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古墳って、強制労働で作られたものじゃなかった!?

昨日、ウォーキング部で福岡県八女市(やめし)の古墳めぐりをしたので、古墳について書いてみようと思います。

そもそも古墳とは、文字通り「古い墳(土を高く盛った墓場)」です。一般に、3世紀中頃から7世紀頃にかけて作られたとされています。3世紀といえば、中国では三国志の時代、唐、晋、南北朝、隋といった多くの王朝が存在していました。すでに、高度な文明が発展していたわけです。

日本においては、古墳時代は弥生時代と飛鳥時代の間に位置します。弥生時代には大陸から食糧生産の技術が伝わり、水耕耕作が行われるようになりました。その影響は、昨日訪れた八女市を含む北部九州にも及びました。

(八女の地名には、朝鮮半島との関連を示すような名前も残っていそうです。)

北部九州には、大仙陵古墳(仁徳天皇陵古墳とも言われる)のような壮大な古墳は少ないものの、多くの古墳群が存在します。

多くの人々が古墳を、地元の権力者が奴隷を使って墓を作らせたものだと考えがちです。エジプトのピラミッドに対する一般的なイメージも、同様です。しかし、最近の研究では、ピラミッドの建設は農閑期に行われ、作業者には食料が配給されたという説もあります。住民が農作業ができない季節に、公共事業であるピラミット建設に携わらせ食料を配給したのでは?ということ。そうですよね。いくら権力を振りかざしても、住んでくれる住民がいないと何もなりません。農繁期は畑で働き、権力者に献上することによって、権力者が、それを蓄える。農閑期いわゆる作元が育てられない時期には、蓄えられた食料をピラミットを作るお手伝いをしてくれた人に再度分配する事によって、住民たちの安定や安心を提供する。それでないと、暴動が起きたり反乱が起きたりするかもしれません。つまり国(地域)で安心して暮らしていけるように作られた仕組みなのではないでしょうか?お金が存在しないからこそできたのかもしれません。

※当時の公共事業であるピラミッドが今も観光資源として外貨を稼いでいると思うとすごいですよね。

日本の古墳にも、同様の考え方が適用できるのではないでしょうか?弥生時代に水田や畑を開墾する過程で出た大量の土砂は、畑から少し離れた場所に山積みにされました。その山を使って、地元の権力者や長老を葬る「墳」が作られたのです。
つまり古墳みたいな山が町の周りにできるわけです。そこに、地元の権力者が亡くなったときにそこに葬りたい。地元を面倒見てくれた長老に感謝をして、葬りたい。と思っても不思議ではないでしょう。

日本のある地域でまとめ役がいて、その指示のもとみんなで田畑を耕す。耕すときに出た土砂が山積みになる。その山積みになった小山がたくさんあり、村の長老が亡くなったときに、その小山をその長老に対する感謝として、整備して、墳(土を高く盛った墓場)する。それが、今ある古墳になる。

中国の殷代には、生贄として兵や馬が埋葬される文化がありましたが、日本にその文化が伝わった頃には、すでに兵馬俑のような代替品が使われていました。そのため、日本の古墳からは埴輪が多く出土しています。

なので、古墳というのは、ただ単に権力者のお墓があったというわけではなく、そこに住む文化や歴史を考えると面白いです。

今回のウォーキングでは、磐井の乱や筑紫の国、朝鮮半島との関係、そしてヤマト王権との戦いについても学びました。そして、ヤマト王権に負けたため、今回東区ウォーキング部の本拠地である「糟屋屯倉」(かすやのみやけ)をヤマト朝廷に献上したとのこと。つまり、現在の糟屋郡(香椎を中心とした東区含む)を継体天皇に上げたから死罪を免ぜられたと。私達の今住んでいる土地はそんないわれもあり差し出された土地なんですねw

ただ歩いて食べるだけでなく、その地域の歴史を知ることは非常に面白いです。
実際には、食べて飲むことが一番の目的だったりもしますが(笑)。

というわけで、古墳に関することを自分なりにまとめてみました。(一応、諸説ありです(笑))

いつかまとめて書きたいと思っていたので、良かったです。

追記
この記事を書いて教えてもらったことを追記
古墳は、小石や瓦礫が多いなども、畑や田圃を作るときに邪魔な小石が出てきて山積みするのもよくわかりますよね。

#労働 #古墳 #ピラミッド #公共事業 #強制労働 #ブラック企業 #古墳時代 #磐井の乱 #筑紫の国 #糟屋屯倉 #糟屋郡

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