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題名・構成か物語の筋か。着眼点により変化する主題〜一式さゆり『ピカソになれない私たち』を読んで〜


こんにちは。新生活に向けた引越しを始めとする作業も段々と落ち着いてきたので、久々に書評を書いてみようかと思います。
今回読んだ作品は2020年3月5日発売、一色さゆりさんの『ピカソになれない私たち』(幻冬舎)です。

「芸術なんて、人を不幸にするだけじゃん。」
芸術家を目指す?  就活する?  そもそも“才能”って何だ?

作品を買った理由は上に書いた帯のこのような言葉!

日頃から僕は「才能ってなんなんだろう?」「僕には才能があるのかな?」なんてことを考えて、「天才ってカッコいい」と思っていましたので正に!  といった作品です。
書評をするにあたって、テーマを含めた色々を詳細に分析して書くのも面白いとは思いますが、今回は発売からひと月も経っていないことも鑑みて、フレッシュな初読の感想を書いていきたいと思います。
そしてそんな中でも特に物語の「筋」と「構成」の2つに特に焦点を当てた感想をお話しさせていただこうと思います!


1.接続する物語世界と現実

まずはあらすじを確認していきましょう。帯に記載されていたものを今回はそのまま、拝借しようと思います。

美大生は、究極のハイリスク・ノーリターン?
選ばれし者だけが集まる、国内唯一の国立美術大学・東京美術大学油画科。スパルタで知られる森本ゼミに属する聖音・詩乃・太郎・和美の4人は、画家としての「才能」や自身の将来に不安を感じながらも、切磋琢磨していた。そんなとき、ゼミに伝わる過去のアトリエ放火事件の噂を聞きーー。
不条理で残酷な「芸術」の世界に翻弄されながらも懸命にキャンバスに向かう、美大生のリアルを描いた青春小説。

上の文章からも分かるように、『ピカソに〜〜』は美大生の物語。更に言えばズバリ、東京藝術大学を舞台とした物語です。

僕は友人の藝大生と一緒に何度か藝大の講義に出席したことがありますが、作中の描写には藝大の中に入ったことがある人ならば、「あそこだ!」と何だか物語世界と自身の世界が接続したような感動を覚えます。

作者の一色さんは東京藝術大学美術学部芸術学科を卒業されているということで、そのようなことも背景にあるのでしょうね。
またやはり、作家さん本人がそういったことに精通しているためか、作品内では何人もの芸術家の名前が登場したりもします。

また、クリエイティブに関わる人ならば思わず「そうなんだよな」と唸ってしまう、悔しいけれど身に覚えのある負の感情が生々しく描かれており、そんなところも今作の面白さの1つだと言えるでしょう。


2.結局天才には勝てないんだ。

さて、今作の一つ大事なテーマは、帯にもあった「才能」です。
このことは分かりやすく物語と冒頭、結びに現れていて、冒頭では才能とは何かを問い続ける存在としての詩乃に焦点が当てられており、対照的に結びでは周囲から天才であると言われる聖音に焦点が当てられています。

冒頭で物語全体を通しての問いを示し、結びでその答えを得た人の姿を描く。実はP189で聖音は才能とは何なのか、という帯にある問いかけへの答えを出しています。

才能という、実体のない言葉が聖音にはずっと苦手だった。(P189)

このように才能が苦手な聖音が出した答えは、実は聖音の内面に初めて焦点が当てられた時から「お守りとしてその日の気分で選んだ色の絵具をいつもポケットに入れてい」るという言葉に写し出されています。

一見するとただ彼女が絵を描くことが大好きであることを示すだけの文章が、物語のテーマそのものに通じている。
このこと以外にも作品の構成を始めとした多くの仕掛けは見事に、また美しく組み立てられており、例えば作品の題名です。

『ピカソになれない私たち』は基本的に「私たち」という言葉が聖音・詩乃・太郎・和美の4人を示しているのだろうと考えるのが自然です。
でもここで、一つの疑問が浮かび上がります。

何で題名は『ピカソになれない4人』でなければ、『ピカソになれない彼女たち』でもないのか。

つまり、この題名は実はある一人の人物の口から放たれた言葉であるんじゃないか。
4人の主要登場人物は基本的に、それぞれの内面を行き来しながらお互いがお互いのことをどのように評価しているのかを描いていくその筋の都合上、対等な関係であるかのように描かれています。

しかし、段々と物語は聖音に焦点を絞った形に変化していく。まるで、
才能のある人間が人生の主人公なんじゃない。才能がなくても、皆んなそれぞれの人生の主人公なんだ。
とでも語るかのように表面上進行していく物語は、実は聖音への過度な焦点化、そして題名の「私」という言葉の存在によって、その考えを打ち消してくるのです。
また先に述べた「お守り」は物語を進行させる上でもキーアイテムとなっている他、他の3人と比べて明らかに、聖音には彼女を助けようとする物語的圧力がかかっています

じゃあ結局「私たち」の「私」って誰なのか。
それはきっと、聖音と対極の位置に存在し、また彼女の敵としてその役目を与えられた詩乃にこそ相応しいのだと考えます。

そしてそのことは、表層的に描かれた「才能」のある種童話的な優しいメッセージとは裏腹に、物語に暗い影を落とします。


3.反転する作者のメッセージ

前項目において僕は、「才能」を手にした人物には凡人では太刀打ちできないといった章題を付けました。確かに題名や物語の構成を考えた時、結局『ピカソに〜〜』の主人公が聖音1人になってしまうように、才能のある人物が中心となってしまうことは間違いありません。

しかしここでまた、一色さんが物語に込めた優しい装置が作動します。
例えば僕が聖音とは対極の存在であると考えた詩乃。彼女は作中ずっと、「自分の絵」が描けないことに苦しみ、その苦しみのために遂には聖音の描いた絵に火を放とうとするまで悩みます。

だけど最終的に、彼女は友人の和美の言葉によって「自分の絵」を発見することができますし、和美にしても太郎にしても、それぞれに自らの悩みと戦い、そして答えを得ています。
だからそういう筋の部分に着目して『ピカソに〜〜』を考えた時、この作品は間違いなく4人が4人とも対等に主人公の、「才能」なんて関係ない、という物語になるんです。

物語の筋に着目するか。或いは小説というコンテンツに可能なギミック、全体の構成を俯瞰することに注力するか。
自身の選択によって物語の様相が180°変化するという点で、『ピカソに〜〜』はある種の努力(小説を読み込むこと)を読者に求めてきます。

そう考えると『ピカソに〜〜』は「努力を求める」という一点で、やっぱり「才能」という実体のないものを否定する物語なのかもしれません。


4.終わりに

最後までお付き合いいただき、まずはありがとうございました!
『ピカソになれない私たち』の面白さが、少しでも伝えられていたら幸いです。

今回は冒頭にも書いたように「構成」と「筋」の2つの観点から作品を考えてみました。また、題名から何を考えるのか、ということについても書くことができ、僕の大好きな読み方がたくさん試せる素敵な作品だったと感じております。
小説に限らず漫画でもアニメでも映画でも、そのコンテンツを選んだことに、作者には何か拘りがあると考えています。

詩乃が悩んでいた「自分の絵」についての問題と同じように、あらゆるコンテンツには「そのコンテンツの表現」があると考えているからです。
今回の記事で、「小説の表現」が少しでも伝えられていたら楽しいなあと考えつつ、個人的には自身も小説を書く身として、創作をする人々の苦悩。それぞれの悩みが、小説家としての僕の背中を優しく押してくれたようにもかんじていることも付け加えさせてください。

もういくつ寝ると社会人!
社会に羽ばたいてからも小説や感想をこうして公開していきますので、今後とも是非宜しくお願いします!  宜しければTwitterフォローなども!

それではまた🙌



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