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村上春樹がSEX以外に考えていそうなこと。


こんばんは。
今回はタイトルで惹かれた方も多いのではないでしょうか?


本日はTwitterで見かけた「村上春樹の小説を読んだ女子高生が成人男性がっこんなにSEXのことしか考えていないのかと恐怖を覚えた」というtweetを受けまして、村上春樹作品の楽しみ方を書いていきたいと思います。

皆さんもそうかもしれませんが、僕の周りにも実は「ハルキスト」と呼ばれるような人が何人かいます。
正直に言えば僕は、村上春樹作品の(特に中長編の)面白味というものを言語化する術を持っていませんでした。
そこで友人のハルキストに「何が面白いの?」と聞いてみたことがあります。
答えはこうでした。

「分からないけれど、いつの間にか読まされているし面白い」

いや、いや、ふざけるなと。
お前ちょっと文學っぽさ演出したいだけじゃねえの???
そう疑いたくなってしまいます(面白いなら面白いで問題はないんですけれども)。

村上春樹さんとは面と向かって会話したことがあります
その時の印象を一言で言って仕舞えば、カキフライ好きのおじさん、と言った感じでした。

そんな人の書いた作品がどうしてこんなに売れているんだ?
ハルキスト、なんて言葉が生まれるくらい、どうして多くの熱狂的ファンがいるんだ?
そして何より、どうして件の女子高生は村上春樹作品を通して男性の性欲の強さに恐怖を覚えることになったんだ?

本日はこれらの疑問を、7月18日発売、6年ぶりの短編集『一人称短数』の第1作目と目される「石のまくらに」(『文學界』2018年7月号掲載)を題材に、語っていきたいと思います!!


女子高生が彼の作品から「SEX」という要素しか抽出できなかったことを鑑みて、今回は一切の文学史や村上春樹さん本人のことについての調査をしません
誰が読んでも楽しめる方法、それを念頭に考えていきたいと思います!
つまりあくまで書かれていること、即ちテクストのみを元に、村上春樹作品の面白さを分析していこうと思います!




1.ここで語ろうとしているのは、2つの感情のあいだにある多くの事象についてだ。


それでは順当に物語の始まりから考えていきましょう。
まずは下の画像をご覧ください。

画像1


こちらは『文學界』から「石のまくらに」の冒頭を抜き出したものに、僕がコメントを加えたものです。
ここでは記載の通り「一人の女性」の話をしたかと思うと語り手である「僕」のことに移り、そうしてそれらが「それでもやはり」という言葉で接続しています。

正直2018年にこの作品をなんとなーく読んでいた時には、特に疑問を覚えたりはしませんでした。
しかしここ、よくよく考えたらおかしいですよね。

「それでもやはり」という言葉は、水色の四角形で囲まれたことによって本来であれば「一人の女性」について語ることが難しいことを示しています。
あるいは水色の四角形内最後の文章「僕をひどく落ち着かない、無力な気持ちにさせた」から語りたくないのか。

どちらにせよどうして「僕」が「喜びと悲しみのあいだにある多くの事象」と「その互いの位置関係」が分からないこと、ないしはそれによって「無力な気持ち」になったことが、「僕」が過去に関わった「一人の女性」を語ることを困難にしているのでしょうか?



実はここに、村上春樹さんがSEX以外に考えていそうなことの大ヒントが隠されているのです!

そもそも物語の冒頭というものは、これから語られる物語の説明を行う場所でもあります。
その証として第1文は画像を見ていただくと分かる通り、「ここで語ろうとしているのは、」と丁寧に説明してくださっています。

そして女性を語る上で、上記の水色の四角形に囲まれた部分が問題となってくる……。
となれば答えは1つです。

村上春樹さんが今作「石のまくらに」で考えていることはこの「一人の女性」を契機として生じる、過去の「僕」には分からなかった「喜びと悲しみのあいだにある多くの事象」と「その互いの位置関係」についてなのです。




2.彼のつくる小説のほとんどは、男女のSEXに関わるものであった。まるで彼自身とSEXが、互いとの分離・分断を断固として拒むものたちであることを示すかのように。


さてさて、驚いたことにもう村上春樹さんがSEX以外に考えていそうなことが判明してしまいました。
あまりのスピードぶりには作品を書いた御本人もビックリしているかもしれません。

画像2

(画像は新潮社公式サイトより)

そもそもこんなにキメ顔で公式サイトに自身の写真を掲載している方が、そんなにSEXのことなんて書くわけがありません。
「石のまくらに」だってきっと大真面目で「これぞ文學!!」というような作品に決まっている……。


なんてことはなく、件の女子高生が語るように、すぐに彼の本性が明らかとなります。
以下は「石のまくらに」でいうと2ページ目の文章です。

「ねぇ、いっちゃうときに、ひょっとしてほかの男の人の名前を呼んじゃうかもしれないけど、それはかまわない?」
(『文學界』2018年7月号P11より引用)

とりあえず記念の第1SEXです。
そしてこの言葉は、次の次のページにもそっくりそのまま登場します。
2度も登場するということはそれだけこの文章が重要であることを示しているのでしょう。

それはつまり、語り手である「僕」が語ろうとしている「一人の女性」には好きな人がいるということ。
このことは物語中で実際にそう語られます。
彼女には「すごく、すごく好き」で「いつも頭から離れない」男性がいるのです。

物語の設定上19歳の少年である「僕」が20代半ばでそれも「いつも頭から離れない」くらい好きな男性のいる「一人の女性」と身体を重ねる……。
どうにも不穏な気配が漂ってきました。
物語ではここから確かに、SEXの描写が始まります。

村上春樹さんはやっぱり、SEXのことばかり考えているのでしょうか?

一度、物語の進行を確認してみましょう。

「石のまくらに」は先ほど画像で示した文章で始まった後、「一人の女性」が短歌をつくっていることに触れています。
そうしてその短歌が実際に2首詠まれ、そうして件の2度登場する台詞が書かれている。
そこでは「僕」と「一人の女性」のやりとりが示された後、2人がSEXに至るまでの過程が描かれることになる。
明らかとなるのは、「僕」と「一人の女性」は職場こそ一緒だったものの、それまで「まとまった会話を交わす機会」が「ほとんどなかった」ということです。

そんな2人が彼女の退職をきっかけに、身体を重ねることになる。
身体を重ねたのも実は「一人の女性」「一人で小金井まで電車に乗っていたくなかった」というだけの理由でした。


さて、僕は冒頭で「テクストのみを元に、村上春樹作品の面白さを分析していこうと思います!」と書きました。
が、ここで1つだけある単語を調べてみたいと思います。

何故そんなことが必要なのか。
テクストのみ、即ち作品単体で楽しめる方法を紹介するという話だったじゃないか!

そう思われる方もいらっしゃるかもしれません。
しかし実は、今から調べることはその作品の一部なのです。
つまり、僕がここで調べたいのは「石のまくら」という作品のタイトルが示す意味

聞き慣れない「石のまくら」とは一体何なのかということを調べていきましょう。

と、その前に。どうして「一人の女性」は短歌をつくっているとわざわざ書かれているのでしょうか。
天下の村上春樹さんがよもや意味もなくそんな設定を組み込むとも思えません。そこで、「一人の女性」のつくる短歌について語られた文章を引用してから、「石のまくら」の調査に移っていきたいと思います。

彼女について僕の知っていることーー彼女は短歌を作っており、一冊の歌集を出版していた。歌集といっても、印刷した髪を凧糸みたいなもので綴じて、簡単な表紙をつけただけのとてもシンプルな冊子で、自費出版とさえ言い難いものだ。でもそこに収められた単価のいくつかは、不思議なほど深く僕の心に残った。彼女のつくる短歌のほとんどは、男女の愛と、そして人のしに関するものだった。まるで愛と死が、互いとの分離・分断を断固として拒むものたちであることを示すかのように。
(『文学界』2018年7月号P11より引用)


「石のまくら」は短い作品です。
あまり引用ばかりしているとうっかり全文引用しちゃったなんてことも起こり得ますから、ここからは少しテンポを上げて書いていこうと思います。




3.石のまくら/に耳をあてて/聞こえるは/流される血の/音のなさ、なさ


「石のまくら」という言葉を調べてみると、次のような記載が見つかりました。

① 石造りの枕。また、石を枕にすること。重いこと、固いことなどのたとえにいう。
※古今六帖(976‐987頃)五「ひとりねの床にたまれる涙にはいしの枕も浮きぬべらなり」
※仮名草子・薄雪物語(1632)下「あまりつれなきも事により候。いしのまくらやかたく候」
② =いしまくら(石枕)③
※雑俳・柳多留‐三六(1807)「くゎんぜおん石の枕じゃ濡事師」
(コトバンクより)


「ひとりねの床にたまれる涙にはいしの枕も浮きぬべらなり」



この短歌は悲恋の歌でしょうか。誰もが楽しめる読み方を今回は紹介したいと考えていますので、敢えてこの短歌については詳細を調べることはしません

僕自身、まったくと言っていいほど短歌については知識がありませんが、読み解くに「1人で眠るあいだに寝床に溜まる涙の量には、たとえ石のまくらでも濡れてしまうよ」といった具合の意味でしょうか。

ここの解釈については僕は本当に短歌を知らないのであまり信用して欲しくはありません。
ですが、このように解釈すると「一人の女性」が好きな男にいいように利用されている「石のまくらに」の構図と近いものを感じられるように思います。


次に②に記載された「石枕」というものもみてみましょう。こちらはコトバンクのページにリンクが貼り付いていましたので、そちらを参照させていただきます。

死者の頭を支えるために用いられた石製の枕。モンゴルの青銅器文化にもみられる。日本では古墳時代の中期,後期に多く用いられている。滑石,安山岩,凝灰岩などでつくられ,石棺に作りつけのものと,単独のものとがある。単独のものは平石をくぼめた簡単なものから,馬蹄形にくりぬき,その周囲に2段,3段の刻み目をつけた,いわゆる立花などを挿したりっぱなものもある。作りつけのものは西日本に,単独のものは東日本に多い。
(コトバンクより)

「死者のあたまを支えるために用いられた石製の枕」


ビンゴです!
さて、皆さん覚えているでしょうか?
「石のまくらに」では次のような言葉が書かれています。曰く、

(前略)……でもそこに収められた単価のいくつかは、不思議なほど深く僕の心に残った。彼女のつくる短歌のほとんどは、男女の愛と、そして人のしに関するものだった。まるで愛と死が、互いとの分離・分断を断固として拒むものたちであることを示すかのように。
(『文学界』2018年7月号P11より引用)

はじめに書いたことに加えて、さらに見えてきました。
語り手「僕」が「一人の女性」について語る時、彼女の歌集とそこに収められた短歌の話が必ず登場します。

そしてここで書いた通り、「石のまくら=石枕」には「恋を歌った大昔の短歌」と「死者のための枕」という意味とがある
トドメに「一人の女性」が詠んだ歌をここで引用しましょう。

石のまくら/に耳をあてて/聞こえるは
流される血の/音のなさ、なさ
(『文学界』2018年7月号P11より引用)



どうやら「石のまくらに」はこの「一人の女性」にまつわる「愛と死」を描く物語であることが見えてきました。
果たして叶わぬ恋に身を燃やすこの「一人の女性」の恋は叶ったのでしょうか?  そして彼女は生きているのでしょうか?




4.僕らにはそのときちゃんとわかっていた。 再びSEXと顔を合わせずにこの本を閉じることはできないだろうということが。


語り手「僕」は「一人の女性」とSEXをした翌日に次のようなことを考えていました。

 僕らにはそのときちゃんとわかっていた。二人が顔を合わせることはもう二度とないだろうということが。彼女はただその夜、一人で小金井まで電車に乗っていたくなかったーーただそれだけのことなのだ。
(『文學界』2018年7月号P17より引用)

そう、確かに二人はこの後一度とて顔を合わせることはありませんでした(無論それは物語の範囲内での話であり、その先のことは知りませんが)。

「一人の女性」とわかれてから暫くして彼女の歌集を受け取った「僕」は、心の準備をしてからそれを読み始めます。
彼は「短歌についてはほとんど何も知らなかった」というように書いています。だから彼女の短歌が優れているかどうかなんてことは分からない。
そう記した上でそれでも彼は、次のように述べています。

(前略)……彼女のつくる短歌のいくつかはーー具体的に言えばそのうちの八首ほどはーー僕の心の奥に届く何かしらの要素を持ち合わせていた。
(『文學界』2018年7月号P19より引用)

物語では確かに「八首」の短歌が引用されています。
これが「僕」の「心の奥に届」いた短歌なのでしょう。

ここでまた、女子高生が恐怖を覚えるポイントが現れます。それは、彼が短歌を読むうちに「一人の女性」の裸体を脳裏に再現し始めること。

やっぱりお前、SEXかよ!! と突っ込む女子高生の声が聞こえてきそうです。

しかし決めつけるのは時期尚早。
そもそも彼には「一人の女性」との思い出が、SEXしかないのです。19歳の少年が20代半ばの「超然とした雰囲気が感じられ」る女性とSEXをして、そのことよりも翌日のご飯のことなど思い出すでしょうか?
つまりここで現れるSEXに近い裸体についての言及は、あくまで彼が「一人の女性」を思い出していることの証に過ぎません。


ということで少々フォローを入れつつ、いよいよ物語の最後に入ります。
あれから一度も会うことはなかった2人。いつしか語り手「僕」はこんなことを考えるようになります。

 あるいはもう彼女は生きていないかもしれない、そう考えることがある。彼女はどこかの地点で自らの命を絶ってしまったのではないかという気がしてならないのだ。
(『文學界』2018年7月号P21より引用)

「一人の女性」の死を予感しながらも、それでも彼女に生きていて欲しいと願う「僕」。
年老いた「僕」は最後に「言葉が残る」ということがどういうことかについて考え始めます。「一人の女性」のつくった短歌を「そらで暗唱できる」と語る「僕」が、です。

(前略)……辛抱強い言葉たちをこしらえて、あるいは見つけ出してあとに残すためには、人はときに自らの身を、自らの心を無条件に差し出さなくてはならない。そう、僕ら自身の首を、冬の月光が照らし出す冷ややかな石のまくらに載せなくてはならないのだ。
(『文學界』2018年7月号P22より引用)

また「石のまくらに」という言葉が出てきました。
「僕」は「一人の女性」がつくった短歌、即ち彼女のこしらえた「辛抱強い言葉たち」を記憶しています。
じゃあ彼女は、その「辛抱強い言葉たち」を残すために、どのように自らを差し出したのでしょう?

これこそが「石のまくらに」が語っていることです。
実は「僕」と「一人の女性」がSEXをしたのは「冬の月明かり」が「窓から差し込む」彼の部屋の布団の中でした。
布団には当然、枕があるでしょう。その枕もきっと、冬の月光に照らされていたに違いありません。

つまり彼女は、語り手である「僕」に自らの身を差し出し(=SEXをして)、自らの心を差し出す(=心中を語ったであろう歌集)ことによって、自らの「愛と死」についての言葉を残したのです。
だから「僕」は年老いてもなお、彼女のことを思い出してしまう。「石のまくらに」その首を差し出した彼女の言葉は、永劫に「僕」の中から消えることはないのです。


ここまで語れば文句はないでしょう。すべてを語るような野暮な真似はしたくありません。

村上春樹がSEX以外に考えていそうなこと。
それが語り手「僕」がたった一夜を共にしただけの「一人の女性」と、彼女が遺した短歌を覚えているということということで、留めておきます。




5.終わりに


既に6,500字も書いてしまいました。
長い文章にお付き合いいただきありがとうございます。

まとめると、作品を楽しむ上でポイントが幾つか考えられるだろうと思います。

⑴題名の意味
⑵始めと終わりに描かれていること
⑶語り手(ないしは主人公)の変化
⑷頻出する/特徴的なキーワード
⑸主要登場人物の特徴
⑹作中で対比されているものはないか

僅か6つ、基本的にこれだけに注目して読み進めた結果、今回のような楽しみ方ができました。
この6つについては他のどの作品にも応用が効くと思いますので是非是非試してみてください。



改めて読み直して、僕自身とてつもない感動に震えながら今この文章を書いています。誰かに紹介する意識を持って読むことで明らかになったことがとてつもなく沢山ありました。

1点、これだけは書き忘れてはならないということがあります。
それは「石のまくらに」について僕は今回、避けては通れないはずの言葉を幾つも、敢えて素通りしてこの文章を書き記しました

折角ここまでこの記事を詠んでいただいた皆さんです。
是非残りのことは皆様自身の目で確かめていただければなと思います。
多分、多分だけど7月18日発売の短編集に収録されているはずですから!!


最後に個人的な感想を述べることを許していただけるならば、僕はこの作品をこれ以上ない美しい愛の物語であったと感じています。
ここまで記事を読んで、再びあの2回登場した例の台詞を思い出してみてください。きっとその意味が変わって見えてくるはずです。

短い作品は、それが特に村上春樹さんの読みやすい文体で書いてあれば、ただただ読み流すことはもちろん容易です。
だけど今回のように注意深く書かれたテクストを追いかけていくとき、きっとこうやって美しい何者かが僕たちの前に姿を表してくれる。

これだから小説はやめられません。
読むのも書くのもね。

ということで、ありがとうございました!
7,000字を超えてしまいましたのでもう終わりにします!!
今回の記事を読んでもし「この作品の解説をして欲しい!」なんてことがあったら是非ご一報ください!
力及ぶ限りではありますが、書かせていただきます!
それではそれでは、ありがとうございました。



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