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短編小説『あの日々を僕は忘れてしまった』⑺



 街を歩きながら水色の棒アイスを頬張る少女の姿が目に映った。

 母親と手を繋いだ少女はアイスを食べることに必死になっているが、母親の手を掴んでいることに安心しているのだろう。
 視線が棒アイスにだけ向いているというのに、思うほど足取りが不安定ではない。

 水色のアイスが夏の暑さにやられて一雫、灼熱の地面へと落ちていった。

 少女が悲痛な叫びをあげるが、しかし落ちてしまったアイスはもう食べられない。少女は泣きそうな表情になりながら、それでもアイスを食べ続けていた。

 母親が優しく微笑み「だからお家に帰ってからにしようって言ったでしょ」と言ったのが聞こえる。
 少女を間にして向かい合う形となった僕と少女の母親。母親が訝しむような視線を僕にちらと向けるのが分かった。

 僕は無意識のうちに、ずっと彼女たちのことを見つめていたらしい。

 吸っていた煙草の残りを煙草屋の外に設置された灰皿に押しつけると、僕はなるべく彼女たちの方を見ないようにしてその場を後にする。

 あの日、コハルと一夜を過ごしてからやはり小説を書くことがそれまでよりも一層、困難になっていた。

 そればかりか最近ではこうして、家族とか親子みたいなものを見かけるたびに放心してしまう。我ながらおかしかった。
 僕は、過去を思い出すことができないくせに過去に執着しているのだ。

 存在していない過去に執着するだなんて、よっぽど僕は幸福だったのかもしれないと自嘲の笑みが溢れる。

 コハルはあれから何度も家にやって来ている。
 彼女は来るたびに僕に「わたしのこと、書く気になった?」と尋ねてくるが、生憎と僕にはもう書く気が起きると起きないとに関わらず、彼女のことを小説にすることはできそうになかった。

 小説を書くことで何とか保たれていた僕の世界が、今や煙草とお酒、それにセックスで保たれるようになった。
 そのことで小説が書けないというのならもしかすると、僕の小説を書くことへの動機は現実からの逃避にあったのだろうか。

 書けなくても結局小説家として生きている僕は、書けていた頃の名残で散歩をしていた。
 小説家として活動を始めて以来、原稿に詰まったら散歩に出ていた。

 住んでいる街をゆったり歩いて目についたカフェに入ってもいいし、電車に乗ってどこか知らない街に行ってもいい。
 ただいつも紙とペンだけは持っていって、物語が生まれた瞬間にその場所でメモをする。

 その繰り返しで僕はいつも、小説を書いていたのだ。

 自らの中に過去への執着が強く存在していることを認めざるを得ないのだが、最近の僕は気づけば学校や幼稚園のある場所へと足が向いていた。
 いつもその近くを通って、遊び回ったり体育の授業に取り組む生徒たちの声を聞く。それだけで僕はなんだか温かい気持ちになれるのだった。

 散歩から帰宅すると、家の扉に鍵がかかっていなかった。

 よく訪ねてくるものだからと最近コハルに合鍵を渡していたことを思い出す。
 部屋に入ると狭い空間がクーラーで程よく冷やされていて、その中心にコハルがちょこんと座っていた。

 美しい見た目の反面、彼女には大分幼いところがある。
 例えばそれは、何かに熱中したかと思っていたら数日でやめてしまったり、食べたいものや飲みたいものがないとすぐに不機嫌になるといったような、そういうところに現れていた。

 今日は、彼女は真剣な面持ちで絵を描いているようである。

「おかえり」

「……ただいま」

 おかえり、なんて言われたのは高校生の頃以来だったので、少々驚く。
 彼女はしかしそんな僕の様子には気がついた様子もなく、すぐにまた絵に集中し始めた。

「何の絵?」

 聞くとコハルはモナリザのような微笑みを浮かべて、僕を指差した。

「あなたの。わたし、小説は書けないけれど、何か記憶に残るものが欲しくって。
 どうせわたしがいつかあなたの小説になって、捨てられてしまうとしても……小説家と一緒に暮らす日々なんて、すごく貴重だもの。思い出に何かとっておきたくって」

「そう、それじゃあ、僕のスランプがせいぜい長引くようにでも祈ってて」

 こういう時のコハルは饒舌だった。

 だから僕はこれ以上その話題に付き合わなくても済むように、荷物を床に投げ捨てるとすぐにパソコンを起動した。無論、何時間パソコンの前で画面を睨んでいようと、物語が編めるようになるわけではない。
 しかしこういうポーズはそれがあからさまであればあるほど、コハルには効果覿面であった。

「コユキちゃんのモデルってどんな子だったの?」

 横目で見ると、コハルは絵を描き続けている。
 執筆のためにパソコンの前に座りながら話しかけられるのは初めてのことだった。

「さあ、覚えていないよ。ただ、それが自分の人生に起きた出来事だと錯覚するくらいには、思い入れのあった人なのかもね」

「それじゃあ、今でもコユキちゃんのことが好き?」

「コユキは僕の小説に登場するキャラクターだよ」

「でも、もともとはあなたの現実に生きていたかもしれない人なんでしょう?」

 コハルは絵が完成したのか、それを両手で顔の高さまで持ち上げて見ている。A3サイズだろうか。机にあったときに思ったよりも大きい絵が、昼の光で透けている。
 描かれているのは多分、執筆中の僕の姿だった。

「驚いた。よく描けたね。僕、君が来てから一度もまともに書けてないのに」

 これは君の目に見える僕の姿なの?
 と聞きたかったけれど、あまりにみっともないことだと気がついて言葉を飲み込む。

「そう?」

「そう、って、そうだろう?」

「うん……」

 コハルは完成した絵を再び机の上に置くと、胡座をかいて腕を組み、考え始めた。

 美しい、ということはそれだけで武器であって、そのようなポージングでさえ彼女には似合っていた。

 そして彼女のその姿が似合っていれば似合っているだけ、彼女の描いた小説を執筆している僕の姿が滑稽に映った。
 もし今、この部屋が誰かに覗かれているとしたら、コハルと本物の僕の対比に同じことを思うに違いない。

「煙草、吸いましょう」

 彼女は立ち上がると、煙草の火を点けながらよく見もしないで手を伸ばすと、器用に換気扇のスイッチをつけた。狭い冷えた部屋に、彼女の煙草の匂いが満ちていく。
 僕も机から離れると彼女に習って煙草の火を点けた。

 換気扇のすぐ側に2人で立っているから、今更だけれど彼女との距離が酷く近い。夜に見る彼女も美しかったが、昼間に間近で見る彼女はとにかく輝かしかった。

「そんなに見つめないで」

 彼女が微笑む。
 美しくそして輝かしい彼女に魅力を感じていないといったら嘘になってしまうけれど、それでもいまだに、彼女と交際したいだとか、そういう支配欲のようなものが一切湧き出てこないことが我ながら不思議であった。

「ねえ、ご飯作ってあげようか」

 彼女が口を開いた。
 その瞳に浮かぶ光からは、僕を揶揄うような色はなければ、僕の領域を犯そうとする侵略者然とした様子も見られない。

 キッチンという神聖な場所を崇める僕の普段であれば考えられないことだったけれど、その瞳にやられて反射的に頷いていた。

 コハルが笑う。

 それじゃあ、と言って、彼女は冷蔵庫から適当な食材を取り出すと、煙草を吸ったまま調理に取りかかった。
 程なくして僕の煙草が吸い終わる。折角だから、見ていよう。そんな気持ちがふと起こったので、僕は2本目の煙草に火を点けた。ジリジリ、と煙草の燃える音が鳴る。

 いつの間にか彼女は、もうずっと置きっ放しで異臭を放ち始めていた味噌汁を捨ててしまっていた。
 慌てて灰皿を、食器棚の上の埃をかぶったあたりから引っ張り出す。そこに2本目の煙草を捨てる。とって返す手で3本目に火を点けた。

 彼女は切った食材をフライパンで炒めている。それからいつの間に茹でていたのか、パスタを取り出した。作っているのはナポリタンだった。
 小さい頃、そういえば僕はパスタといえばナポリタンしか食べていなかったような気がする。

「召し上がれ」

 5本目が吸い終わる頃には、彼女の料理は完成していた。
 冷蔵庫にあったサニーレタスと玉ねぎで、簡易的なサラダまで作ってある。

 誰かの手料理を食べることがあまりにも久しぶりのことだったので、僕は「いただきます」と言う自分の声が震えていることに気がついた。

 コハルはそれに気がついているのかいないのか、ただ微笑んで僕を見つめている。彼女の方はまだ食べる気配が見られなかった。

「……美味しい」

「そ、よかった」

 嬉しそうな表情の反面、僕の言葉にコハルはそう素っ気なく返しただけだった。



(続く)



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