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簿記会計の世界のミクロからマクロまで

大学4年の秋、入社予定の会社から、内定者向けに簿記の通信教育の教材が届き始めた。開封して眺めてみたが、腰を据えて取り組む気にはまったくなれなかった。卒論でお尻に火がついていたし、そもそも数字の羅列に拒否反応を覚えるたちである。通信課題は一度も提出せず。2月に受験させられた日商簿記3級は当然不合格だった。

そんなこんなで文学部を卒業した私が、入社半年後に経理部に配属された。なんでも、社内の帳簿をとりまとめ、監査法人とやりとりし、会計報告や税務申告をするところらしい。簿記のテキストに1ミリたりとも萌えなかった私が経理? 配属初日、部長に挨拶をすると「早くマクロをつかめるようになってね」と言われた。まず、マクロの意味がよくわからない。

一方、直属の先輩は「サーバーが落ちパソコンが破壊されても決算を完遂」「経理は体力勝負」がポリシーで、彼から指示された最初の仕事は会計伝票のチェックだった。

前日に出力された伝票にミスがないか、全社分に目を通す。5%(当時)のはずの消費税が50%の額で打ち込まれていたり、左右(借方と貸方)が逆になっていたりなど、ミスを発見すると当該部署で入力した人のところにいって修正を頼む。明らかにミクロからのアプローチだなと私にもわかった。

まさに経理のイメージ通りに地味な作業で心楽しいものではなかったが、実際の取引にもとづく伝票に大量に触れ、小さなミスをあげつらって(いるわけではないのだが、そう思われがちなのが経理部である‥‥)当該部署の人と話すうち、簿記のイロハ、および会社の各部署で行われている業務がつかめてきた。のみならず、気づけばこの私が複式簿記に魅了されていたのだから驚きだ。

お小遣い帳なら収入と支出の動きだけを追うが、複式簿記ではひとつの取引に二つの要素を見出して記録する。入金があれば左側(借方)に現金勘定を、右側(貸方)には入金の理由となる勘定を立てるため、商品が売れた(売上の発生)、社用車を売った(資産の減少)、新たな借入(負債の増加)など、要素ごとの増減も可視化できる。これを集計して貸借対照表や損益計算書を作成することで、経理の状況を細かく正確に把握できるのだ。

複式簿記の発明は古く、14世紀のイタリアではすでに現代にほぼ近い手法が完成されていたという。ひとつの取引に必ず二面性があり、二面性はあるがひとつの取引なので必ず左右(貸借)の額は一致する。その積み重ねで損益が出る。不思議でもあり、とても平仄が合うようにも感じられた。

日々の取引にかかわる伝票や帳簿を扱うのと並行して、時期がくると決算業務が始まる。決算は経理の大仕事のひとつだ。こちらもミクロなパーツから徐々に領域を広げていくこと数年、ようやく全体像が見えてきた。子会社を含めた連結決算までの手続きをつかみ、他社の財務書類を見ている自分に気づいたとき、いつのまにか背に軽くて美しい羽根が生えていた気がした。

決算書は、すべての取引が正確に、また継続的に記録されているという前提で作成され、一言に決算書といっても、実はいくつかの種類がある。たとえば、いわゆる財務諸表は、投資家や債権者などステークホルダーのための会計報告。当社は上場会社なので100ぺージ以上にわたる詳細な財務情報の開示が義務付けられていた。一方、法人税、法人事業税など各種の税金を算出し納税するため、国税局や税務署に提出する決算書もある。

もちろん、漠然と取引を積み重ね記録して、なし崩しに決算書を作るのではない。まともな会社ならビジョンと数値目標が先にあり、それを実現するための計画に基づいて業務がなされる。

とはいえ、社員の能力やモチベーション、マネジメント、資金繰り、投資判断、ライバル会社や業界の動向、景気や社会環境など、会社経営は荒海を果てしなく泳ぎ続けるようなもの。「決算書の数字」も波との格闘のひとつだ。

十年近く自社の決算業務に携わったが、毎回、引当金や時価評価の見積もり額の算出にはかなりの時間を要した。業態上、多額の金融債権や不動産を持つため、貸倒引当金や時価評価の額が損益を大きく左右する。会社の恣意的な計上にならないよう、企業会計規則などによってきちんとルールが設けられており、監査法人がもっとも厳しくチェックする箇所だった。

かつての自社の名誉にかけて言うが、会社はズルを目論むわけではない。経営者なら、ルールの範囲内でもっとも自社に資するシナリオを考えるということだ。そのシナリオが青天白日のもとに認められるか、短期的な詭弁になっていないかなど、経営者と経理の責任者が討論して社内の統一見解を作り、次はその見解について監査法人と討論することになる。決算とは粛々と数字を拾い四則計算するだけではなく、せめぎ合いながら最適解を求める部分があるのだと知った。

また、上場会社の会計報告では、決算書に表示されない、いわゆるオフバランスな事項について注記するルールがある。たとえば期末日時点での買付予約や債務保証の金額だ。ステークホルダーにとって会社の評価を左右するからだが、私はこのルールのおかげで「オフバランス」への意識を高めた。あと一歩で成約に至らなかった交渉、社員の教育やメンタルケアなどなど、会社には帳簿に載らない業務が山ほどある。膨大かつ微細な会計ルールのもとで業務を行う中でそれだけを自明化し、ルールの外側の存在に鈍感になってはいけないのだと思った。

先述の通り、中世のイタリアでは簿記会計の技術の骨子がほぼ完成されていた。しかし、キリスト教の規範では富の追求を罪とするため、帳簿づけに熱心な商人は蔑まれる風潮もあった。会計の入門書の売れ行きは悪く、レイメルスワーレなどの画家は両替商や収税人を風刺する絵を残している。

利益の最大化が正義とされる21世紀の企業活動の中でも、直接利益を生み出す営業や生産部門に比べ、煩雑な計算や会計ルールの解釈に明け暮れる経理の仕事は敬遠されがちだ。

しかし、一見ややこしいだけ、しかも年々増え続ける会計ルールも、フェアで実効性ある企業評価のために作られてきたもので、世界中の企業が同じ土俵に立っている。時代に合わなくなった部分や、逆に不足のある部分は、今後もアップデートされていくだろう。

何より、経理の状況の正確な把握なくして健全な経営はできない。そして、決算書とは空疎な机上の数字ではなく、各部門で人々が働き、顧客や取引先とかかわり、あらゆる状況やルールを勘案する、そのすべてが有機的に結びついたものなのだ。

出産時に会社を辞めて十年経つが、簿記3級でつまづいていた私が、想像もしない角度から世界に触れた経験は、今も自分の中に息づいている。

長い年月をかけて作り上げられ、実社会で機能するひとつの体系の強靭さ。それを、一枚一枚の伝票というミクロから愚直に体得して、マクロまでたどりついたこと。何につけてもコスパ重視の現代だが、五分で学べる世界の真実などないと私は思う。だから1ページずつ本を読み、一歩ずつ街を走る。

SNS時代になり、発信もとかくフローになりがちだが、私が意識するのはストックだ。新しい仕事、子育ての日々。どんな分野でも、やがて過去になる現在を記録として積み重ねることが、未来の自分に力を与えてくれるのだ。


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