見出し画像

短編小説『あの日々を僕は忘れてしまった』⑽



 本を読んでいて、物語の中で誰かが友達と喧嘩をするのを見ている時は「なんでそんなこと言っちゃうのかな」とか、「なんで分からないのかな」って思う。

 これはもしかしたら僕だけじゃないのかもしれないって思うんだけれど、皆んなはどうなんだろう。本を読まないクラスの皆んなにも、そういう時ってあるんだろうか。
 もしあるとしたら、クラスの皆んなも今の僕みたいに「読んでる時は分かるのにな」って、やっぱり思うのかな。

 1人で夕暮れのオレンジ色の街を歩きながら、僕はそんなことを考えていた。
 ランドセルのベルトを握っている右手がジンジン痛む。タイキくんとケンカをして転んだ時にしてしまった怪我だ。

 見るとそんなに血が出ていないのに、それでも右手がすごく痛くて、その痛みが身体全部に伝わっていって全身がなんだかジンジンしていた。

 きっかけは夏休みの話を先生が始めたことで、僕はもうその時にはなんだか嫌な予感がしていたんだ。
 毎年毎年、どの先生だって決まって同じことを言うから。

「夏休みに旅行に行く人〜?」

 先生は皆んな、そう言って僕たちに手を上げさせようとする。
 僕の家ではお父さんが毎日仕事で忙しいからどこにも行けない。それで手を上げなかった二年生の時、僕は先生に名指しで「どこにも行かないの?」って尋ねられた。

 だから次の年はどこにも行けないけれど手を上げたんだ。
 そうしたら今度は「どこ行くの?」って。

 嘘をついたらいけないと思って僕は何も言わなかった。そしたら先生も困っちゃって、僕はもうどうしたらいいか分からなかったんだ。

 ほっぺたが熱くなって、全身に汗をかきながら自分の心臓が大きな音を立てているのを聞いているしかなかった。

 もうあんな思いはしたくない。

 そう思って今年は、手を上げて先生に聞かれたら遊園地、って答えることに決めてたんだ。
 それでやっぱり先生に聞かれて、そう答えたらタイキくんに「嘘つき」って言われちゃった。

「ねえ、コユキちゃん。僕、嘘つきで悪い子なのかな」

 今日に限ってコユキちゃんはなかなか現れてはくれなかった。

 家についてドアを開けると、キッチンを通り越したリビングの窓からちょうど太陽の光が僕の目に映った。
 夕方の太陽は昼間のとは違って目で見てもあんまり眩しくないから好きなんだ。

 でも、今日はそんな太陽を見てもあんまり嬉しい気持ちになれなかった。

 タイキくんは帰りの会が終わったらすぐに僕のところに来て、遊園地になんて行かないだろ、って言ってきた。

 僕がどう答えていいか分からなくって黙っている間に、タイキくんが僕のことを嘘つき、って言い始めて、気がついたらクラスの何人かがタイキくんの真似をして僕に嘘つきって言いながら手を叩いてた。

 最初はどうしたらいいか分からなくって、やっぱりほっぺたが熱くなって全身が汗だくになっていたんだけれど、段々と僕はタイキくんに言ってやりたくなったんだ。

「タイキくんと違ってもう遊園地なんて興味ないから」

って。

 そうしたらタイキくんは僕に掴みかかってきて、何回か思いっきりほっぺたを殴られた。

 僕もなんとかやり返そうとしたけれど、僕よりもずっと身長の大きいタイキくんには手が届かなくって、結局僕は先生が来てくれるまでずっと殴られてた。

「あーあ、遊園地に行きたいな」

「いけないの?」

 リビングの隅っこで体育座りをしていたら、いつの間にか隣にコユキちゃんも座っていた。

 段々と太陽が山の向こうに沈んでいっていて、部屋もオレンジ色から青色に変わってきている。
 コユキちゃんの綺麗な髪が少しだけ残った太陽の光に反射してとても綺麗だった。

「お父さんはいっつも忙しいから、僕は夏休みもどこにも行けないんだ」

「じゃあ、休みの間中何してるの?」

「うーん……いつも通り本を読んで、宿題をやって。そうだ、コユキちゃん、よかったら夏休みは毎日話そうよ」

「でも、タイキくんと仲直りしなくていいの?」

 コユキちゃんは寂しそうな顔でそう言った。

「仲直りしたいけど……。本で喧嘩のシーンを読んでる時は、すぐ仲直りしなよ! って思うのにね。自分のことだと難しいんだ」

「ケンカなんかする前に、友達じゃなくなっちゃえばいいのかもね」

 コユキちゃんが何を言っているのか分からなくて、思わずコユキちゃんの顔を覗き込んだ。
 でもコユキちゃんは別にいつも通りで、僕の急な反応に驚いているのか首を傾げている。

 部屋がすっかり夜の青色に染まって、段々と寒くなってきていた。

 僕は結局そのコユキちゃんの言葉に何も言うことができなくて、ずっと部屋の隅っこで座っていた。
 タイキくんの顔が何度も浮かんで、そうかと思ったらタイキくんに言われた言葉が何度も浮かんできた。

 怒ったり、悲しくなったりしている僕の隣でコユキちゃんはずっと僕の手を握ってくれている。

 なんだかもう、コユキちゃんがいればどうにかなるのかもしれないなんて思い始めてもいた。



(続く)




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?