対話編(その1 マルクスと心理学 序)

「タイトルの通り、自分同士で対話をすることによって現在の問題意識を整理し、今後の活動につなげていこうと思うわけだが」

「ずいぶんと痛い企画だ。こんなのを面白がって読む人がいると思っているのか?」

「だから自分同士の対話と言っているじゃないか。もちろん読んでいただければ嬉しいが、本来的には自分のためだと思っていただきたい」

「なるほどエゴの塊の記事というわけか。もっともTwitterなんかも、誰かに向けたというよりも、エゴの塊のようなツイートばかりだが……」

「おいおい、君までも読者を敵に回してどうするんだ?」

「自戒のつもりで言っているんだ」

「まあいい。こんなことで揉めているようだといつまで経っても始まらないから、本題に入ろう。君としては、いまのマルクス主義や社会主義への関心・問題意識が、過去の関心や問題意識とどのような連続性を持っているのかを整理したい、ということでいいんだな?」

「そういうことだ。恥ずかしながら僕は、いまでこそマルクスやその後追いの方々が書いたものを面白がって読み、公私ともに果たしてそこにあることが実践できているのかと自問自答する日々なわけだが、大学の専攻はマルクスと直接の関係はないからね」

「まったくだ。多少なりともアカデミズムに触れた君であれば、専門外の領域に対して知ったような口を利く危険性を、ある程度理解しているものと思っていたのだが……」

「それについては反論の余地がない。本来、僕のような素人が、無責任に口を開くことはご法度なんだ。そうであればこそ、僕の過去積み上げてきたものと、今のマルクスに対する関心とが連続しているということを示したいと思っているんだ」

「つまり、過去数年で培ってきた見識や問題意識の延長線上にマルクスがあるのであれば、その方面に関しては、多少の発言権が得られると思っているということか?」

「そういうことだ」

「それは、君の自己満足ではないのか? 君には、マルクスに関連する学位という公的な資格がないじゃないか」

「そういう限界については承知しているつもりだ。だからいずれにしても発言には気を付けなければならないことには変わりがない」

「しかもマルクスという、専門外の領域の中でもとりわけレッドオーシャンな領域に飛び込んだのは、最悪の選択なんじゃないか?」

「レッドオーシャンとは、ずいぶんとビジネスライクな言葉を使うんだな」

「マルクスに関心があるのは君なんだから、僕は別にいいだろ」

「君だって僕じゃないか。一人二役なんだから」

「メタ発言は冒頭だけにしてほしいんだが」

「失敬。まあそれはそれとして、マルクスがレッドオーシャンであることには議論の余地がないのだが、一方で、人文社会科学系の人間であればマルクスを避けては通れないのもまた真であると思う。例えるならば、レッドオーシャンを航海する必要はないのだが、人文社会科学系の人間は皆、海水浴くらいはしなければならないはずだ」

「確かにそれはそうだろうな」

「そろそろ僕の本来の専攻、心理学の話も出さないといけないと思うのだが、例えばヴィゴツキーなんかは明らかにマルクスの影響を受けている」

「ヴィゴツキーというと、教員採用試験でおなじみの、あの『発達の最近接領域』で有名な学者か?」

「そうだ。まあ僕としては、そっちよりも『内言』の概念の方が重要だと思うのだが……」

「どっちでもいい。そもそもヴィゴツキー自体、教員採用試験ではいまだ出題されるが、心理学業界全体でみれば弱小党派中の弱小党派じゃないか」

「確かにヴィゴツキーそのものを研究する人は、現在ほとんどいない。しかし裏を返せば、それだけ彼の主張があまりにも常識化してしまったということでもあるように思う」

「常識化というと?」

「いわゆる『精神間機能から精神内機能へ』のテーゼが、心理学においては大前提レベルにまで定着しているということだ。程度の差は相当あるが、このテーゼを全面否定する人はほとんどいないように思われる」

「おいおい、『精神間機能から精神内機能へ』というのをいきなり言っても、分からない人は多いだろう。もっと説明が必要だ」

「失敬。『精神』というのを『個人』と置き換えればわかると思う。つまり精神間機能というのは個人間のコミュニケーション、精神内機能というのは個人の中の活動、端的に言えば心の働きだ」

「つまり心の働きの起源となるのは、むしろ他者とのコミュニケーションであって、心の働きが先に完成されたものとしてあってそこから他者とのコミュニケーションが始まるわけではない、逆であるということか?」

「そういうことだ。随分と物分かりがいいな」

「一人二役なんだから当然だろう」

「それで、先ほど挙げた『内言』というキーワードが、このことを端的に表す具体例だと思うというわけだ。内言というのは心の中で唱える独り言のことで、まあ自問自答のことだから誰しもこの瞬間もやっているほど自然な現象だ。この心の働きは、まず他者との対話、すなわち外言があってから、それが自分同士でもできるようになるという形で発達するというのがヴィゴツキーの主張だ」

「スポーツをやっていると、次第に自分の頭の中でもイメトレができるようになるというようなものか?」

「まあ、わかりやすく言えばそれと似ている」

「そう考えると別段不思議な理論ではないな。しかし確かに、僕たちは素朴に、まず自分の中での独り言があって、それから他者とのコミュニケーションが発生するという逆の順序で考えている気はする」

「そこに対してヴィゴツキーは、逆であると言ったわけだな。他者との交流、もっというと社会が個人に先立つのであって、個人→社会という順序ではないということだ」

「社会が個人を規定する。確かにマルクス的な議論だな」

「そういうことが言いたかったのだ。他ならぬマルクス自身が、『ドイツ・イデオロギー』で次のように書いている。

もともと「精神」は物質によって「呪縛」されている。ここで物質は、振動する空気の層、音、つまり言語という形であらわれている。言語は意識とおなじように古い。言語は実践的な意識であり、ほかの人々にとっても存在し、したがってまた〔そのことによって〕はじめて自分自身にとっても存在する現実の意識である。そして言語は、意識とおなじように、ほかの人々と交通したいという欲求、切実な必要からはじめて生まれてくる。ある関係が存在するということは、自分自身にとってそれが存在するということである。(中略)したがって意識は、はじめからひとつの社会的な産物なのであり、およそ人間が存在しつづけるかぎりそれにかわりはない。(新訳刊行出版会訳『ドイツ・イデオロギー』p.29より。太字筆者)

もっとも『ドイツ・イデオロギー』はマルクスとエンゲルスの共著によるもので、純粋なマルクスの言葉ではないが、基本的には両者は共通の問題意識を有していただろうから、ほぼヴィゴツキーとマルクスの考えが一致することがわかる」

「まあ、ここまでそのものズバリではなくても、そもそもマルクスの「意識が存在を規定するのではなく、存在が意識を規定する」という有名なテーゼ(『経済学批判』序文)とヴィゴツキーの「精神間機能から精神内機能へ」というテーゼとは、ほぼ完全に一致することは明らかだ」

「そのようなわけで、心理学といえどマルクスと無関係ではない。だから僕としては、心理学における問題意識から、マルクスに入っていきたいと思っているわけだ」

「なるほどよくわかった。考えが多少は整理されたな」

「もっとも、僕は別にヴィゴツキーが最大の関心対象であるわけではない。わかりやすい例だったから取り上げたにすぎない」

「おいおい、これだけ語っておいてそんなこと言うのか? そもそもこの文章だって一人二役なんだから『内言』みたいなものだろう?」

「それは確かにその通りなのだが……。ただまあ君のおかげでオチもついたし、続きの話は次回にしようと思う」

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