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【アート#005】フィレンツェの神童 | イノベーター | ルネサンスのリベラルアーツ

やあ!コミュリーマンです!

 「何者だ!?」

と、お感じになる方がほとんどかと思いますので、気になる方については自己紹介目的の以下3つの無料記事にお目通しいただければ幸いです^^

#001【はじめまして】コミュニケーションが苦手でも大丈夫!自分に合ったコミュニケーションと出会う場所

#002【わがままに生きたっていいじゃない】わがままに生きるってどういうこと? |コミュリーマンが考える新しいわがままの定義

#003【失業者にはなりたくない】デジタル・AI革命時代に向けての「逃走者」ってなに? |コミュリーマンが考える「失業者」ではなく「逃走者」になる方法


サムネイル

お馴染みStable Diffusion Onlineで「ドナテロのダビデ像」をテーマに書いてもらいましたが、難しかった!どうしても後の世代の天才ミケランジェロのダビデ像に引っ張られるようで、何度も何度もプロンプトを組み直して本記事の執筆開始が2023年6月28日17:06開始になってしまいました。いやほんと何に時間をつこてんねん。私は自分が書いた以下の記事にて皆さんに対して「時間」が最も大事と説いているのにも関わらずですよ。(2023年6月29日16:06に気づいた、ドナテッロも石造のダビデ像つくってる!だからか!)


「シリーズ、アート」

さて、日本で1992年に放映された映画「ミュータント・ニンジャ・タートルズ2」が大好き過ぎる私は、やっと推しのドナテロ(紫のキャラ)について記事を書くことができることに感極まっております。


嘘ですよ!?

ルネサンス期に活躍された方の、あのドナテッロについての記事ですからね!?(知ってましたね)

このシリーズの経緯については以下の記事冒頭にサマって(サマリー=簡単にまとめる)おります、どうぞご参考くださいませ^^


今回も情報ソースは比較的信頼に足るであろう英語版Wikipediaや、アメリカ合衆国で著作権が消滅したWikisource、補足は論文などを元にしております。

私の学びをぎゅーっとまとめてお届けし、皆さん一人ひとりの学び直しの参考にしていただければ光栄です^^

ちなみにドナテッロ、天才が故にめっちゃ仕事の依頼がきていたが、受け過ぎて途中で投げ出した仕事があったというビジネス下手な側面があったっぽいですね^^

おちゃめ♡

さっそく、一緒に学んで参りましょう!


ドナテッロ~フィレンツェの神童

ドナート・ディ・ニッコロ・ディ・ベット・バルディ(1386年頃-1466年12月13日)は、イタリアの彫刻家である。

 ✅コミュ:ドナテッロって名前じゃないのっ!((((;゚Д゚))))ガクブル

ドナテッロ(ドナテロ)という名で広く親しまれた彼は、フィレンツェの地に生まれ、学んだ古典彫刻の知識をもとにルネサンス様式の彫刻を開発した人だ。彼の最も有名な作品である「青銅のダビデ像」の官能的なエロティシズムは、他の作品ではほとんど見られない。この作品は古代以来初の自立した裸の男性彫刻であり、彼の作品の多くと同様にこの作品もメディチ家からの依頼で制作された。

 ✅コミュ:すごい人ですね^^古典彫刻を学び古代を復古させるだけでなく、新しい新時代の「ルネサンス様式の彫刻の開発」というイノベーションを起こした人と言えるのでしょうか。それと、青銅のダビデ像は確かに裸だけど、そうかエロティシズムと判断するのですよね。私は「かっこいい」と感じるのですが、皆さんはいかがでしょうか?

英語版Wikipediaより


どんな人?

彼についての実に様々な記事が、「ドナテッロは愛想がよく好かれているが、彼のキャリアのビジネス面ではむしろ苦手であると述べている。」としている。次の世紀のミケランジェロのように、彼は自分が処理できる以上の注文を受け入れる傾向があった。

 ✅コミュ:もう好きです、個人的には^^愛想がよく好かれていて断れなかったのでしょうね、いやぁ人の良さが伝わって参ります♪

多くの作品は完成が数年遅れたり、他の彫刻家に完成を委ねたり、制作されなかったりした。ここでもミケランジェロと同様に、彼はメディチ家から安定した支援と後援を受け続けた。

 ✅コミュ:前言撤回じゃあっ!(# ゚Д゚)ゴラアッツ!「嫌いだねぇ!」「なんじゃぁサボっても金貰えんのかい!」という皆さんの声が聞こえて参りますよ、本当に。(絶対怒られろ)ドナテッロを大のお気に入りとしていたコジモ・ディ・メディチについての記事は以下です^^

彼に対する全ての記事が、「彼が非常に迅速かつ自信を持って石を彫り、粘土やワックスでブロンズの原型を作った。」ということに同意している。 当時のイタリアのルネサンス彫刻家は、ほとんど常に助手を雇い巨匠が作品の一部を彼らに任せることが多かったが、おそらく大規模な工房を管理するのが得意ではなかったであろうドナテッロは、アシスタントを雇うのがせいぜいだったようだ。経験豊富なアシスタントの数は比較的少数であり、その多くはそれ自体で重要なマスターになっていった。

 ✅コミュ:へえ。大規模な工房を管理するのが得意ではなかった理由が気になりますね。ですが結論、理由を特定するには至れませんでした。個人的な邪推でしかないのですが、「彼が非常に迅速に自信を持って原型を作る」という圧倒的なプレーヤー型であったからじゃないかな?と感じましたね。


ドナテッロ、ウェディング

 ✅コミュ:見当たりませんね。同性愛?との記述が見えましたが、確証が無いので「不明」です。


初期のキャリア

1401年、ドナテッロは約15歳のときに父に付き添って滞在していたピストイア(現在のトスカーナにある都市)で乱暴を起こし告訴されている。そこにいる間、ドナテッロはフィリッポ・ブルネレスキと友人になり、おそらく一緒に仕事をしたようです。約10歳年上のブルネレスキとの逸話は多く存在する。

 ✅コミュ:出て参りましたねブルネレスキ^^次は彼の記事かなあ?ブルネレスキとのおもしろい逸話があったので、以下引用形式で一つご紹介いたします。

作品名:「サンタクローチェ十字架」にまつわる話
この作品は、おそらく 1406年から1408 年頃、または1409年から1410年頃の、ドナテッロによる多色の木の彫刻である。
ドナテッロの友人フィリッポ・ブルネレスキによって、「君のこの作品は十字架上のコンタディーノ(農夫)を描いているとして批判された。
これを受けたドナテッロは、どうやら「だったら君もつくってみたらいい」と憤慨したようだ。
「それはその異常なリアリズムのためである」と英語版Wikipediaにはあるが、これをきっかけにブルネレスキは1410年から 1415年頃、サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂のために自分の作品「キリストの磔刑」という十字架像を制作するようになった。
後日、ブルネレスキからの夕食へ招待されたドナテッロは、彼の家にあったその作品を初めて見たとき、ただただ茫然とし抱えていた卵(やチーズ)を落としてしまった。
そしてドナテッロは一言、「私がつくったのは確かに農夫だった。」と応えた。

※ヴァザーリの『芸術家たちの生涯』で引用および追加されたアントニオ・ビッリの本(フィレンツェ中央図書館にある1515年頃の写本)が元ネタのようですが、ヴァザーリの書籍における彼の知識や理解には数々の誤謬が指摘されているようです。

英語版Wikipedia

 ✅コミュ:以下がその2作です。皆さんにはどちらが「農夫」に見えるでしょうか?^^

ドナテッロ作:サンタ・クローチェ聖堂バルディ・ディ・ヴェルニオ礼拝堂
ブルネレスキ作:サンタ・マリーア・ノヴェッラ聖堂ゴンディ家礼拝堂


ドナテッロは1404年から1407年にかけてロレンツォ・ギベルティの工房で見習いとして働き、最後の数か月間は給料をもらって働いていたと記録されており、工房の主要プロジェクトであるフィレンツェ洗礼堂の青銅の扉に取り組んでいたようだ。

 ✅コミュ:ギベルティの作品も凄いようですね!これも記事にしたい!

ドナテッロは、石、青銅、木、粘土、漆喰、ワックスを使用し、独創的な方法でガラスを使用するなど、多種多様な材料を用いて多くの作品を残した人物である。

 ✅コミュ:代表的な作品をいくつか見ていきましょう^^


作品

1408年初頭までにドナテッロは十分な評判を獲得し、大聖堂のための等身大の預言者像の制作依頼を受けるようになった。(22歳!?)


「大理石のダビデ像」1408~1409年、あるいは1416年頃

上記の「大理石のダヴィデ像」はドナテッロの最初期の重要な依頼であり、伝統と密接に結びついた作品だ。

 ✅コミュ:大巨人ゴリアテの頭部が足元にあるにも関わらずこの表情。なんというのでしょうか、「進撃の巨人」のリヴァイ兵長を彷彿とさせませんか?(私だけでしょうね、ええ)


大聖堂の「福音記者聖ヨハネ」1409~1411年頃

上記のヨハネ像は、これまでの後期ゴシック様式とは一線を画す作品であり、人物彫刻像におけるある種「自然主義の追求」と「人間の感情表現」に新境地をもたらした重要な彫刻作品といえるとされ、高い評価を得ている。

 ✅コミュ:なーんで「石」でこんなに美しいローブが表現できるのでしょうか。お顔の精巧さもさることながら、見惚れてしまいます。


「ヘロデの祝日」1423~1427年頃

(前述した)ギベルティは、 1417年からシエナ洗礼堂のフォントのプロジェクトに参加していた。大理石ではなくブロンズ製のレリーフを6つ設けるというのはギベルティのアイデアだったようだが、1423年までにギベルティはまだ仕事に着手すらしておらず、代わりにドナテッロに「ヘロデの祝日」の作成依頼が与えられた。(全体のテーマ洗礼者ヨハネの生涯であった)

 ✅コミュ:この作品の解説としては、「左のヘロデ(王であり領主)は、大皿に載せられた洗礼者ヨハネ(4つの福音書のうちの1つの作者)の首を見せられ、恐怖に後ずさりする。中央右ではサロメ(へロディアの娘だが、ヘロデではなく前夫との娘)がまだ踊っています。後ろの空間では音楽家たちが演奏しており、その向こうにはおそらくヘロディアと(ヘロデの妻であり、ヘロデの実兄の妻だったが娶った)思われる人物が描かれている。」とされている。


 ✅コミュ:難しいっっっ!!!



 ✅コミュ:聖書も引っ張り出して本記事を書きながら私自身が学び直しておりますが、非常に情報量が多く難解ですね^^おもしろいエピソードも多くあるので楽しいで、少しづつ記事にして参ります。


「悔い改めたマグダラの像」1440~1442年

この作品は、その前例のないリアリズムに驚きを持って受け入れられた。芸術におけるマグダラのマリアの多くの単体人物像の通常の描写とは異なり、ドナテッロの作品のやせ細った姿は真逆だ。他のほぼ完璧な健康状態の美しい若い女性を描いたほとんどの作品たちの描写とは大きく異なっている。この姿はマグダラが30年もの間ずっと砂漠で悔い改め過ごした姿を再現したものとされている。悔い改める以前は罪深い仕事とされていた売春婦であった。弟子たちの4つの福音書によると、イエスに清められ心を入れ替えた描写や、十字架の近くに立ちイエスの埋葬を見守る姿、イエスの復活の最初の目撃者の一人としての描写なども描かれている。

 ✅コミュ:ご覧になられていかがでしょうか?かなりの衝撃的な印象を持たれませんか?パッと見「美しいとは言い難い」ですよね?いいえ、ディスっているのではありません。アートについての学び直しを始めたばかりのコミュリーマンも、マグダラのマリアというと若く綺麗に描かれた女性絵画の印象が強くありました。しかし、ドナテッロの作品は真逆も真逆です。だけど私はもの凄く心を惹きつける「ナニカ」を感じてなりません。悔い改めイエスに捧げた信仰心が、この表情に表されているのでしょうか。


晩年

ドナテッロの作品は非常に多様かつ個性的であったため、彼の影響は15世紀のフィレンツェ全体、そしてフィレンツェをはるかに超えた彫刻に見らる。彼は自分のスタイルの重要な要素、特に古典的な形式とスタイルの復活を、同世代の他の優れた彫刻家たちに共有した。また多くの若い彫刻家が彼を支援したと考えられているが、彼の工房でのエピソードは文書化されていない。

ドナテッロ1466年の他界時期はフィレンツェに戻り過ごしていたが、明らかに働くことが困難であったことがわかっている。亡くなるそのときまで弟子や助手の手を借りて大規模なプロジェクトに携わっていたようだ。有名な作品には、ディチ家の埋葬地であるフィレンツェにあるサン・ロレンツォの 2 つの説教壇が挙げられる。

そして1466年12月13日に他界した彼は、サン・ロレンツォ協会に眠るコジモ・ディ・メディチの墓の隣に埋葬された。

 

最後に

1501年に天才ミケランジェロによって製作されたダヴィデ像は、ドナテッロへの賛歌であり挑戦でもあるという記述がWikipediaにあります。

ドナテッロその人が生きた時代だけではなく、今日に至る後の時代にまで多大な影響を与えた人だったことは間違いないですね^^

本記事は私自身のインプットが楽しすぎ&難しすぎて、執筆にほぼ丸二日をかけてしまいました。

本当は昨日中(2023年6月29日)に上げたかったことは、昨日の記事に書かせていただいた通りです。

いやあ、おもしろかった。

私の記事をお読みいただく一人でも多くの方の「楽しい学び直し」のきっかけになれれば嬉しいです^^


それでは、また次回です。

コミュ力上げて、モチベを上げよう!
それが、本当になりたい自分になる第一歩です!

ありがとうございました!^^


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