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自己からの逃亡

僕は長い間、自分から逃げたかった。「なにもしていない」、「前に進めていない」自分から逃げたかったのである。

留学に行ったのは、ほかにもいろいろ理由はあったにせよ、そのような葛藤(なにもしていないと思われるのが怖い、というような)自分へのプレッシャーから逃れるためでもあった。

なぜこんなことを思うようになったのか?というのは、自分では明確に答えを出せないが(というか、答えなどないのかもしれないけど)、おそらく、僕は人一倍に、他人の期待に応えようとしすぎたのである。

誰かの期待に応えることが人生の第一目標になると、自分の人生を他者のせいにし始める。自分の行動が「あの人が言ったから」という理由で行われることになる。これを自己責任の放棄と言わずになんと言うべきか。残念ながら僕は長らくこういう人間だった。

これは言い換えれば他者の価値観のなかで生きるということで、さらに言えば他者に「服従する」ことでもある。

他者の価値観のなかで生きるのは非常に楽である。自分の人生の責任を負わなくてよいのだから。そして、いつの間にか、他人からの期待を自己に内面化し、心のなかに、他者の中にいる「もう一人の自分」を、自分の中にも作り上げていた。何を言っているのかわからない、という人は、いちいち「こうしなさい」と命令してくる他人が、心のなかに住んでいるとでも思ってくれたらいい。

留学に行った。そのような自分から逃れたいと思ったが、結局逃れられなかった。僕はずっと「他者のまなざし」のなかに生き続けた。恐ろしかった。このまま一生逃げられないんじゃないかと思った。

しかし、留学から帰ってきて思うのは、その「もう一人の自分」は、もう僕のなかにはいないということである。明確にどこが分岐点だったかはわからない。でもまあ、わりと辛い思いもし、大切な人とも別れて、ようやく自分ときちんと向き合えたのがよかったのかもしれない。

どうせ他人は他人だし、いちいちうっせぇな、くらいに思っておくのがよいと思う。人が嫌がるようなことはもちろんしないし、自分の言動で誰かを無意識に傷つけることには細心の注意を払ってはいるけれど、そんなこと言っても他人は勝手に傷ついて被害者意識を持ったりするので、考えても仕方ない。それと、自分の目指す道をいちいちけなしたり「無理だ」とか言ってくるやつもいる。そういうやつには中指立てとけばいいや、と思っている。そんなもんだと思う。他人に期待するのがおかしいのだ。 

こんな風に気持ちが変わったからといって、苦しみが減ったわけではない。他人から離れることは、自分と無理にでも向き合わなくてはならないということで、それは、今まで他人に決めてもらっていたことを、自分の意志で決めなくてはならないということでもある。自分の意志でなにかを決断することはひどく苦しいことだ。はっきり言って怖ろしいことでもある。しかし、そういう生き方を選択したのだから、もう後戻りはできない。それに、自分の人生を他人のせいにして生きるよりも、今のほうがまだ、人間らしく生きられているとも思う。

どちらの人生が正しいのかは、正直なことを言えばわからない。結局のところ人間は弱いので、というか僕は精神的に未熟なので、自分の決断を完全に引き受けることはまだできていない。本当のことを言えば、全部他人のせいにして過ごしたいし、どんな責任も負いたくはない。でも、もしそういう風に生きたら、また同じように悩んでしまうのだろう。いつまで経っても堂々巡りになってしまう。

こんなふうに悩むのはおかしなことなのだろうか?おかしなことかもしれない。でも、こうやって悩むことは、自分の人生に真摯に向き合っている証拠なのだ。少なくとも僕は、そう思っているし、せめてそう信じていたい。

もし自分と同じように悩んでいる人がいたら、その人と話してみたい。自分の悩みをくだらないと断罪せず、きちんと理解してくれるような人と。世界は広い。一人くらい、そんな人がいてもいい。

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