日記#11 正解のジャッジなんかいない世界で

7月24日

分かれている気がしない。世間?世界?社会?自分の外なにもかも。昨日の夜、オリンピックが始まった。開会式を見ていた。国立競技場の外では、開催に反対してデモをしている人たちがいて、その音が入らないようにするためか、中継される会場の音楽は異様に小さかった。総合演出が解任され、アフリカ系だからとキャスティングから下ろされた人がいることが判明し、この後に及んで森がまた何らかの役職に就こうとするそんなニュースが出ていた前日に、何もかも忘れて盛り上げようとしているテレビとの落差を感じていたはずの自分のTwitterのタイムラインも、選手の入場が始まれば、ドラクエだFFだと、一色に沸いた。検索欄を見るとトレンドは「#森喜朗さんありがとう」。

自分の心を持ちながら、自分の直感に揺れながら、社会を見る目が、どうあればいいのかわからない。目指すような眼差しを、社会に注げるときが来るのかどうかわからない。自分は孤立していて、理解不能で、正しさとかとは関係なく人の心は動いていて、「感動」を前にするとこうも人間は理性が機能不全に陥るのかと失望し、でもその考えこそが傲慢なのか無知なのか、どこを足掛かりに立っていたらいいのか、わからない。

漠然とずっと、分断を超えるような言語を手に入れたいと、思ってきた。いろんな角度、いろんな層に対して、違う世界を素直な気持ちで染み込ませるような、そんな言語を習得したいと願ってきた。だけど自分が自分として在る限り、否応なしに自分の存在が分断の根になる、そんな気がしてならない。恋人との会話だってこんなに難しくて、自分が言葉通りに投げていることがこんなに伝わらない。自分としては、苛立ちながら同じ言葉を投げ続けているだけなのに、何故か突然、4回目で真意が伝わったりする。でもそれがなぜだかわからないから、また私たちは新しい3回のゴミみたいなやりとりをして、スタートラインに立つ。一歩も進まない。言葉だけが宙に放たれて、宙に浮かんだ足ばかりが交互に回転している。走っても走っても同じ場所。前に伸ばした手は何も掴まなくて、必死に紡ぐ言葉は空中分解。それを繰り返すうちに、自分ごと消失する一歩手前のような、常にそんな状態にいる。

何かが差し出されれば、それには必ず何かは言える。議論にすべき批判と、論点に乗ってしまったら負けなイチャモンが、同じ顔を装って混在している今に、疲弊する。正当な怒りが封じられ、インテリみたいな顔したヘイトが蔓延している。でも、誰が正当なんて言ってるの?信用していい審判は1人もいない、世界。諦めた顔した自分が、どうせ全部誰かの主観だよって言い放つ。惨めに傷つくのはいつまで経っても諦められない自分。

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