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偶然ラーメン屋で10年ぶりに同期の医師に遭遇した【後編】

昨日の続き。昨日の記事はこちら↓

昨日の要点をまとめると、大学の頃、同じ部活に入っていた現在医師の男性と偶然ラーメン屋で出会う。
彼は医師としてアメリカに留学もしており、順調に大病院の教授になっていくキャリアを積んでいるなと私は思っていた。
すると、彼は日本の医療技術が海外と比べ遅れを取っている、原因は何かに挑戦しようとしても挑戦に対する決裁者が多く、また判断が遅い。
日本の病院で臨床しながら研究しているがこのまま病院に残るか、独立するか悩んでいる、ということ。

前職のころの話。
私が20代のころ担当していた施設の話。
その施設の運営は医療法人。
病室を介護の居室に転換して介護事業を始めた。
医療法人の理事長である医師は当時60歳くらい、父が開業したクリニックを継いだ。

父親が院長だった時代から従事している事務長から昔の話を聞いた。
この先代院長が地元ではかなりやり手であり、自分のクリニックを病院にし、しかも大きな病床を持つ総合病院を市と連携しながら建設し、初代院長にもなった、という方。
スタッフにも自分にも厳しかったが、本当に息子(現院長)が大好きだったという。
何とか息子を医師にさせ、自分の病院を継いでもらうんだと若いころから言っていたという。


その施設の忘年会に参加。
2次会でバーのような所へ皆で入り、その際私は院長の横に座る。
院長はお酒が大好き、お酒の勢いもありいろいろな話をしてくれた。
「俺は医者なんてやりたくなかったんだよ。車が好きだったので車関係の仕事をしたかった。オヤジがいうから嫌々私立の医学部受験。たぶん点数足りなかったと思うけどオヤジが上手くやったんだろうな。医者になって名古屋で働いて30歳くらいでオヤジに言われて病院に戻って来た。オヤジが死んで15年、そこから15年か。オヤジが死んだとき、この病院も辞めたかった。でも周りが「院長の意志を継いで欲しい、若院長に着いて行きます」みたいなこと言うから仕方なく。介護やり始めたのも徐々に縮小したいから。息子と娘がいるけど、あの子たちに人生の強要はしたくない」

父親は息子がなるべく苦労しないように、お金も病院も全部準備した、父親は息子に変わっても上手くいく仕組みを考え作ったのだ。
息子はその仕組みを踏襲し進む。
最初は良かった、しかし当初は良いと思っていたことが今となって負債となることが見えてきた。
例えば病院の建物は立派な建設会社に頼み、立派な部材を使っているので維持費が非常にかかる。
立て直すにしても「勿体ない」と周りから言われ出来ない。

立派なものを作る、それを仕組化する、非常に努力と知識、そして忍耐力が必要だったと思う。
しかし立派な仕組みなほど壊せない。
その仕組みを作ってきた昔の人たちはそれが当たり前、壊すよりも守って欲しいと思う気持ちが強い。


似たような事なのだろう、日本の医療制度は。
各地域の大学病院を中心に医局制度が作られ、それでうまく回ってきた。
しかしその仕組みが素晴らしすぎるがあまり誰も壊すことが出来ないものになってしまった。
しかししかし、仕組みを変えないと、と感じている層は確実に増え、少しずつ行動している層も増え始めているような気がしている。

改めてだが、仕組みは作るよりも壊す方が難しいのである。

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