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学びは「つながる」ことから始まる~Compath Dialogue Dayイベントレポート~

1年前、北海道東川町という小さな町に生まれた「Compath」はコロナという小さなウイルスに作られた、移動も人と話すこともままならない不思議な時代の中、静かに船出しました。

「一緒に暮らし、一緒に学ぶ」ことを大切にするCompathとコロナの相性は最悪で、満足のいくプログラムができない、もどかしい日々が続きました。
でも、コロナという時代は物理的にも、精神的にも人の歩みを止め、多くの人は自分の足元を自然と見つめ直す機会になり、Compathに賛同してくださる方が徐々に増えていきました。
応援してくださる方の言葉を聞くたび、この学び舎はやはり日本に必要であることを実感する1年でもありました。

そんな不思議な1年を無事に終え、一度Compathの歩みに句読点を打ってみようという創業者2人の想いから、6月3日に「Compath Dialogue Day」というイベントを開催しました。

イベントには日頃から応援してくださっている方から、はじめてCompathに出会った方まで、およそ70名ほどに集まっていただき、Compathのことや学びのこと、社会について対話する温かい時間となりました。
今回は、そのイベントの様子をお伝えします。

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CompathとCompath Dialogue Dayについて

イベントレポートに入る前に、「Compath」と「Compath Dialogue Day」について簡単に紹介します。

Compathはデンマークの公教育機関であるフォルケホイスコーレをモデルに、余白の時間を取りながら、自分への理解や他者との関わり方を学ぶ「人生の学校」を作っています。

Compathについての詳しい内容はこちら↓


デンマークには成人教育機関として、「フォルケホイスコーレ」という先行モデルがありますが、日本において「人生の学校」はまだ未知の存在です。なので、Compathが目指していることや、その存在意義や価値はわかりにくいと思います。

だから、今回はCompath一周年という節目に、Compathの価値を「民主主義」「余白」「学び」の3つの観点から客観的に見つめる機会として、Compath Dialogue Dayを開催しました。

3つの異なるキーワードを、異なるゲストと対話する中で見えたのは、「Compathの学びは接続することから始まる」ということ。

社会と自分をつなぐ。相手と自分をつなぐ。そして自分の内面世界とつながる。個人が1つ1つの関係性を体感することで、自分があらゆる関係性の中にいることに気づく。そして、Compathで生まれる「学び」が結晶化されるように思います。


「社会」とつながる

「社会」ってなんでしょうか?
近年「民主主義の危機」や「社会が分断されている」とよく耳にします。私たちはなんとなく危うい雰囲気を感じ取りながら、実際は何が危ういのかを捉え切れていないように思います。
その原因は「社会」というものに実体感を得られていないからではないでしょうか?

「市民の社会参画の学びのデザインとは?」というセッションでは、一般社団法人NO YOUTH NO JAPAN代表理事の能條さん、Deep Care Lab 代表の川地さん、そして慶應義塾大学総合政策学部教授の玉村さんと、「民主主義」をテーマに「社会とは何か?」について共に探求しました。

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玉村さんは「社会」について面白いエピソードふまえて、こう語ります。

「福沢諭吉は"society"を「社会」ではなく、「人間交際」と訳していたそうです。社会って人と人がつながり、それがどんどん重層的に繋がった状態です。なので、本来は「自分と誰か」という関係性がある時点で、私たちは社会の中にいるはずなんですね。でも、今は「社会」というと巨大で遠い存在に見えてしまう。この意識が変わらないと、社会も変わらないと思います。

玉村先生の話に対して、能條さんは「自分の職業的アイデンティティを外した上で対話する機会が少ないからではないか?」と指摘します。

日本は経済重視になっている中で、職業で社会にコミットしている実感を持つ人が多いと感じています。そして、職業がアイデンティティにつながり、自己紹介をするときも「○○で働いている△△です」といった社会的ステータスを持ったまま話してしまうことが多い。すると、一部の人しか社会に触れていないように見え、社会が遠く感じてしまうのではないでしょうか。社会は一部の人が作っているものではなく、みんなが関わっているものであるはずなのに。

「社会参画」とは、一人一人が対等な関係性の中で、率直に意見を話し、折り合いをつけながら環境を改善していく。そのシンプルなプロセスです。
つまり、身の回りのことと、身の回りの環境について対話することが、社会参画となり民主主義の実践になるのではないでしょうか。

川地さんはその「足元のつながり」も感じた上で、遠い先にあるつながりも感じることが重要ではないかと話します。遠い先とは「死者」であったり、「未来の人たち」のことで、そのつながりを感じることで未来の目線がコミュニティ内に共有され、より柔軟でオープンな社会参画の場になるのではないかと話します。


人間は1人で生きていけないので、必ず誰かとつながり生きています。それは友達や家族といった直接的な関係から、生産者と販売者、そして消費者という間接的な関係性まで、様々なレイヤーの関係性の中に生きています。
つまり、私たちはもうすでに社会の中にいるし、参加しているということ。

だから、自分が繋がっているということを体感し、そして自分の小さな行動が身の回りの人に影響し、そして遠い先へ影響を与えているのかもしれないことを体感することが重要です。

小さな社会で自分が出来ることを実験してみる。それが社会参画を促す1つの学びのデザインであり、その実験所としてCompathはあるのかもしれません。

「相手」とつながる

「社会とつながること」が「他者とつながること」であるとすると、他者とつながるためにはどういう対話が必要なのでしょうか?
この問いには「大人に余白はなぜ必要なのか?」というセッションの対話がヒントになるかもしれません。

このセッションでは「余白」という観点から、NPO法人ミラツク代表の西村さん、日本アスペン研究所理事の岩田さん、そしてデンマークのノーフュンスフォルケホイスコーレで教員を務めるモモヨさんと共にセッションを行いました。

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話の中で盛り上がったのが「率直さ」について。
きっかけはモモヨさんの話し方が非常に率直で、「なぜそんなに率直に話すことが出来るのか?」という問いからでした。

岩田さんは

「日本の多くの場所では、自分の存在と意見が切り離されない。その結果、意見を受容することは出来るけど、尊重することが難しく、なれ合い状態なりやすい。」

と話し、西村さんは対話には率直さが不可欠であることを強調したうえで、

「対話は思考と感性から生まれると思っていて、それらは主観であるので侵害してはいけません。一方、けんかは感情にぶつかり合いになり、攻撃してしまうことなので、対話とは異なってきます。激しく意見を話すことだけがけんかなのではないので、それは混同してはいけないと思います。」

と対話においての「率直さ」について解説されていました。


みなさんは「率直に語る」ことについてどう思われるでしょうか?
率直に話すことが大切だと思う一方で、やはり率直に話すと相手を傷つけてしまうのではないかと不安になる方もいらっしゃると思います。そして、日頃のコミュニケーションで、そのバランスに悩んでいる方も多いのではないでしょうか?

「率直に語ること」は「お互いが本質的に違う存在である」ということを認めた時に意外と簡単になるのかもしれません。
Compathショートコース参加者のみゆうさんは、対話についてこう話しています。

「対話とは相手を宇宙人だと思って話すことだと思います。相手が本質的に自分と違う存在だと知って初めて、対話ができると思うんです。」

相手を全然違う人だと思うことは当然のように聞こえますが、意外と私たちが混同してしまう点です。率直に語る際、「相手のことを傷つけてしまうかな」と思うことは相手に対する優しい配慮である一方で、それは自分の想像の範囲内でしかありません。その中で対話をしていても、お互いが本質的には近づけていません。
お互いが本質的に違う人間だからこそ、自分が率直に話すことで、自分が想像していなかった視点を得ることが出来るはずです。

このセッションで登壇したみなさんは「率直に語ることで、初めて意見が尊重されるようになる」と口をそろえていました。
対話する時、相手のことを自分を同じだと共感することも非常に大切ですが、それ以上に相手と自分は違うからこそ、自分を率直に見せることが相手と繋がるうえでは必要です。


「受容するのではなく、尊重する」
これはつまり「お互い違うけど、なんか一緒にいたいよね」と思える関係性であり、それが相手とつながることなのかもしれません。


「自分」とつながる

他者と繋がるためには、自分が率直に相手と関わることが重要だとすると、自分が率直にどう思っているのかを認識する、いわゆる「自分を知ること」が必要になります。
そして、自分を知るためにも、「自分と対話をする」必要があります。

では、どう「自分と対話するのか?」
そのヒントはイベント冒頭のセッションに隠されていました。

Compath Dialogue Day最初のセッションでは、「学びの旅を続ける人たちの交差点」と題し、Compathのショートコース参加者であるまっきーさんとみゆうさん、陸前高田市で人生の学び舎「Change Makers’ College」を運営している岡ちゃんをゲストにお迎えし、「Compathの学び」について対話を行いました。

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Compathのショートコースでは、参加者が共同生活を共にしながら、とにかく話し続けていたそう。参加者の皆さんはちょっとしたトピックから、話が深くなっていく瞬間を楽しんでいたそうです。ショートコース参加者のみゆうさんはショートコース中を振り返り、こう語ります。

Compathのコースではいろんな世代の人が参加していましたし、お互いの話を否定しないグランドルールがあったからこそ、普段できない話をじっくりすることが出来ました。すると、相手に話していくうちに自然と自分の中で対話が出来て、自分が出来ていないこと・出来たことがすごく鮮明になっていきました。

まっきーさんはショートコースで、「変化しないこと自体が不自然なこと」という言葉をきっかけに、自分が潜在的に感じていた違和感に気づき、ショートコースが終わった後は仕事が手につかなくなってしまったそうです。


それでも、ショートコースで出会った仲間と対話を続け、「自分は上に行きたいのではなく、横に広がりたい」という自分の大切にしたい価値観に出会い、自分が納得する形で転職したとのこと。
他にも、ショートコースに参加していた社会人の方で転職した方が結構いたそうで、Compathの学びが人生に大きく影響しているエピソードでした。


今回のセッションのテーマは「学び」でしたが、ショートコースに参加したお二人の口から「~を教えてもらった」という言葉が全くありませんでした。
自分の体験談を話していましたが、自分で話したことや感じた事を、自分の言葉で話し、それを「学んだ」と言っていたことが非常に興味深いです。そのお話からも、私たちはすでに学べるヒントを自分の中にたくさん持っていることを示唆していると思います。

他の人との対話を通して、自分の経験や空想、感情を一つ一つ眺める。そして、自分の中でつなげていくことで、自分で学びを形作っていく。それをより大きな目線で見ると、俗にいう「自己理解」となり、自分をつながることになるのかもしれません。

答えは自分の中にある

Compathのことを説明する時、私はいつも「対話と余白の学び舎です。」と答えてきました。でも、なぜ対話が必要なのか?余白が必要なのかは上手く言葉に出来ないし、だからCompathの魅力も上手く伝わらず、なんとも手ごたえの無い説明を続けていました。

だけど、Compath Dialogue Dayを通して、Compathは「自分の中にある答えを見つける学び舎」であり、そのために対話と余白の時間が必要なのだと思いました。

Compathの参加者同士で対話をする。お互い本質的には分かり合えないけど、どうつながっていくのか?それは「誰かと共に生きるとは?」という問いを残します。
Compathという学校を参加者みんなで作っていくプロセスは、小さな社会で自分の影響力を知る「社会で自分は何をするのか?」を学ぶ場となる。
そして、その経験一つ一つから、一緒に暮らしている人を通して、自分を見つめる。それは「自分の人生をどう生きるのか?」という問いと向き合うことになります。

Compathで出会う問いは、学校教育で出会う問いのような普遍的な「答え」が用意されていません。なぜなら、1人1人生きている背景も文化も過程も全く異なっているから。だから、自分の中で「人生」という大きな問いを模索し続ける必要があります。

答えのない問いに1つ1つ向き合い、答えを外部ではなく自分の中に求めていく。つまり、Compathは「自分の中にある答えを創る学び場」で、その答えを創るために一度何もしない時間を作り、自分の興味や好奇心と向き合う「余白の時間」が必要なのです。

Compathが1周年を迎えましたが、まだCompathの道はまだまだ続きます。Compathの学びも探求していますが、まだ雲をつかんでいるようなあいまいさを抱えています。これからは少しずつ実践を重ね、そしていろんな人と対話をし続けながら、Compathの学びをみなさんと一緒に創っていきたいと思います。

(執筆/編集 Compathインターン 外村祐理子)

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