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じぶん


わたしは地方出身の、地方っぽい、純粋でちょっとプライドが高く、可愛くも綺麗でもないが可愛らしくはある大学生だ。



わたしの家は、父が優秀で一生懸命働いてくれたから若くして出世しそこそこにお金があった。


地方の田舎の、田んぼと畑に囲まれた、カエルの鳴き声と平和と溜池以外なにもない小さい町に3階まである大きい家を建て、そこに住んでいた。


わたしは隣の街に月謝が何万円かのエレクトーンを習いに毎週土曜日の午前、父が車で連れて行ってくれた。

地方の田舎の小さい町には習い事なんて田圃の横の「そろばん」か、坂のてっぺんにある「こうひつ」か、「スイミング」しかない。あとは野球とかサッカーとか剣道とか、そういうのだったので教室のオルガンや音楽室でピアノをクラスの誰よりも上手に弾くとクラスメイトはさすがだ、と褒め7歳の承認欲求は満たされた。
なんたって足鍵盤使えるもの。


わたしは長女であり、おじいちゃんにもおばあちゃんにも愛されて蝶よ花よと育てられた自信がある。
その頃妹は赤ちゃんであり、同様に可愛い可愛いと育てられた。

朝ごはんは食パンにバターを塗って毎日食べた。マーガリンなんかじゃない。ミルクティーと共に食べ終え、そのあとお母さんが髪の毛をハーフアップに結ってくれた。
みんなとは違う母の手作りのパッチワークの施されたピンクのバッグとピカピカのランドセルを背負って学校に通った。
家に帰って、母と一緒に宿題と書店で買った参考書の“じしゅべん”を済ませた後、花に水をやったりホットケーキを焼いたりして過ごした。
ある日は母がオーブンで焼きたてのクッキーと共に出迎えてくれた。
綺麗に型を抜いたクッキーを見て、わたしも一緒に作りたかったよーと甘え声で拗ねた。


絵本も沢山買ってくれた。雑誌も。キラキラしているシュガーバニーズのシールも。
シルバニアファミリーの家を5つとそれに見合う家具や人形もたくさん持っていた。
流行りの黄色のドット柄のみんなが羨ましがるかばんを使っていた。公園に持っていったら小学校5年生のお姉さん2人に「かわいいねー」と話しかけられそのまま友達になった。
田舎には田んぼと用水路しかないので可愛いバッグを持っただけで友達は増える。

そのバッグは母の手で貸しまわされ、型紙となり、同じ形の違う柄の手作りになったそれを友達が自慢げに持つようになっていた。



子供部屋の広さはリビングと同じくらいで遊びに来る友達はみんなびっくりしていた。

子ども部屋のウォークインクローゼットにはクリーニングの後の紙切れをつけた服がぎっしり綺麗に詰まっていた。
おじいちゃんもおばあちゃんもいつも美味しいケーキと紅茶や、可愛いキャラクターのおもちゃ、文房具を幾つも買い与えてくれた。

みんなが「3階建ての大きな家に住むなんてお金持ちだ!」「ハーフアップみたいな髪が似合うなんてお嬢様だよ」「帰り道、羊ちゃんの家に寄ったら羊ちゃんのお母さんがクッキーを食べさせてくれた」「うちはシルバニアファミリー高くて買ってもらえないよ」 と、わたしを褒めるのでいつしか、自分をお嬢様なんじゃないかと本気で疑った。

それでも、やっぱりDSは買ってもらえず、テレビは1日1時間。1時間経っていなくてもメジャーが始まると「男の子のもの、怖いね。」と父に消された。
車の中はジャズかビートルズか、クラシックがかかっていた。流行ってたのだめは見たことなかったがベト7だけ知っていた。嵐の歌はわからなかった。
キャラクターのTシャツはダメ。スーパーやコンビニのお菓子、マックはダメ。自販機のコーラはダメ。土日は家で家族と過ごさないとダメ。
不文律だらけの我が家は家の中だけで幸せだった。


ある日から母は何度も貧乏であると教えた。あなたはお嬢様ではない、うちの家は貧乏なのだと。あまりにもしつこく教えるものでもう二度と、お嬢様とかお金持ちとかそういう思い上がった言葉も態度も出ることはなかった。

DSを買ってもらえないのも食べたいお菓子が買えないのも全部「貧乏のせい」と本気で信じた。
それでも絶対に自己肯定感も恵まれているという自覚も幸せもあった。訳がわからない。




小学校三年生の春、父親は東京に異動になった。大出世のチャンスだと。地方で就職した父の地方で磨いた努力は認められたんだろう。

父と母は地方の田舎の優しい町でわたしを育てたい、20歳になった時、成人式に行ける町がなじみの町であるように、と思いやってくれ、父だけの単身赴任になった。
わたしは東京に住んでみたかった。



遠い遠い東京で父は365日の一人の夜を過ごした。地下鉄の轟音を聞きながら何を考えたのか。
父の最愛の家族と離れ離れでいる気持ちとは、どんなだったんだろうか。




夏休み冬休みは父の単身赴任先のマンションにうつって一家4人で過ごした。
ディズニーランドとシーと3日かけて周り、中華街の回るテーブルで家族揃って食事をした。小さい妹はテーブルをくるくると回していた。
毎日遠出したり、父の職場、茅場町だったか日本橋だったか、近くまで迎えに行って夜を外食したりした。渋谷のディズニーストアでミニーちゃんの筆箱を買ってもらった。
東京の有名なほぼ全ての場所は行ったんじゃないかと思う。妹はわたしに連れられてどんな時でもお姉ちゃん〜と甘えてきておりその姿は東京のスーツを着た知らないおじさんにも可愛いもんだねえと見られた。東京でもわたしたち家族は幸せな家族に見えただろうし、幸せであった。

休み明け、東京のお土産を友達に配っているとディズニー行ったー?とかどうだったー?とか聞かれている目に羨望の眼差しがあったのは確かだ。
わたしに続いてディズニーブームが巻き起こり、クラスの何人かが続いていくような形でディズニーに行っていた。同じお土産ももらった。


3月の頭、木の芽時、「父に会いたい」と泣いた。
朝の布団にくるまって母の胸で泣き続けた。わけがわからないほど泣いた。



それから3週間ほどして、父はボロボロに変わり果てて東京から帰ってきた。
痩せこけ、頬骨が浮き彫りになり、目がギョロリとしていた。
働きすぎか、頑張りすぎか、休んでなかったのかあまりにも重たい鬱という東京土産を抱えて突然小さい町へ戻ってきた。
「これからずっとずっと東京かもしれない。」と言い放ちぶっ倒れ、動かなくなった。これだけ伝えてまた戻る予定だそうだ。

生来真面目できちんとしており自分に構わず頑張る時に自分を追い込むタイプの父は燃料が尽きて尽きて尽きるまで頑張りその負債はもうどうしようもないものだった。それなのにまだまだ頑張ろうとしている。木の芽時に泣いたのは虫の知らせみたいなものだろうか。


母親は休養をすすめ、父は昇進を目前に仕事を辞め、転職した。
もう父親に治癒の見込みはなかった。鬱の最中、転職に失敗した父はおかしく、狂ってしまった。
将来のための貯蓄を片っ端から凍結し時には大きな声でわけのわからないことを叫んでいた。怖かった。
小学校で仕事ができ優しく顔がかっこいい!とファンクラブまでできたうちの父親ってこんなのだっけ。

「羊ちゃんにもいつか俺が言ってること、わかるはずだから」という父親の一人称が、パパから俺になったことが怖かった。

一度だけまともに戻った父親が落ち着いた声で家族と一緒に治すことを拒み恋人時代の話し方で母に謝ったそうだ。そしてその後の全ては段取り良く決まった。
わたしは父はきっと治ると信じ、離婚する意味がわかっていなかった。


離婚の段取りは子供に見せるものではないらしい。
九州の山の中にあるひいおばあちゃんの大きい家に預けられているうちに、3階建ての大きな家から、庭のない掘立小屋に引っ越した。
と言っても父親のもとをそっと去ったので、本当に身一つで逃げてきたようだった。


貧乏だ、と思っていたら本当に貧乏になった。
もうそこに見栄も、1台100万円のエレクトーンも、学資保険もない。
友達のお姉ちゃんのお下がりの、全然趣味の合わない服を着た。「鉛筆買って」が言いにくく、図書室の落とし物箱の鉛筆を3回くらい、こっそり盗んで使った。
休みの日に、書店で買い物をしていたルーティンは市立図書館で貸し借りするに変わった。

わたしの華やかさに憧れたいくつかの友達はわたしのことをDSを持っていないし子供部屋がないからと遊びに誘わなくなった。
わたしに憧れてピアノを始めたクラスメイトはわたしよりも上手くなって卒業していった。

母は、専業主婦で、全く働いていなかった数年間からパートに出て必死で働いていた。
そんな母の頑張りを知っていたし、12歳の頃には全ての買い物で値札と内容量とを睨めっこするようになっていた。
友達と遊びに行くなら、と母が財布から出した1000円のうち必ず500円は貯金箱に入れていたし、貯めたお金は母親と妹の誕生日と5月のカーネーションに変えるんだと決めていた。





お金はなかったが父の去った父の残した家族にはたしかに愛があった。どんな時も明るく笑顔でそして真面目な母親のおかげで私たち姉妹の精神が貧乏に侵されることはなかった。

一度だけ、父親にあった。
離婚調停を担当してくれた海沿いの弁護士事務所で夕暮れ時の日曜日に会った。「200人中12番目」の私の成績を見てニコニコしながら「まだまだだね」と言った。
そういうところが父親の良いところでありダメなところだ。12/200なんて御の字でしょうが、と書きながら思う。

母は年がら年中庭のない家の玄関にプランターで花を育て、雨の日はミルクティーとクッキーでお茶会をした。
晩御飯は地味で質素な母親の料理を時々わたしも手伝って、今日は何をしたとか誰と何を喋ったとかそういう話をしながら食べた。
5月になるとダークチェリーパイを作って3人で囲って食べた。クリスマスもお正月も小さくて壊れそうな掘建小屋で過ごした。
時々、夜になると、お母さんは「お父さんとね、昔」と思い出話を聞きかせる。その瞳は遠くを見つめている。
美しく綺麗な顔立ちの母親に、言い寄る男もいただろうが母親は「母親」だけを貫いた。


毎日母親のご飯を食べ四畳半の勉強部屋で本を読み、田んぼと虫と野良犬のいる通学路を3年往復して高校を卒業し、 一浪した。
もちろん、バイトしながらの宅浪。
母を困らせてはいけない。身を立てなければいけない。その一心で受験を終えた。現役よりセンター試験は150点上がった。



浪人が終わった春、この町にはもう戻らないことを告げようと9年ぶりに訪ねた父の家は留守だった。
次の日、夜行バスの乗り込み際、窓から見えた母と妹と地方の田舎の田んぼしかない小さな町は、夜明けと共に知らない人と高いビルだらけの新宿に変わっていた。


今わたしは大学に通っている。
なんだかお金は大事な気がしてあまり使えない。
新しい流行りの本は買えないからBOOKOFFとか商店街のか古書店で1冊300円まで、と決めて本を漁っている。




無印とかユニクロとか、そういう服を少し長く着てメガネをかけて過ごしている。
この前は、ブランド物のバッグを買おうとして結局、無印のトートバッグを買った。
何もない日には、変わらず紅茶を淹れクッキーを焼くしあの時の続きを求めて楽器も習ってる。



今更ながら過去の全ては、「教育」だと大学に入って気づいた。DSを買わないことが正しいかわからないが、山と田圃だらけの静かな優しい町で父も母も身と心を削りながら沢山の愛情とお金を使って大事に大事に育ててくれた。

友達のお姉さんのお下がりを纏っても、ユニクロを纏っても、わたしは小学生の時の、母の作ったワンピースを着て黄色いバッグを持っているあの時の気持ちも感性も絶対に忘れない。ボロボロになって両親が与えてくれた無数の幸せを無かったことにできるものか。


わたしの笑った時の顔は他の友達よりも「純粋」な顔をしてるのが自慢だ。








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