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なんでもいい、の罠。

ロケの弁当を決める時、「なんでもいい」。今夜のDVDを選ぶ時、「どれでもいい」。僕が筋トレについて熱く語る時、「どうでもいい」。

弁当を食べる。「オーガニックじゃないのね」。DVDを見る。「ディカプリオじゃないのね」。筋トレのルーティンを終える。「どうでもいい」

「なんでもいい」は、たいていの場合、本当は「なんでもよくない」のだ。

そもそも生きることは、選択の連続だ。「ナポリタン」か「ミートソース」か。「デルタ」なのか「シンガポールエアライン」なのか。「サミット」なのか「オオゼキ」なのか。たいていの人は、そんな自分自身の小さな選択に、日々、振り回されている。「あした何着て生きていく?」。宮崎あおいだってずっと迷い続けてる。オバマがグレーのスーツしか着ないのは、つまり、そういうことなのだ。それだけに「自分ではない誰か」の選択にまで責任を持つのは、とても難しい。僕が欲しいのは「ファイナルアンサー」なのである。無理なら、せめてヒントだけでも欲しいのだ。「ライフライン」でも「フィフティ・フィフティ」でもいいから。そんなわけで、誰かの「なんでもいい」は、僕にとって最大の敵である。

とにかくどんな場面においても、「自分の基準をしっかりと持つ」というのは、とても大事なことだと思う。大げさに言えば「信念」だ。ただし、それには普段から自分が何が好きで、何が苦手なのかを自分自身で言語化し理解しておくことが必要だ。それもできる限り具体的に。「なんとなく」じゃ意味がない。「トマトソースは好き。トマトは嫌い」とか、「コンバースは得意。バンズは不得意」とか、「ブルース・ウィリスはイキママ。ベン・アフレックはトルツメで」とか。それぞれは取るに足らないような「選択」だとしても、その「小さな決断」の積み重ねが、知らず知らずのうちにアーカイブされて、人生の重大局面での選択に活きてくる。(注:自分調べ)。ああ、そうだよ、だって僕はこれが好きなんだもの、って。

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さらに重要なのが、その基準を「誰かに伝える勇気を持つ」ということ。例えば、仲のいい編集者の男の子は、「取材中の食事」を絶対にあきらめない。「今日は疲れてるからフォーが気分だよね」、そんな感じでいつだって自分の意思を周囲にはっきりと伝えるのだ。目的地がどれだけさびれた街だったとしても。そんな風にまっすぐ意思を伝えられたら、ついつい懸命にリサーチしてしまう。目的がはっきりしているから探しやすいのだ。もし誰かが街で一番おいしいベトナミーズを探し当てられたら、気分は最高。まるで「失われたアーク」を見つけたみたい。そんな感じで、いつだって彼は欲しいものを必ず手にする。つまり必要なのは「明確な基準」と「伝える勇気」というわけだ。結局のところ、それが最短で夢ををかなえるコツなのである。「イエス」を言いまくってかりそめの幸せを手にしたジム・キャリーだって、本当の幸せを見つけたのは、はっきり「ノー」を伝えた時だしね。自分ひとりで決断する責任の重さに耐えられず、のらりくらりと選択を避けまくっている僕は、彼のストロングスタイルな意思決定にいつだって救われているのであった。

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なんでもいい、は、なんでもよくない。だから今日は僕も、自分の意思を大切にしてみる。

ラーメンを食べる。酢を入れる。食べる前だ。怒られる。食パンを食べる。最後の角の部分を残す。今度は食べた後だ。やっぱり怒られる。だってそれが「信念」なんだから、仕方ない。

白洲次郎だって言ってたじゃん。「プリンシブルを持ちなさい」



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