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岐路 6

人生の一大決心をするうえで、具体的かつ明確であり、それでいて世間が納得するような理由は必要なのだろうか?
理由なんてありはしない。
そもそも生きている理由がわからないんだからそれを探しに行くんじゃないか。
自分を成長させるために生まれ育った土地からなるべく遠くにある未知なる環境に身を置きたという思いは先生の言う「理由」には当てはまらないのだろうか。
大人ってやつは自分の理解できない物事や価値観に対しては否定の一点張りで決して受け入れようとしないものだ。
先生は自分が果たせなかった「東京行き」を僕が実現させようとしていることになぜか憤りを感じているようだ。僕にはそう思えた。

しかしながら「ワガママ」や「迷惑」という言葉に不思議と説得性を感じてしまうのはなぜだろう。
先生は東京行きを諦める選択をした自分をあたかも「節度ある人間」とでも言いたげに、僕に向かって自慢気に吹聴した。
そして「だからお前も諦めろ」と僕に強要する。
 
……………………だからなんだっていうんだ?
 
詰まるところ、結局そこで起こってることは「妥協した」という事実があるのみじゃないか。
彼は諦めたことで何か手にしたモノはあったのだろうか?はたまたなにかその後の彼の人生に拡がりを持たせることに繋がったのか?
いや、そんなことは有るはずがない!
もしそうなら意志を抱いている人間を捕まえてただ否定することだけに躍起にならず、もっと建設的な方向に導こうとするはず。元来教え子が未来に希望を持てるよう指導するのが教師の職分じゃないのか?
 
「これは指導なんかじゃない、単なる嫉妬だ!復讐だ!」

僕はそう解釈した。
大人になると世間との間に様々なしがらみが生じて思うように行動できない。
「ワガママ」だとか「人の迷惑」になるようなことや人と違うことをすると必ず何者かに叩かれ疎外される。そんな集団の中にしばらく身を置いていると、いつの間にか他人との「同質化」に妙な安心感を抱くようになる。やがてそれは思考停止を招く。
無味無臭。没個性。そうなってしまえば、時には白いものを黒いと言わなくちゃならない。
 
先生はきっと若い頃から常に「優等生」たらんと自分に言い聞かせ、ある種の規範性の中で生きてきたのだろう。
自分自身のこれまでもまさにそうだったので解る。いつも他人の顔色ばかりを伺い、人の「迷惑」や不快にさせることはしまいと意識して生きてきた。そういったふうに、妙に事の分別が付きすぎて、物分かりが良すぎて自分は反抗期らしいものもなかった。だが、それは決して僕が「大人」だったからではなく、単に人から非難されるのが怖いという臆病な人間だっただけなのだ。けど、僕の意識がとらわれているその「他人」がいったい自分に何をしてくれたのか?
結果、こんなふうに意志を持てない人間になっただけだ。
 
もし妥協を選んだ結果、後に「こんなはずじゃなかった」と不満と後悔を抱えて余生を過ごさねばならなくなった時に、いったい誰が責任を取ってくれるのか?現に諦めた先生の夢はそのまま不発弾となり、今こうして僕に襲いかかっている。
そして今にも押しつぶされてしまいそうな僕自身も誰にも手を差し延べることなく人知れずもがき苦しんでいる。
 
そうだこれが人生の実相なんだ。
 
どうやら大人というやつは自分が思っていたよりもずっと身勝手で無責任なものらしい。
だったら好きなようにさせてもらう。
誰のために生きているわけでもない。
僕の人生は僕だけのモノだ。誰にも邪魔させない。たとえ親であろうと行く手を阻む者は敵だ。
妥協するのも金輪際やめにしよう。間違っていたっていい。二度と自分の意志を他人に委ねたりしない。
そう頑なに心に誓った。(岐路終に続く)

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