宮沢賢治 心象スケッチ『春と修羅 序〜わたくしといふ現象は』空耳図書館のはるやすみ推薦図書
昨日に引き続いての投稿です。前編としてこちらの記事からお読みいただけると嬉しいです。現在、宮沢賢治『春と修羅 序~わたくしといふ現象は』を空耳図書館アーティストコレクティブの朗読動画として準備しています。これは空耳図書館ディレクター・ササマユウコの令和2年度文化庁芸術文化活動継続支援事業の一環です。
今日1月20日は「20日正月」とも言われ、暦の上でも正月最後の日。寒さのピークでもある“大寒”から2月の立春に向けて、まだまだ寒い冬も最後のシーズンに入ります。そして今から97年前の大正13年のこの日、宮沢賢治は3ヶ月後(4月20日)に自費で出版する生前唯一の詩集『春と修羅』のための「序」を書き記します。モダンで抽象的な印象の言葉が連なるこの「序」は、「解釈」しようとすると難解とも言えますが、賢治の心象風景がスケッチされたサウンドスケープ(音の風景)として、「音声」と「文字」の両方から受け止めてみると、賢治の心の中にある森羅万象の風景を「目できく、耳でみる」ように感じとることができます。もっと言えば前編でも書いた通り、妹の「死」という喪失感を疾走感に変えて、虚無という冷めたエネルギーを内包する詩人としての「決意表明」としても受け止めることができます。ひとりの青年が「芸術家になった瞬間」に立ち会うような感覚です。この「序」はフッサールの現象学やカントの影響を論じられることが多い作品ですが、賢治はこの作品から哲学を説こうとしたのではなく、あくまでも哲学の形式にインスパイアされた芸術を生み出したのだと思います。それは賢治の作品全般に言えますが、常に「音楽と言葉の間」にあるような独創性です。
今日はせっかくですので、「序」の全編をこちらに残しておきたいと思います。動画にしようと決めてから一日何度も声に出して読んでいますが、何度読んでも言葉を通して音楽を聴いたような感覚が残ります。それはこの作品全体に古代から未来までのゆったりとした「時間」の流れや、地層から宇宙までの大きな「空間」が存在するからかもしれません。
みなさまもぜひ声に出して読んでみてください。
『春と修羅 序』
わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電灯の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電灯の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電灯は失はれ)
これら二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と硬質インクをつらね
(全てわたくしと明滅し
みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつづけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケッチです
これらについて人や銀河や修羅や海胆(うに)は
宇宙塵(うちゅうぢん)をたべ または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟(ひっきょう)こゝろのひとつの風物です
たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
記録されたそのとほりのこのけしきで
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
みんなのおのおののなかのすべてですから)
けれどもこれら新生代沖積世(ちゅうせきせい)の
巨大に明るい時間の集積のなかで
正しくうつされた筈のこれらのことばが
わづかその一点にも均しい(ひとしい)明暗のうちに
(あるいは修羅の十億年)
すでにはやくもその組立や質を変じ
しかもわたくしも印刷者も
それを変わらないとして感ずることは
傾向としてはあり得ます
けだしわれわれがわれわれの感官や
風景や人物をかんずるやうに
そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに
記録や歴史 あるいは地史といふものも
それのいろいろの論料(データ)といっしょに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません
おそらくこれから二千年もたつたころは
それ相当のちがった地質学が流用され
相当した証拠もまた次次過去から現出し
みんなは二千年ぐらゐ前には
青ぞらいっぱいの無色な孔雀が居たとおもひ
新進の大学氏たちは気圏のいちばんの上層
きらびやかな氷窒素(ひょうちっそ)のあたりから
すてきな化石を発掘したり
あるいは白亜紀砂岩の層面に
透明な人類の巨大な足跡を
発見するのかもしれません
すべてこれらの命題は
心象や時間それ自身の性質として
第四次延長のなかで主張されます
大正13年1月20日
宮沢賢治