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元不登校の実話③中野さん(仮名)の場合②。

ご覧いただきありがとうございます!

元不登校の社会人の方たちがどのようにして、不登校になり、そこから前進したのかという実話を記事にしています。

今回は、スーパーの鮮魚コーナーで働く、中野さんのお話です。

不登校になったきかっけのお話はこちらです。

併せてご覧ください!




より所と、子どもへの心配。



高校にも行かない僕は、同じ毎日をただただ繰り返すばかりでした。

変化があったのは母の方で、毎日、知らない大人が家にやって来るようになりました。

それ以降、母の態度も変わり、僕が学校に行っていないことや、将来の話を全くしなくなったのです。

僕はとても心が軽くなったのですが、母の変化が正常なものに感じられず、母の笑顔が僕の知るものではありませんでした。

毎日来る大人たちは、楽しそうに笑いながら過ごす日もあれば、ひっそりと会議みたいなことをする日もありました。

そんなある日、僕はその集まりに呼ばれました。

そこには年齢がばらばらの女性が5~6人居ました。

すると、50代位の女性が言いました。

「もう、将来の心配はしなくていいよ。」

その瞬間、首筋に悪寒を感じました。

母を見ると笑顔でこちらを見ており、それが余計に怖くて、すぐにでもここから離れたかったです。

結局、その集まりはいわゆる「ねずみ講」というものをしている人たちの打ち合わせでした。

全員が、子どもが不登校や引きこもりの母親でした。

母は、僕の将来を案じて、ねずみ講を始めて、将来僕にもそれをさせようと考えていたそうです。

母は母で心のより所を探しており、似たような境遇の人たちに共感を覚えて、その中で不安を解消していたのだと思います。

『母が自分のせいでおかしくなった。』

これに少しの間苦しみましたが、いい意味でこれが僕の前進するきっかけにつながったのでした。




大好きな魚たちに救われて。



僕は小さなころから水族館が好きででした。魚の泳ぐ姿が好きだったからです。

それは学校に行かなくなってからも変わらず、魚の図鑑や、飼っている熱帯魚を見る時間が癒しの時間でした。

それだけはどんなにしんどくても欠かすことはありませんでした。

そんな繰り返されていた日常の中、母がおかしくなってからというもの、父とのけんかが絶えなくなりました。

売るための商品を購入するのに、たくさんのお金を使ったのだと思います。

両親のけんかは耐えがたいものでした。そのやり取りが聞こえるたびに、心がえぐられていく感覚におちいりました。

「僕のせいだ。」

こればかり考えるのでした。

母がおかしくなり、両親がけんかを始めて、僕の考えは次第に変化していくのでした。

「もう一度、昔のような日常に戻りたい。」と。




考えの変化が、行動につながった瞬間。



前進したきっかけは何ですかと聞かれたら、「もう一度昔のような日常に戻りたい。」と思ったことですと、確信を持って言えます。

あの変化があったから、考えにも変化が生まれました。

どうしていったらいいのかや、今何ができるのだろうと考えるようになりました。

自分の先のことについて考え始めたのです。

17歳になっていたので、何となく、リミットみたいなものも感じていたので、タイミング的にも良かったのだと思います。

そして、どうしていったらいいかというのは2択でした。

働くか、学校にいくか。

何ができるのかで言えば、まずは高校を調べることにしました。

ネットで検索したら、通信高校や専門学校などが出てきました。

水族館のスタッフになる学校もありましたが、遠いのと、資金面で断念しました。

他に魚に関することで探していたら、大学などで、水産学というものがあるのを知り、高校に行く必要性が見えました。

その時から、生きてる実感が少しずつ出てきました。

希望ってすごいなと思いました。

そして、僕は、学費で両親に負担をかけないようにアルバイトを始めることにしました。

これが人生の分岐点でした。


つづく

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