記憶とシーンの欠落が意味するもの〜宇佐見りん『くるまの娘』を読んで〜
(3〜4分で読むことが可能です。)
宇佐見りん『くるまの娘』は、登場人物たちの「記憶」と、描かれた「シーン」の欠落の関係性に焦点を当てて読むことで、作者が描こうとしたであろうものの一部が、より鮮明に浮かび上がります。
今回はそのことについて、簡単に書いていこうと思います。
1.「くるま」で旅するぎこちない家族
まずはざっと、物語の内容確認から行っていきたいと思います。
今作はタイトルにも記載がある通り、「くるま」が1つの重要なモチーフとして扱われています。
その事実を代表する思い出として、主人公である高校生「かんこ」とその家族は、旅行先で車中泊をしていたことも多くありました。
しかし、旅行をするなど幸せだった家族の姿は今は遠く、「かんこ」とその家族は多くの問題を抱えています。
いくつか例をあげると、まずはお母さんの病気。「かんこ」の母は、病気により最近あった出来事をよく忘れてしまいます。そしてこの病気のことが、父親から「家族を壊した」原因であると指摘されることもあります。
次に家族の分離です。父親の暴力や、母親の飲酒、病気による記憶の喪失とあいまって、「かんこ」の兄と弟は、家を出てしまいます。特に兄は結婚をして自分の家庭を持っており、もう実家に帰ることはないとまで言い切っています。
大きくこのような2つの問題を抱える「かんこ」とその家族が、「かんこ」の祖母の死をきっかけに、再び集まる、車で旅をするというのが、本作の大まかなスーリーです。
2.欠落した2つのものが繋ぐ物語の強固な軸
家族という関係が、必ずしも心安らぐものではない。だけど、そうはいってもやっぱり家族であることを否定できない。
そんな人間の心の弱さと優しさを描いたこの作品ですが、特筆すべき点の1つは、ズバリ「記憶の欠落」です。
どんな欠落かといえば、次のようなものが分かりやすいでしょう。
このように、作品の中で主人公の「かんこ」は明確に、自身の、そして家族の記憶にそれぞれ欠落があることを示しています。
恐らく、指摘されれば誰もが身に覚えのあることではないでしょうか。
自分の記憶と誰かの記憶に齟齬がある。これは何も、この作品に特別なことではありません。
ならば何故、このような記憶の欠落が特筆すべき点なのか。
それは、次のようなシーンに象徴されています。
「かんこ」たち兄弟は、父親から厳しい躾け(とは聞こえがいいものの、それは明確にDVと呼ばれるものです)を受けていました。
そしてこのことを苦に(また自身の記憶を守るために)、兄と弟は家を出ているということが書かれています。
しかし「かんこ」だけは父のそのような躾けを美しい思い出として記憶している。
兄と弟、そして「かんこ」の記憶の間にあるこの差異はなんなのか。
そのことを考えた時に重要となるのが、このシーンにおける「欠落」です。
「かんこ」は明らかに、父親の暴力をなかったことにしている。少なくとも、その暴力を自身の言葉で語ろうとしていない。
このことには非常に重要な意味があるのではないでしょうか。
直接的に描かれていない、寧ろ「描かれなかった」ことにこそ意味があります。
「かんこ」たち家族は疑いようもなく、父親の暴力が1つの原因で離散している。それにもかかわらず、父親の暴力が「いま正に」振われようとした瞬間、急に「かんこ」の語りが閉ざされてしまう。
このようなことが、意味もなく起こるはずがありません。
「かんこ」は本当に、父親と勉強していた頃のことを、良い思い出として「記憶」しているのか。それは本当は、「なかったことにしている」だけなのではないか。だからこそ「かんこ」は、今も幸せな家族の虚像だけを見つめ、しがみついているのではないか……。
このように考えたとき、この作品にはまだまだ読むべき、「描かれなかっただけで、本来描かれるべき」シーンが沢山あります。
是非このような、「かんこ」によって消し去られた。或いは「かんこ」の家族によって消し去られたシーンを探してみることはいかがでしょうか。
勿論、「描かれなかったシーン」を探すことは、根拠もなく「かんこ」たちの人生を妄想することではありません。
あくまでも描かれたことから、描かれるべきにもかかわらず描かれなかったことを探すことです。
このことに着目すれば、本作『くるまの娘』をさらに楽しむことができるのではないでしょうか。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
面白いと思っていただけたら幸いです。
またこの作品がどう読めるのか知りたい、というご要望がありましたら是非コメントをください!
感想や要望、お待ちしております。
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