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『推し、燃ゆ』 宇佐見りん ~生きよ堕ちよ、すべてはそこから始まるのだ

3年積んでた「推し、燃ゆ」をやっと読んだ(笑)。すごくよくできていて、想像以上に読みやすいじゃないの。確かに心地よい小説ではない。けれど、楽しく優しい物語しかなければ、この世はどんなにつらいだろうか?

「推し活」の特異性が注目されがちなようだが、むしろ、きちんと描き込まれているその背景が印象的。
合理性以外の価値基準がないような父親、「ちゃんとできる」姉とのぎくしゃくした関係。小さい頃から子どもを「ちゃんと育てる」ことに腐心してきた母親の疲弊の背後には、さらにその母親(つまり主人公の祖母)の束縛と老いがある。
そして、主人公は勉強も学校生活もバイトも苦手で、「みんなが難なくこなせる生活もままならない」。

若い頃の生きづらさやみたされなさを何かに投影し、没入する。その対象が何なのか、人それぞれ、また時代によって違うだけ。スポーツか文芸か、バイクで暴走することか。
長年もっとも多かったのは恋愛だろうが、現代では、そのうちの一部が
「推し活」にシフトしているということ。

そうした普遍的なメカニズムを理解させる書きぶりとともに、もちろん推し活の「個々の事案」も描き込まれている。
たとえば、推し活最優先でバイトのシフトを組みバイト代は推しにしか使わないとか、部屋に鎮座する推しのCDやグッズを置く「祭壇」、推しを中心につながる優しくもはかない人的ネットワークなど。

その筆致がとてもクレバーなのは、ファンのまなざしに徹し、ファンの領分を守りつつ、推しているアイドルの描写の解像度がとても高いところ。
自分とは何のつながりもない生身の「推し」を「解釈」するのがアイドルの推し活の本質であり、解釈の仕方にファンの側の個性も知性も表れる(と私は思う)。
だからこの主人公自体、とてもクレバーなのだ。

その慎みは物語のクライマックスにもあらわれていて、推しがファンを殴って炎上したのをきっかけに生活に異常をきたし始めた主人公は、やがてファンとしての一線を超えて推しの住む家に向かうのだが、そこでもドラマチックな奇跡のようなものは一切もたらされない。
なぜ推しがファンを殴ったのか、そのファンとは誰なのかも最後まで明かされない。

推しという「背骨」を失った主人公が部屋にぶちまけた白い綿棒という「お骨」を拾いながら、他にもまだまだ汚物が散らばっていることを「長い道のりが見える」と表現するのは絶望のようで希望なのだと私は思った。

自分の決断で芸能界を去った推しにも、散らばった自分の「お骨」を拾う主人公にも、その先にまだまだ長い道のりがある。

「骨を拾う」は青春の終わりの示唆で、イノセントでなくなったあとも「這いつくばって」生きるのが人生であり、主人公はそうやって生きる人だ、きっと。
折れてしまったのならそこで終わり。骨は拾うのは生きている人間にしかできないこと。生きよ堕ちよ、すべてはそこから始まるのだ、と安吾(坂口)も言っている。

現代的であり、かつ、とても普遍的な若者の物語でした。


以下、蛇足。

・この「推し、燃ゆ」,、雑誌「文藝」2020年秋号が初掲で、私はシスターフッド特集とコロナ禍の作家たちの日記を読みたくてたまたま買っていたんです。その後、あれよあれよというまに芥川賞を受賞し、コロナ禍での推し活ブームを背景に一躍、話題作になりましたが‥‥
3年くらいは平気で積んどける(そして平然と読み始める)強いマインドが大切ですよ、積ん読派のみなさん。

・私より少し年下の人がこの小説を読むと若い頃の綿矢りさとか島本理生の雰囲気を思い出したりするんじゃないかと思いますが、私にしたら「若木未生‥‥」って感じでした、わかる人、プチョヘンザップ!
そして、今年芥川賞を受賞した市川沙央さんが「若木未生に私淑していた」と話してるんですよね。だいぶ話が逸れたけど胸熱でした。「ハンチバック」も読みたい。

(2023.11.14 wrote)

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