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『フランスの高校生が学んでいる10人の哲学者』シャルル・ペパン

私が通った文学部の中には哲学科があり、東洋哲学・インド哲学・西洋哲学・現代哲学・倫理学・仏教史・美学美術史などなど、そうそうたる授業が行われていた。もっと勉強しておけばよかった。40を過ぎてからフランスの高校生レベルの本を読んでいます(笑) 
でも、大人になったから興味を持てることってあるんだよね。大人になりすぎた感があるけど‥‥w

とにかく、これを読んでいる間じゅう感じていたのは、ヨーロッパって日本と全っ然違うんだなーってこと。小学生のような感想ですみません。

有限と無限、理性と感情、神と信仰‥‥
もちろん、歴史に名を残す哲学者は一般人とはかけ離れた思考の持ち主だったろうが、そこそこの全時代的日本史オタクとして、
「日本人はこんなこと考えてきてないよ?」
と思うことが目白押しである。

どちらが上とか下とかじゃないですよ。もちろん。
思考の違いをもたらすのは地理や風土、そこからくる歴史であって、優劣ではありません。

「われ思う、ゆえにわれあり」
私でも知っている有名なフレーズ(フレーズちゃう)だが、これも有限と無限や実存にかかわる話だったんですね。
目に見えるもの、手に触れられるものが本当に「在る」のか?
砂漠の旅人がオアシスの幻影を見るように、幻でないとなぜいえるのか……そうやってすべてを疑っても、今疑っている「われ」だけは確実に残る。
ゆえに、われだけは実存している‥‥
そういうことだったんですね!(無知)

なにゆえに、かほどにつきつめて考えねばならぬのか?
凡人の私にはとんとわかりません。

けれど、
「人間は、この世のものが有限な存在であると知っている(←みんな死ぬから)。だから、人間だけで考えていたら、無限という概念にはたどり着けない。よって、我々がもつ”無限”という概念は、有限の存在を超えたものから与えられたのである。つまり、神は存在する」
という理屈(?)はめちゃくちゃおもしろいと思った。

よく、「ゼロの発見」が人類にとってエポックメイキングだったというけど、無限が神につながるというのは、言われてみたらそのとおりかも。
ゼロはインドで発見されたといわれてるんだっけ?インドの哲学にも興味が出てきた。

・「有限の知性と無限の意欲」(デカルト)

・「人間は、”自然のなかにある国家の中の国家”ではない」
・「小なる完全性からより大きな完全性へ」(スピノザ)

・「信仰とは絶望である」(キルケゴール)

などなど、読んでみると、「なるほど確かにね」と思ったり、「現代の自己啓発書にも書いてあるね」みたいなことは多い。(こっちが先です当然)
特に、昨今、スピノザが流行ってる(?)のがちょっとわかる気がした。
なんかちょっとアドラー的なんだよね。
スピノザの解説といえばドゥルーズらしいので、ドゥルーズにチャレンジしたいと思います。いつかね‥‥w

入門書あるあるで、あまりにも簡素に書いてあるためかえって本質が見えづらいところもあるんだけど、時代が古い順に並べられていて、学説がどのように発展してきたかが見えるのはよい。
何かひとつの哲学的発見が席巻すると、必ず批判や反発が起こる。それを繰り返して、学問が発展してきたのがわかる。
また、哲学は数学や科学ととても近い関係にあり(哲学は数学を包含しているといってもいいかも?)、18世紀以降の科学の発展と密接に関係しているのも何となくわかる。なんとなく、ね‥‥w

翻って、日本にももちろん学問があり、カントやヘーゲルの時代には朱子学、陽明学、国学などの高名な学者が各地にいただろうが、中身が全然違うなという感じがする。
日本人ってやっぱり「具体」にしか興味がないのかな、というか。理想すら具体的というか。
これも地理と風土からくる宗教観とかと関係ありそう。

これは、私が今まで見たり読んだりしてきたもので、なんとなく「そういう感じがする」という感想なので、これからもうちょっと意識的に比較対照できたらと思います。
ふだんの自分の領域とかけ離れた本を読むのはおもしろいですね。

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