃に戻りたい」なんて聞きますが、私にとっては、小学校は窮屈だし、他の子よりも色んなことを考え過ぎていたので、もう戻りたくないです。
 中学生の頃は友だちとの人間関係でよく悩んでいました。再びいじめにも遭いました。この頃テストの点数は良いけど授業や提出物への態度はそんなに真面目でもなかったので、私のことを気に入ってくれる先生と嫌われる先生とはっきり分かれる感じでした。勉強ができるキャラになったので、楽なこともあれば違うクラスの全く知らない人から僻まれることも。中学後半は男子とよく一緒にいました。その方が楽でした。端から見たらいわゆる地味で大人しい中学生だったと思います。その頃からTV見ることはあまりなく、周りがドラマやジャニーズにキャーキャー言ってるとき、私はどうやって切り抜けていたのか今になって疑問を持つようになりました。女子の友だちがいない訳ではなく、一応グループ分けなんかでは困らない程度に友だちはいました。休みの日に遊びに行く友だちもいましたし、気が合う友人たちとは何だかんだ楽しくやっていた気もします。が、色々嫌なことを言ってくる人のターゲットにもなったりして、中学生活も息苦しくはありました。小学校時代と同じく、もう戻りたくないです。
 高校は地元の進学校に入学しました。ここでようやく友人関係にも恵まれ、面倒な女子のグループ派閥も少なく、大人の対応ができる真面目な子が多かったです。勉強にも普通に付いていけて、何の不自由も無かったのですが、高校1年生の秋頃から起立性調整障害に悩ませされるようになりました。当時はまだこの病気は今ほど知名度もありませんでしたし、田舎の病院では診断もおりず、思春期特有のもので、身体と心の成長が追いついていないだけだ、とお医者さんからは言われていました。なので、当時の症状からして起立性調整障害だったとは思うのですが、未診断です。高校が嫌いだった訳ではないので、遅刻や欠席することはあるものの、何とかそのまま高校は卒業しました。その頃に拒食症気味にもなっており、体重は一番痩せていたときで38キロ位でしょうか。血圧もめちゃくちゃ低くてよく生きてるな、と思っていた時期です。とにかく身体が思うように動かず小学校、中学校とは違う意味で苦しかったです。この頃から完璧主義の傾向はでていたように思います。授業もまともに聞いている体力もなく、学校に行けてもよく保健室で寝ていました。その割に成績は半分よりも上だったので、まあ上出来ではないでしょうか。ちなみに高校はテスト完全重視の成績付けだった気がします。授業もろくに聞ける状態じゃないし、テスト勉強もベッドの中で教科書を読む学習スタイルでした。よく高校生で不調になったきっかけを聞かれるのですが、正直大きなストレスはありませんでした。友人関係にも悩まず、進学校あるあるの勉強に追いつけなくなる訳でもなく。ただ、振り返ると面倒な人間関係から抜け出せたからこそ楽しい高校生活を過ごそうと完璧主義の思考が出てきたような気がします。中学校の部活が不完全燃焼だったので、部活も自主練に取り組んで、勉強でも良い成績を維持できるように朝から早起きして勉強もして。自分の気付かないところでキャパオーバーになっちゃったのかもしれませんね。

2.居心地の良かった大学生時代 

 さて、高校生で起立性調整障害に苦しんだ訳ですが、大学受験をして某難関私大の国際系学部に入学します。両親は指定校推薦にして受験させたく無かったようですが、ほとんど得意な国語と英語で入試をパスしたと言っても過言ではないです。高校の頃に身体を壊さなかったら国立に行きたかったのですが、まともに座って勉強できる時間が極端に少なかったので、その割には頑張った方だと思います。
 大学は高校のように地方で真面目で地味な子ばかりではなく、色んなタイプの人がいました。帰国子女の子もいました。高校生のときの友人は優しいけど真面目過ぎてなかなか本音を言えなかったりしたのですが、大学に来て今までの自分を知らない人ばかりで、一気に呼吸がしやすくなった感じがしました。友人も一緒に馬鹿なことをやる仲間といった感じで気楽でした。大学進学と同時に一人暮らしも始まり、起立性調整障害の症状も弱くなってきましたし、授業もただの朝弱いキャラとして休んだり遅刻してもあまり心配され過ぎることがなく、とにかく自由でした。成績も出席率よりもレポートやテストで挽回できました。カウンセラーの方にも自分のペースで勉強するときと休むときを決められたのが良かったね、と言われました。インカレのサークルに入ったり、ビジネスコンテストに参加したり。振り替えると明るく活動的な時期でした。皮肉なことにこの大学生活での4年間のアルバイトが私の一番長く続いた仕事とも言えます。

3.無茶と疲弊を繰り返す社会人生活

 就活はすごく悩みました。本音を言えば大学院でもっと勉強をしたかったのですが、経済的に叶いませんでした。また、この時点で週5のフルタイムで働くことができるのか自分でも不安がありました。腹を括り切れないまま就活をし、新卒でメーカーに入るのですが、今で言う上司ガチャに外れて今まで何人も若手社員を辞めさせてきたクラッシャー上司の下に配属されます。何をしても否定、長時間の説教がきつかったです。自己肯定感がここでものすごく下がりました。数年は意味もなく、ごめんなさいと恋人に対してもひたすら謝り続ける奇行が残りました。その後、最長で2年間のスパンで仕事を転々とします。新卒で入ったり会社の上司が異常だっただけで、他の会社に入ると仕事の覚えが早いと最初の頃は褒めてもらえ、自分自身でもがむしゃらに頑張るのですが、段々ときっかけが特になくても体調が崩れていくという負のループに陥ります。

4.どこにいても生きづらい

 何社か経験した後、とある会社で正社員を8ヶ月で辞めたのを最後に実家に帰りました。その頃は本当にもうぼろぼろでした。自分は社会不適合者だと感じ、どうやってこれから行きていくのか何も希望が見えませんでした。1年ほどアルバイトを少しやり、派遣社員としてフルタイムに復帰しました。職歴がボロボロなので派遣の仕事に就くのも苦労しましたが、会社側からの期待値も低かったのか、案外にその時就いた派遣の仕事(事務)は上手く行き、結婚により引っ越しをして退職するまでの1年半の間それなりに上手く続けることができました。夫は私の過去に理解を示してくれ、一時期専業主婦になったのですが、今度は夫との暮らしにストレスを感じ、仕事をしていないのに鬱を再発してしまいます。夫に発達障害の傾向があり、共同生活が上手くいかず、カサンドラ状態になってしまいました。鬱が再発する前に親友に言われたのは、「cookieは一人暮らししてても、実家にいても、旦那さんと暮らしててもしんどそうだよね。どの時期が一番良かったとか無いでしょ?」と言われた事を覚えています。仕事をしてても、専業主婦でも鬱になってしまう私は、根本的に生きづらさがあるのだと思います。

5.「生きやすく」を目指して

 話が随分長くなってしまいましたが、これから今まで抱えてきた生きづらさを少しずつ克服していきたいと思います。今後は役に立った本なども紹介していきたいと思います。ここまでで3500文字超え。大作となってしまったので今日はここまでにしておきましょう。ここまで読んでくださった方本当にありがとうございます。

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