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大切なものは人によって違うのかもね。という話

先日、Zoomで会合があったのだが、そのとき、一人の友人に、「院進してどうすんの?意味あんの?」と言われた。

僕は文系には珍しく(?)、卒業後に大学院に進学する予定だ。その理由と言えば、昔からなんとなく研究者になりたいと思っていたというのもあるし、いろいろあって学部は全く興味の惹かれないところに入ってしまったので、大学院で好きなことをやろうと考えたというのもある。研究者になるかどうかはまだわからないけれど、少なくとも修士までは研究をしたいと考えている。

さて、話を戻すと、僕は愛のない一言にイラッとしつつ、「逆にお前が就職する意味はあるのか?」と心のなかで毒づきながら、その場は適当にやり過ごした。たぶん彼のほうはそんなこと覚えていないだろうが、言われたほうはやはり覚えているものだ。(単純に僕が根に持つタイプなだけかもしれないけど。)

そこで思ったのが、案外、自分の興味のない分野だったり、自分の通らない道を通っている人には、寛容になれないものなのかもしれない、ということである。僕にもおそらくそういう経験はあるし、もしかしたら、僕が言われたような一言を、僕自身も気づかないうちに発してしまっていたかもしれない。人間、結局のところ、自分の歩いた道のことしかわからないものである。では、そもそも違う道を選んでいる時点で、理解し合うことのほうが難しいのだろうか。そんなことはないだろう。知らない価値観に出会ったとき、まず大切なのはきちんとそれを理解しようとすることだ。最近は、このプロセスを踏まず、表面だけ見て他人を批判するような人が増えている気がする。

だから、一度「理解できない」と思った相手でも、理解しようと努力することは大切だ。とはいえ、やはりあらゆる価値観を理解すること、その全てに寛容であることは、実質的に不可能である。もしかすると、僕に厳しい言葉を投げかけた彼も、ある程度は理解しようとしてくれ、その上で言ったのかもしれない。

そこで、他人のことはわからないけれど、「まあ、そういうのもあるよね」と思うことは大切なのではないかと考えたりしている。僕らは、猫がちゅ〜るを美味しそうに食べるのを見ても、なにも思わない。「かわいいな〜」と撫でたくなるだけである。猫のほうも、僕らが例えばトマトジュースを飲んでいるとき、「なんであいつらは赤い汁を飲んでるんだろう」なんてことは思うかもしれないけど、結局行き着く先は「まあいいや」という感情ではないかと思う。猫にとっては、僕らが赤い汁を飲んでいようがいまいが、どうでもいいのだ。(猫の気持ちを本気で理解しようとしたことはないのだが。)

こうして、自分が(理解しようと努力した上で)やっぱり理解できないと思った相手でも、「まあ、そういう価値観もあるよね。わからんけど」と、突っぱねることはアリなのではないかと思う。これはある種の不寛容だとは思うけれど、もしきちんと理解しようとして、それでもダメなら、むりやり理解することはない。大事なものが自分とは異なるだけなのである。

なんだかよくわからない話になってしまったけど、他人に寛容でありすぎることは自分に不寛容になってしまうし、その逆もまた然りである。理解できない他人に寛容になることはとても難しい。だから、結局のところ、理解できないと思ったら「そういう人もいる」と考えることも必要だと思う。その人がその道を選ぶ理由は、自分にはわからないかもしれないけれど、その人にとっては意味のある道なのかもしれない。「自分にとって意味のないものが、他人にとっては意味のあるものになる」ことを知ることは意外と大事なのだ。自分にとってゴミだったものが、他人には宝に見えることだってあるのだから。

こういう態度はある意味「不寛容」なのかもしれない。しかし、多様性の尊重が叫ばれる時代になったからといって、人間自体が変わったわけではない。自分には理解できない価値観が目の前には山のように転がっているが、神にでもならない限り、それら全てに対して寛容でいることは不可能だ。だから、不寛容という枠組みのなかでできるだけ寛容すること、自分にとって意味のあることと、他人にとって意味のあることは違うのだと知ることは、案外大切なんじゃないかと思っている。


もうちょっと不真面目な?というか、小ネタも挟んだりして気の抜けた文章を書きたかったのに、結局真面目な文章を書いてしまって後悔しています。ウケをとりたい。

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