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岐路 5

それから数日経った放課後、担任の先生と再び進路相談が行われた。
その場で僕は、自分の決意の旨を先生に明かした。けれども、僕の希望は受け入れられなかった。

先生「どうしても東京に行かなきゃならん理由はなんだ?どれだけ経済的な負担が掛かるのか分かってるのか?動機やこれといった目的もないのにバカげてる。地元の学校でいいじゃないか。お前のワガママに付き合わされる親の身にもなってみろ。俺にもお前くらいの年に都会に憧れた時期があった。でも、実際行かなかった。親の身体が弱くて病気がちだったからな。」

要するに僕が安易で軽薄だと言いたいのだろう。だが、そう返されても仕方ないと自分でも感じていた。なぜならばその時
 
「なんで東京に行きたいのか?」
 
という先生の問い掛けに対して、僕の返答は
 
「こないだテレビで見たんです」
 
だった。これでは伝わるわけがない。
自分の頭の中にあるイメージをそのまま言葉にしてしまったのだが、言った瞬間
 
「しまった!」
 
と思ったが、かといって別の表現で言い直すこともしなかった。いかんせん自分の思いをどう言葉に表したらいいのかわからない。
僕の貧相な語彙能力では心の内にある本懐を正確に伝えるのは至難のわざだった。なんとかして伝えようと頭をフル回転させても、うつ向いたまま全く言葉が出てこない。先日経験したもどかしさを再び感じることになった。
そうなれば必然的に場は言葉巧みな先生の独演会となる。
 
「語らざれば憂いなきに似たり」
 
と聖書にある。
どんなに苦悩や葛藤をしていても伝えるべき時に伝えなければ何も考えていないのと一緒。
確かに生まれて初めて本気で悩み真剣に考えそして自分でちゃんと答えまで出した。進歩したのかもしれない。だが伝わらなければ意味がない。社会では通用しない。
これが現実なのか・・・
主張こそが己を自由へと導く扉だ。
自分の無力さを痛感した。

先生は偶然通りがかった隣のクラスの先生を呼び止め、僕との議論の経緯を説明し同意を求めた。
結局、それから僕はその二人の大人に寄ってたかって嘲笑の的にされ、膨らみかけていたた自信も誇りも見事に打ち砕かれ、惨憺たる思いで帰宅の途に着いた。
 
この時、僕はこの日の屈辱と無念を決して忘れまいと心に誓った。(岐路6へ続く)


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