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カメラと写真に関する整理:事実、解釈、そして思い出(創作における下調べの有用性を踏まえて)


1.はじめに:本記事の目的


 今回は私が文藝賞の公募作執筆にあたって調べた内容の概略を書いていきたいと思います。
 目的としては自身の思考の整理です。

 今回初めて入念な(当社比)下調べを行った上で執筆を行っており、これが非常に良かった、これまでにない手応えを覚えた、と考えています。

 このため上記目的は別にして、
 下調べってしたほうが良いのかな? と悩んでいる方や、
 他の人がどう/どんな下調べをしているのか気になっている方
などには是非、本記事を読んでいただければと思います。
 もちろん、タイトルの通り、写真やカメラについて興味がある方も大歓迎です。

 今回は下記の資料を中心に、調べた内容の整理を行っていきます。
 実際に参照した資料は数十本ありますが、それらをすべて整理するとなると、領域が多岐にわたる他、
 やはり分量も膨大にならざるを得ないため、今回は注力する資料を限定した次第です。

 実際の下調べにおいてはキーワードの大枠をWikipediaで把握し、その後はそのキーワードに関する資料をひたすらGoogle scalarで広く浅く読む。
 これだ、というものを見つけ次第、深掘っていくという手段を取りました。


 こんなやり方もあるよ、という方がいらっしゃったら是非教えてください!


[参考文献]
1.ロラン・バルト『明るい部屋』
2.後藤範章『ビジュアル・メソッドと社会学的想像力』
3.武田潔『見ることの顕現―映画作品における写真の形象について』
4.Wikipedia「カメラ・オブスクラ」

各クリックまたはタッチすれば引用元にとべます。


※以下、字数削減のため敬語調を取りやめます。


2.「事実」を記録する媒体としての写真


 そもそも写真――それを生み出すカメラというものは、カメラ・オブスクラ/カメラ・ルシダというものがその原型だった。
 それぞれが暗い部屋/明るい部屋という日本語で表現されるこの装置は、現在のように光学的特徴を記録するようなものではなく、実在する光景を投影し、これをトレースすることで実際の光景に酷似した絵画を描くためのものだった。

 では現在のカメラ――写真はどうだろう。
 武田潔『見ることの顕現―映画作品における写真の形象について』では次のように書かれている。

 言表作用の次元では、写真は「かつてあった」(バルト)ことを核心とする、現実と過去の結合の確信として眺められ、(後略)

武田潔『見ることの顕現―映画作品における写真の形象について』

 私たちが写真を撮影するとき、そこに記録されるのは紛れもない過去の現実だ。
 トレースしたものには不完全さや不純物が紛れてしまう可能性があるが、
 カメラが写ったものをそのまま記録する以上、写された現実は純粋かつ正確な過去、
 武田に習うのであればその「確信」として捉えることができるだろう。

 このように純粋な現実を記録、より化学的に述べるのであれば、被写体の光学的特徴を記録したものが写真である以上、
 写真とは武田が指摘している通り、
 「パースが定義した『指標(インデックス)』、すなわち指向対象との物理的な隣接関係によって規定される記号にほかならない」ことになるのだろう。

 これらのことから武田がその著述において書いている通り、
 例えば映画では「写真は正確に事実を記録した証拠や資料として利用され」ることがある。
 このような事例を鑑みると、それほどまでに写真の「正確性」という性質が、写真の本質に迫ったものであるということを示しているだろう。

 だが果たして、記録されるのは現実だけだろうか。
 後藤範章『ビジュアル・メソッドと社会学的想像力』の中において、後藤は写真について次のように書いている。

 写真には写真家の意図しない要素までもが写り込み、「写真を撮るという操作は、自明な存在としての世界が行う自動筆記」となる(Baudrillard 1997:47)。

後藤範章『ビジュアル・メソッドと社会学的想像力』

 写真に写された、現実ではないものの卑近な例として「加工」というものがある。
 10年ほど前から流行しているスマートフォンアプリによる加工はもちろん、遡れば「プリント倶楽部」も加工の一種に入るだろうが、
 そこに写されるのはある種「美化」された現実であり、現実そのものではない

 現実をありのまま写すのではなく、「美化」して写すというのであれば、過去の画家が描いていた貴族たちの肖像画と類似する点はないだろうか。

 多くの人にとって最も身近な例として「加工」という例を取り出してみたが、先述の論文において後藤は写真の性質に次のような言葉を加えている。

 写真は、Walter Benjamin(1935−36=1995:619)が見て取ったように「無意識が織り込まれた空間」であり、人々は「既知の諸要素を目に見えるようにするだけでなく」、そこから「未知の要素」をも「発見」する。この意味で、肉眼の意識が捉えきれず、また文化的バイアスのもとで見逃してしまう微細なディテイルをも公平に記録する、「都市の無意識の標本断片」(西村1997:34)なのである。

後藤範章『ビジュアル・メソッドと社会学的想像力』

 つまり、写真は「既知の諸要素」=撮影者が認知している現実を写すだけのものではないということだ。

 厳密には意味が異なってくるが、例えばこれを読んでいる人の中にも、
 「鏡で見ている自分と写真に写った自分が違う」と感じたことがある人はいないだろうか。

 外側から、あるいは客観的に自分がどう見えているのか、ということを時に「写真」は露わにすることがある。
 また予期すらしていなかったこと(例えば撮影した写真に有名人が映り込むことなど)が顕在化することも時にはあるだろう。

※「文化的バイアス」についてはあえて卑近な例を使用した。厳密には上述の内容とは異なる意味が本旨であり、今回は分かりやすく内容を変更している。


 このように考えると、「写真」はあくまでも自己が認知している/していないにかかわらず「事実」を明らかにするものであり、
 これに対して「加工」は、例えば鏡でいつもみている自分のような、「自己が認知している世界」によって現実を世界に上書きするものであるといえよう。

 昨今、ディープフェイクという技術が登場した。今後は「写真」が「事実を明らかにする」ものであるとは言えなくなる可能性も高い。
 だが、2024年5月現在においても、多くの人々にとって「写真」は「事実を明らかにする」ものであり、「事実を記録する」ものであることは間違いないと言っていいだろう。



3.写真と解釈、そして感情


 ここまでは2本の論文をもとに「写真とは何か」を考えてきた。
 実は、このような「写真それ自体」を語る文章が登場したのが比較的最近であることはご存知だろうか。
 ロラン・バルトはその著書『明るい部屋』において、写真の技術や個別の写真について語った文章はあれど、「写真それ自体」について語られたものはなかったとしている。

 ではバルトにとっての「写真それ自体」とは、「写真」の本質とは何か。そもそも「写真それ自体」について語ることは可能なのか。
 バルトの回答は非常に単純に見える次のようなものである。「写真」の本質は「それは=かつて=あった」ということだ、と。

 これはすなわち、「過去、被写体がそこに確かに存在していたということ、それを否定することを否定する」ということを示している。
 『明るい部屋』では例えば以下のように記述されていた。

 絵画や言説における模倣とちがって、「写真」の場合は、事物がかつてそこにあったということを決して否定できない。そこには、現実のものでありかつ過去のものである、という切り離せない二重の措定がある。そしてこのような制約はただ「写真」にとってしか存在しないのだから、これを還元することによって、「写真」の本質そのもの、「写真」のノエマと見なさなければならない。

ロラン・バルト『明るい部屋』

 つまり、いま私が見ているものは、無限の彼方と主体(撮影者または観客との間に広がるその場所に、そこに見出された。それはかつてそこにあった、がしかし、ただちに引き離されてしまった。それは絶対に、異論の余地なく厳然していた、がしかし、すでによそに移され相異している。

ロラン・バルト『明るい部屋』


 『明るい部屋』という書籍において、バルトは「温室の写真」(バルトの母が幼少期の頃を写した写真)を引き合いに、「自分自身にとって写真とは何か」ということを語っていた。
 では、バルトにとっての「写真」とは、母が確かに存在していた、ということを示すもの。その思い出に浸るための道具だったのだろうか。

 我々の多くは頻繁に写真を撮る。写真を撮って見返さない人もいれば、時々、あるいは毎日のように見返すという人もいるだろう。
 見返したとき、我々はその写真を撮った当時のことを思い出す――当時の思い出に浸るのだろうか。

 バルトはこんなことも言っている。

 重要なのは、写真がある事実確認能力をもっているということであり、「写真」の事実確認性は対象そのものにかかわるのではなく、時間にかかわるということである。現象学的観点から見れば、「写真」においては、確実性を証明する能力が、表象=再現の能力を上まわっているのである。

ロラン・バルト『明るい部屋』

 「写真」には未来がないのだ(「写真」の悲壮さやメランコリーはここから来る)。

ロラン・バルト『明るい部屋』

 「写真」は停止しているので、その現示作用(現前化)は時間の流れを逆流して過去志向(過去把持)に変わってしまうのだ。 

ロラン・バルト『明るい部屋』

 「写真」は、本質的には決して思い出ではない(思い出を表す文法的表現は過去完了〔現在ともつながりをもつ過去〕であろうが、これに対して「写真」の時間は、むしろ不定過去〔現在とつながりをもたない絶対的な過去〕である)。それだけではなく、「写真」は思い出を妨害し、すぐに反=思い出となる。

ロラン・バルト『明るい部屋』

 端的に言えば、思い出ではない、ということだ。それは何故か。
 辞書で調べると、思い出とはそもそも「過去に自分が出会った事柄を思い出すこと。また、その事柄」と記載がある(コトバンクより)。

 であれば、写真は確かに「過去に自分が出会った事柄を思い出すこと」ではない
 写真は、我々が思い出そうと思い出さなかろうと既にそこに存在し、我々の行為が介入する隙がない。

 行為と時間の流れはワンセットだ。時間の流れを無視してある行為を行うことは誰にもできない。
 「『写真』は停止している」というのであれば、確かに写真は思い出ではないだろう。

 だが同時に、バルトが記載している文法的表現についてはどうだろう。
 現在とのつながりが思い出に必須なのだろうか? そもそも「写真」は本当に現在とつながりを持たない過去なのだろうか?

 この問いについては現在、次作の執筆のテーマと深い関連性を持っているため、次作の下調べの成果をまとめる際にも是非記載していきたい。
 現状の私の知識では手に余る内容であるからだ。
 上述の内容を踏まえ、思い出とは何か、また写真と現在の関連性とは? 公募作を執筆するにあたって、一旦はバルトの主張に従ったが、これは検討すべき内容であると考えている。

 さて、「写真」と思い出については記載の通りまずはバルトの主張に従うとして、では結局、バルトにとっての「写真」とは何なのか。
 本質が「それは=かつて=あった」ということであるということは分かった。
 また、ネット上によく流れているストゥディウムとプンクトゥムの話に終始することで考えるというのも手だ。

 だがあえて今回は、私自身が小説を書く中で感じたことも合わせて考えたい
 バルトにとって「写真」とはなんだったのか。「温室の写真」にはどんな意味があったのか。

 バルトは『明るい部屋』の中で、「『写真』はある種の基礎知識に近づくことを可能にする」と書いていた。
 この「基礎知識」とは、例えば既に何度も書いたように、被写体の「それは=かつて=あった」、すなわち存在の絶対的な肯定をなすことであり、
 また「『写真』の確実さは、まさにそうした解釈の停止のうちにある」とあるように、
 写真が被写体の姿を(少なくとも光学的には)そのまま写し出し、固定することを表しているだろう。

 そして私はこの「基礎知識」こそが、バルトが思うところの「写真」の大事な要素の1つであったのではないかと考える。

 それは、バルトが「温室の写真」を通じて何度も母の本質を見たことからも推察できる。
 本来的には「温室の写真」に写る母は、バルトが見たことのない母の姿だ(写っているのはバルトを産んで以降の母の姿ではない)。
 にもかかわらず、バルトはその写真を通じて「本質的な母」の姿を確かに見ている。

 一見すると「解釈の停止」に反するこの部分にこそ、私はバルトの考える「写真」の本質があると考える。
 以下はバルトが叙述した「温室の写真」に関する一節である。

 この「温室の写真」は、私にとって、(中略)。それは母の実体とも一致するし、また、母の死を悼む私の悲しみとも一致する。この一致について語るためには、形容詞を無限に連ねてゆくしかないであろう。そのようなことは割愛するが、しかしこの写真には、母の実体を構成するありとあらゆる属性が盛り込まれている、ということは確かだった。

ロラン・バルト『明るい部屋』

 「写真」が母の実体、母の死を悼むバルトの悲しみ、それらを含めた「母の実体を構成するありとあらゆる属性が盛り込まれたものである以上、
 「写真」とは「それは=かつて=あった」ということにとどまらず、鑑賞者側の視点を介した感情的なものであるといえよう。
 注意したいのは、そこに写ったものはあくまでも「それそのもの」であり、鑑賞者側が再解釈をし、自由に意味を変えてしまってよいものではないという点だ。

 バルトにとっての「写真」とは、かつてあったことを確かに記録し、それと同時に写されたものと縁の深いものがその鑑賞者となったとき、特別な意味を持つものなのだろう。



4.写真という装置


 改めて、ここまで整理してきた「写真」の性質を整理しつつ、今回の下調べが最終的にどのような経緯で深められていったか、
 またどのように作品に生かそうと考えたかを記載し、本記事を終えたい。

1)実在する光景を投影し、これをトレースすることで実際の光景に酷似した絵画を描くための装置が起源であった。
2)写真は「かつてあった」(バルト)ことを核心とする、現実と過去の結合の確信として眺められる。
3)写真は被写体との物理的な隣接関係によって規定される記号にほかならないという特性から、例えば映画では正確に事実を記録した証拠や資料として利用されることがある。
4)写された現実は「自明な存在としての世界」である。
5)写真は「既知の諸要素=撮影者が認知している現実」を写すだけのものではない。
6)写真はあくまでも自己が認知している/していないにかかわらず「事実」を明らかにするものである。
7)写真の自明性を脅かす技術として「加工」がある。
8)写真の本質は「それは=かつて=あった」である。
9)写真は思い出ではなく、また再解釈することはできない。
10)バルトにとっての写真は、事実の記録と縁深い被写体に対する感情の喚起という2つの効果を持つ。

整理:写真の性質


 私に限らず、多くの人はスマートフォンで写真を撮ったり、撮られたりするのではないかと思う。そしてその写真を時が経って改めて見るという経験は誰しもあるだろう。

 写真を見返すと「確かにこういうことがあった」とその時のことを思い出すことができる

 それは写真が持つ非常に優れた特性の1つで、他のメディア(事実を記録するという意味での動画は除き)にはなし得ないことだろう。
 これはまさに2)や4)、6)、8)が示していることである。

 例えば日記に写真で撮影した日のことを書いたとしても、そこには書いた「私」の意図や恣意がどうしても入ってしまい、
 誤解したまま、あるいは事実をねじ曲げて記録することが可能になってしまう。

 そうすると、ある人のこと、ある出来事を思い出そうとしたときに依拠する資料としては心許ないものと言わざるを得ないだろう。

 しかし、写真は違う。明確に事実だけを記録し、例え私が謝った記憶を醸成させて敷いていたとしても、その記憶を否定するかのように不変なままでい続ける
 もちろん、次に書くバルトの指摘の通り、そこに恣意性が全く介在しないというわけではない。

 なぜ、ほかのものを選ばずに、この対象を、この瞬間を選ぶ(写す)のか? 「写真」が分類しがたいのは、生起した写真のなかのある特定のものに、標識を与える根拠がまるでないからである。

ロラン・バルト『明るい部屋』

 このように、「なぜ選ぶ/選んだのか?」という点で恣意性は確かに存在する。
 しかし、写された物自体にはそのような恣意性はなく、ただ「それは=かつて=あった」ということを示すだけである。

 このように考えたとき、前作を執筆するにあたって重要であった「思い出す」という行為に対して、「写真」というのは正確性の担保のために非常に有効であった。

 そしてその「正確性」が有効であればあるほどに、その「正確性」をねじ曲げ、不可能なはずの「再解釈」に着手し、
 自分の過去はおろか、他者の人格や過去をねつ造する人物を描くことができるのではないかと考えた。
 これは7)の内容であり、また9)の性質を誤用させるやり方になる。

 「写真」は事実を思い出すための「装置」だ。「写真」の補助があって人は記憶を鮮明に思い出すことができる
 「写真」に写された事実(それは=かつて=あった)の意味を自分勝手に変えてしまえば、
 すなわち行為の順序を逆にして、思い出した(捏造した)記憶を写真に当てはめていけば、「写真」はあたかもアリバイのような効果を発揮する

 正確に「それは=かつて=あった」を証明する「写真」に写っているのだから間違いない、と。



5.おわりに:下調べと創作


 小説とは言葉という記号を用いた創作である。
 その特性の1つとして私は「どのメディアよりも人の心情、感情など、目に見えないものを直接的に表現すること」があると考えている。

 であればこそ、記憶を捏造し、その捏造した記憶を補強するためのアリバイとして写真は有用であると考えたのだ。
 そしてそのように考えたとき、これまでになされてきた写真とカメラに関する研究や歴史的事実が、
 写真とカメラをそのように用いることは可能であるということを証明してくれていた。

 そしてまた、写真をモチーフとして扱うのであれば他にどのような意味を与え得るのか、
 自分が想定していた以上の内容を私に気づかせてくれたのである。


 長くなってしまいましたが、ここで本記事は終わりたいと思います。
 写真、カメラとはどのようなものなのか。また下調べをすることによって創作物にどのような影響を与えるのか。
 少しでも興味深く思っていただけていれば幸いです。

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