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あなたの頭撫でた嘘のような朝日だった

 ドアを開けて、粗く切り刻まれた無数の写真が雛を守る鳥の巣のように、座り込む彼女を取り囲んでいるのを見て、僕はもうここに居ることはできないと思った。彼女は俯いていて、眠っているようにも見えた。
 僕はリュックサックを下ろして床に置き、刻まれた写真の破片を踏まないように気を付けながら、彼女のそばに寄って膝をつき、身をかがめた。彼女は眠ってはいなかった。真下の一点を見つめながら、荒く、静かな呼吸を繰り返していた。
 彼女の名前を優しく呼びながら手をのべようとした時、まだ指先も上がらない内に彼女は
「さわるな」
 と言った。
 僕はそのまま彼女のそばに座ることにした。
 彼女が次に口を開いたのは、そうして僕が座り始めてから4時間と12分が経った時だった。

 その時、彼女は大きく息を吐いた。
 糸の切れた操り人形のように俯いていた顔が天井を仰いだ。シーリングライトの白い光に目を細め、彼女は今初めて僕の存在に気づいたかのようにこちらを向いた。
「お腹すいた」
 なにか食べようか、と僕が言うと、答える代わりに彼女は僕に問うた。
「きみはいつからそこにいたの?」
「大体4時間くらい前からかな」
 ふーん、と言いながら彼女は視線を下方に泳がせた。
「4時間、そこでずっと見てたの?」
 僕は視線を切らずに、そうだよ、と答えた。
「私がこうなってるのを何もしないで見てたんだ。ほんとに役立たずだね」
「何を言っても嘘になる気がしたんだ」
「なにか言えばいいと思ってるからだよ。どうせ嘘ばっかりなんだから。口から出まかせ言うしか能がないんじゃん」
 もう彼女の言葉で僕は傷つかなくなっていた。頭のいい彼女が僕の負い目を無意識に見抜き、的確に浴びせてくる罵声を、僕はいつしか岩のように無感動な心で聞くようになっていた。
「私のこと馬鹿にしてるんでしょう」
「馬鹿にしたことなんかないよ」
 彼女の目にぎらりとした光が横切るのを見た。
「してるよ! 今もしてる! 馬鹿にされるくらいならお前なんていない方がいいんだよ! 消えてよ」
 こうなった彼女を、僕はかつて何度も抱き寄せ、そのたびに身体に生傷を増やした。言葉を尽くして愛を語った。語れば語るほど、彼女はそこに裏切りの影を見た。頭を撫でようとしては手を弾かれて、今目の前で親を殺めた仇を見るような目で睨まれた。愛しくてたまらなかった彼女の顔が屈折した憎しみに歪むのも今はもう見慣れて、その底に奇妙な美しさすら感じるようになっていた。
 自分の言葉で興奮していく彼女の罵声を聞きながら、いつものように急速に冷えていく心の中で、何か今まで届かなかった部分に自分の手が触れているような気が僕はしていた。4時間と少し前、玄関の扉を開けて、切り刻まれた写真の中でうずくまる彼女を見た時、僕の硬直した精神の奥に、体温を帯びた確信が蘇ってくるような感覚があった。
 彼女はここに居てはいけない。
 僕はここに居てはいけない。
 もうとっくに限界だった。でも、騙し騙しやってきたのは僕に勇気がなかったからだ。僕はいつの間にか床に押し倒され、首には彼女の細い指が絡みついていた。
 虚しい力がこもっていた。
「もうやめよう」
 僕は彼女の目を見て言った。彼女の黒髪が垂れ下がって、鋭利な刃物のように僕の輪郭をかすめていた。
 彼女は息だけで短く笑った。
「ほら、もう嫌になったんだ」
 僕の首から手を離すと、彼女はぶらりと腕を下げて立ち上がった。
「最初から好きなんて言うなよ、嘘つき」
「僕と別れてほしい」
 うあぁ、と搾り出すような悲鳴が聞こえた、と思った次の瞬間には、僕は起こした上体を再び床に押し倒され、力任せに胸を彼女に殴られていた。ふざけるな、と彼女は絶叫していた。
 私がどれだけ、どれだけ、
 時間を返せよ、私の時間を、
 お前がいなければもっといろんな事ができたのに、
 違う人を好きになりたかった、
 どこまで自分勝手なんだよ、
 皆に言いふらしてやる、お前のせいで私の人生はめちゃくちゃになったって、
 お前の親にも言いふらしてやる、
 涙が落ちていた。それは僕の胸を濡らしていた。
 本当は全部わかっていた。彼女の中に燃えているのは憎しみではなく、怒りでもなく、ただただ巨大な悲しみなのだ。世界に見放され、信じていた全てから裏切られた深い傷が、今も彼女と彼女以外の全てとを断絶している。
 僕がしたことは一番残酷なことだったかもしれない。理解者の顔をして、愛情を盾にその深い亀裂を見ないふりをして、彼女の手を取ればこちら側に跳んできてくれると思っていた。
 でも、それがもはやどうしても叶わないということを、僕はずいぶん前から理解していた。認めることが怖かったのだ。今まで彼女を傷つけてきたどんなことよりも深く、自分が彼女を傷つけるということが。僕が今までしてきたことは、断崖に立つ彼女を後ろから囃し立てていたに過ぎなかったということが。
「もう死ぬよ」
 彼女はいつの間にか立ち上がって、ふらふらとベッドに歩み寄って身を沈めるところだった。
「お前がこの部屋からいなくなった瞬間に自殺する」
 僕に背を向けて、彼女は横になった。細い背中が、細かく震えながら上下していた。
 僕は自分が何をするべきか分かっていた。でも、これから自分が行うことや話すことは、その全てがたちどころに跳ね返って僕を完膚なきまでに傷つけるだろう。僕は全てを裏切ろうとしていた。彼女と付き合ってきた4年もの年月、その誠実さや愛情を。僕が費やし、彼女に費やさせた時間を。わずかに光る美しい思い出を。
「君と付き合ったのは間違いだった」
 僕の声は、この狭い部屋の壁や床や天井に吸収されて、彼女には届いていないかのようにも思えた。彼女がこちらに向けた背に、何かを読み取ることはできなかった。
「君がどんな人か分からなくて、でもすごく魅力的に思えて付き合った。でも、付き合い続けるうちに、僕は君といて疲れるようになった。君が求めるように、僕は君を四六時中安心させることはできない。僕に寄りかからせることはできない。できないのに、できる振りをして君を苦しめていたと思う。君と付き合うことはずいぶん前から僕にとって負担だった。好きだから、愛しているから、とごまかしてきたけど、もう僕は降りたい。限界だ。君と付き合うことはできない」
 彼女が小さな拳を叩きつけた胸が、じんじんと傷んだ。部屋はざらつく静寂に包まれ、ふいに彼女の細い声がそれを破った。
「言いたいことはそれだけ?」
 ――君はここに居てはいけない。
「僕と別れてください。お願いします」
 喉まで出かかった言葉を飲み込み、僕は頭を下げた。
「全部嘘だったんだね」
「今となっては、そうだね」
「私はね、ずっと信じてたんだよ」
 少し前とは別人のように細く、小さく、可憐な彼女の声に、僕はどこかほっとしている自分がいることに気づいた。目頭が熱くなった。
 今すぐにベッドに駆け寄って、彼女を抱きしめたいと思った。
「ねえ、こっちにきて」
 彼女は寝返りを打ってこちらに向いた。2本の白い腕が半袖のワンピースから伸びて、僕に向けて広げられていた。
「そっちにはいけない」
「もう抱いてくれないの?」
 彼女の大きな目が、僕の底の底まで見通すような深い目が、潤んで揺れている。
「好きなら抱いてよ。最後でいいから」
 僕は少し黙って、呼吸を深く2回した。
「ここで終わりにしたい。ちゃんと別れてほしい」
 彼女は両腕をシーツの上にぽとりと落とすと、しばらくの間僕の顔を見ていた。やがて、仰向けになって目を閉じた。
「ここは嫌だ」
 夢を見るように、薄く唇を開いて、
「どこかに連れて行って、ちゃんと終わらせて」

 近所のカーシェアに空きがあったので、僕たちは車に乗り込んだ。走り出した時、深夜1時を回ったところだった。
 彼女は助手席にもたれ、薄く目を開けて正面を見ている。
 FMラジオでは、知らない女性アイドルがパーソナリティの男性と海外旅行の思い出について話していた。カーナビを設定していない車内は静かで、そのアイドルの声だけが奇妙に明るかった。
「写真、破ってごめんね」
 彼女は独り言のように言った。交差点の信号が黄色に変わる。僕はブレーキペダルを浅く踏みながら曖昧に相槌を打った。
「ううん」
 深夜の国道は閑散として、タクシーやトラックがまばらに行き交っていた。道沿いの街灯とコンビニが誘蛾灯のように、白々とした光を放っている。前を行く車のテールランプの赤い光が、互いに近づいては離れを繰り返しつつ連なって、生き物の群れのようにも見えた。
「いつから嫌いだったの?」
 信号が青に変わる。
 車を運転するのは好きだった。ペダルを踏んで、ハンドルを操っている限り、車はどこかに自分を連れて行ってくれる。周囲の状況に注意を払い、適切に操作をして、自分の命をどこかに運ぶ。それはとても意味があることのように思えた。
「3年くらい前から」
 彼女は「そっか」と小さくこぼし、「ひどいね」と言った。一瞬、僕の方に顔を向けたらしかった。
「今まで何だったんだろう」
 彼女の声が震え、さめざめと泣き出したのがわかった。僕は車線を左に移し、高速道路に入る準備をした。

 由比ヶ浜に着いたのは午前2時半を過ぎたころだった。適当なパーキングに車を停めて、僕たちは海岸沿いを歩き出した。
 深夜の海辺は静かだった。時折通過する車と、一定間隔に置かれた街灯と、遠くに見えるコンビニと、道路沿いのマンションからまばらに漏れる室内灯以外に光はなく、暗闇の奥から波音だけが低く響いた。
 鎌倉は、僕と彼女が恋人として付き合うことを決めた街だった。その日、江ノ島水族館の帰り道、江ノ電を途中下車して僕と彼女はこのあたりを歩いていた。ふいに彼女が砂浜に降りていった時、沈もうとしている日が水平線の彼方から強い光を投げかけて、彼女の細い身体を飲み込んだ。僕もその背を追いかけて砂浜に降りた。光の中で僕は、彼女の長い髪が黄金色に燃え上がるのを見た。
「なつかしいね、鎌倉」
 彼女は海の方を見ていた。あの時、腰まで届きそうだった髪は、今は肩の上で切り揃えられている。
 彼女がショートボブに髪型を変えたのは、2年前のことだ。僕は泣きながらハサミを持つ彼女の顔を思い出した。床に散乱した髪の黒さを思い出した。何を思い出しても、痛みがあった。
「うん、この辺を歩くのは久しぶりだね」
 ぽつぽつとそんな会話を交わしながら、僕たちは海辺の道を歩いた。
 波の音がする。
 この海のそばで恋人になり、初めて彼女の髪に触れた時の、世界の秘密に触れたような高揚が思い出された。あの時、彼女は光の中で笑っていた。その笑顔の中にすら絶望を隠していたことを、僕はわからなかった。それ以外の何もかもも。
「海のそばにくると落ち着くの」
 彼女は言った。あの時も同じことを言っていたことを、僕はふいに思い出した。
「すぐに死ねるような気がするから」
 僕はあの時、どんな顔でこの言葉を聞いていただろう。あれから4年が経ち、彼女はまた海のそばで同じことを思っている。この4年間、僕たちが築いてきたものは何だったのだろう。あるいは、壊してきたものは――

 コンビニまで歩いて飲み物を買い、トイレに寄ってから僕たちはまた浜辺に戻ってきた。砂浜に腰を下ろして海を見ていた。
 空は暗闇の底を抜けて、白み始める気配があった。サーファーがぽつぽつと集まり始め、由比ヶ浜の早い朝が訪れようとしているようだった。
 何かを言うべきなのか、何を言うべきなのか、僕はわからなくなっていた。彼女は不思議なほどに落ち着いて、穏やかな表情でミルクティーを飲みながら海を眺めている。
 日の出が近づくにつれ、夏の空気が山を越えて、この浜辺に流れ込んでくるような気がした。
「連れてきてくれてありがとう」
 彼女は、海を見たまま言った。
「今までごめんね。たくさん愛情をくれてありがとう。自分のことがどうしても信じられなくて、自分を守ることでいっぱいいっぱいになって、頭が真っ白になるの。たくさん傷つけてごめん」
 僕は彼女を見つめた。もはや、僕に残された言葉はなかった。僕の持ち得るどんな言葉も、彼女が絶望と対峙するその世界では稚拙な嘘でしかないのだと思った。震えるほどの無力感が、僕の全身を満たした。
 海を見つめる彼女の端正な横顔は、まだ地平線の下にいる太陽の薄明かりを受けて青白く見えた。泣き腫れた目の中に深い瞳があった。ふいに彼女がまたこちらを向き、その宇宙の果てのような瞳が僕を射抜いた。
「ねえ、ありがとう。大好きだよ。幸せになってね」
 僕の目から、涙が溢れてくるようだった。愛情、悲しみ、無力感、怒り、感謝、そのいずれともつかない、何か壮絶な感情の波濤が、胸の中で暴れた。
 彼女の髪に触れたいと思った。この手で頭を撫でて、彼女を抱き寄せたいと思った。同時に、彼女に指一本でも触れた瞬間、全てが徒労に終わることも僕には分かっていた。涙は、拭いても拭いても瞼を溶かすように流れてきた。
 そんな僕を見て彼女は笑った。
「泣かないで」
 ごめん、と僕は蚊の鳴くような声で言いながら目を拭った。そして、
「ありがとう」
 たった一言、そう絞り出すのが精一杯だった。それは涙のせいではなかった。
 僕は今、何を手放し、何を失おうとしているのだろう。彼女は何から放たれ、何を失い、何を得るのだろうか。僕が今していることは正しいことなのか、アパートの一室で決めたことは正しかったのか、今までしてきたことは何だったのか、何も分からなかった。胸が燃えるように痛んだ。
 高速で逆流するベルトコンベアの上を、全速力で走ってきたような数年間だった。どちらかが止まった時のことなんて、とっくの昔に考えるのをやめてしまっていたのだ。
 僕は海を見た。水平線の彼方に、小さく船のような点が見えた。どうすることもできなかったのだ。それで今、僕と彼女はここにいる。それだけは変えようのない事実だった。
 僕は深く呼吸をした。1回、2回、
「あ」
 彼女が視線の向きを変えた。海に向かって左側に横たわる低い山が、黄金色に燃えていた。僕と彼女はそれを見つめた。みるみるうちに山は光に包まれ、やがてその突端から、嘘のように眩しい朝日が昇った。
「朝だ」
 呟いたのは僕だった。圧倒的な光の波が、僕と、彼女と、それ以外の全てを飲み込んだ。世界の全てに低く光が射した。由比ヶ浜の波に、営業を続けるコンビニに、遠くに見える江ノ島に、
 砂浜に座る彼女に。
 僕は彼女を見た。彼女は身体を朝日の方に向け、目を細めていた。全身に光を浴びながら、羽を広げるように手足を伸ばし、やがて下ろして、ゆっくりと大きく息を吐いた。
 黄金色の光が、短く切り揃えた彼女の髪を包んでいた。朝日が、何年も前から待ちわびていたようにその光が、彼女の頭を愛おしそうに撫でているかのようだった。

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