小説『背骨』


 薄い肌越しにも感じられる背骨の白さに、思わず小さく身震いをした。

 染みの一つも見つからない綺麗な肌は、隆起した背骨によって、故郷の街を取り囲む美しい山々を思い出させる。取り零さないよう慎重に、一つ一つその骨の連なりを辿っていく。眠っている彼を起こしてしまわぬよう、彼の背に触れるわたしの右手はその呼吸による動きと同じ速度を保っている。

 故郷を後にしてからもうじき四年が過ぎようとしていた。

 大学生というモラトリアムの期間が終われば、後に待つのは社会人としての生活だ。この四年間でーー特にその序盤で手に入れたはずだった、これからの人生を切り開くための多くの灯し火は、既にわたしの手から殆どすべて零れ落ちている。
 友人は数える程も残っておらず、ずっと続けてきたバイトも辞めてしまった。別に彼らの何が悪かったわけではない。

 ただ、わたしがそういう人間だったということに、人生二十二年目にしてようやく気がついたというだけだ。


 だが、それ自体は特段寂しいものではない。

 わたしの人生がそんな程度のものであることくらいはもう何年も前に気がついていた。その証拠にエミちゃんもマミちゃんも、別々の学校に進学したというだけで、いつの間にかわたしのことを忘れてしまっていた。
 それにしたってわたし自身に問題があるだなんて、まだその時には思ってはいなかったのだけれど。


 そんなわたしにとってこの背中は、唯一といっていい残された何かだった。

 わたしの四年間を総括するならば、彼であると言ってもいい。
 わたしは大学生活を彼のもとへたどり着くために費やした。それくらい今のわたしにとって彼はすべてだった。

 ただ問題は、その彼ですら、いま正にわたしの手から零れ落ちようとしていることだ。

 彼が初めてその背をわたしに向けて眠ったのは、果たしていつのことだったか。あれ以来彼は、一度もわたしの方を向いて眠ってくれていない。

 背骨をなぞっていると、皮膚の温かさに涙が滲むのと同時に、どうしても硬い骨のイメージが浮かぶ。
 骨は皮膚を被っていないと酷く冷たくて、わたしがいくら触れていたって温まってはくれない。それでいて一つ握りしめると、途端にバラバラと崩れていってしまう。
 骨は人のうちにあって初めて、その形を保てるということなのだろう。

 薄青い月の光に包まれた彼の身体をなぞるうちに、いつしか彼とわたしの境目がうやむやになって、背骨のこの隆起した一つ一つの瘤のように等しいものになってしまえたらいいのに。

 わたしがそんなことを願うのは、いつだってこういう夜と月の光とがないまぜになった夜だ。
 昼間は空と太陽が確かに別々に存在していて、だからこそ空よりももっとずっと太陽から遠い地面には、くっきりとわたし達の影が刻まれる。でも夜は、影だって地面と殆ど区別がつかない。
 だからきっと、こんな夜には彼と一緒になりたいだなんて思ってしまうのだろう。


 月の光と同じくらい白い背中は、つい二時間前にわたしが手を回して強く引き寄せた時には熱いくらいだったくせに、もうその熱を失っている。

 真っ白な背中はただ真ん中を一本貫く背骨によってだけ、淡い影を写し出していた。
 その顔に表情はなく、背骨による隆起もあくまで規則的だ。

「あ、る、こう。あ、る、こう。わたしは、元気……」

 小声で幼い頃によく聴いていた歌を口ずさみながら、人差し指と中指を足に見立てて、彼の背骨の隆起を歩かせる。
 二本の指による散歩は、その曲をほんの一、二フレーズ歌う間に終わってしまった。

 首の手前で歩みを止めて、静かに肩にその手をやる。骨のあたりよりもほんの少しだけれど暖かい。
 月の光はどこまでも冷たそうに見えるくせに、その光に照らされた彼の身体はきちんと温かいのがなんとも言えない不思議さをわたしに感じさせた。

「捕まえた」

 いつから起きていたのか、彼の左手が彼の肩に置かれたわたしの右手を掴んでいる。振り返った彼は、わたしの身体を蛹のように包んでしまうと、また静かな寝息を立て始めた。




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